京丹波の歴史~明治時代編~
だいぶ現代に近づいて参りました。
明治時代に入り、鎌倉時代から続いてきた武士の時代が終わりを告げました。
廃藩置県などにより、中央集権化を進め、政府の機能が京都から東京に移り、地租改正、徴兵令・・・などなど、欧米列強の植民地化を防ぐため、日本国の近代化を進めるべくさまざまな改革がなされていきました。
さて、そんな時代の中での京丹波、見ていきましょう。
明治時代・丹波町の行政区
明治4(1871)年7月、藩が廃止され府県が置かれました。
このときは、亀岡県・久美浜県・園部県に属していましたが、11月には京都府に抱合されたそうです。
船井郡は203ヵ村から成り、これを15区に分け、区ごとに区長が置かれ、各村の庄屋や年寄も廃止され戸長が置かれました。
丹波地域は、3つの区域に分かれていましたが、明治22(1889)年には町村制、府県制、郡制が実施され、
竹野村・須知村・高原村に統合されました。
地域ごとに見ていくと、
○竹野地域
江戸時代・・全域亀山藩
明治9年に、辻村・中畑村・笹尾村が合併して口八田村に。
中村・下村・鎌倉村・西階村が合併して高岡村に。
明治22年に、口八田村・高岡村・水戸村・新水戸村が合併して竹野村に。
○須知地域
江戸時代に亀山藩領だった、須知村・市森村・上蒲生村・下蒲生村・塩田谷村・安井村、
園部藩領だった、上野村・曽根村、
これと院内村・森村が明治22年に合併して須知村に。
○高原地域
明治8年、園部藩領だった谷村・旗本領だった紅井村・新宮村が豊田村に。
園部藩領だった坪井村・旗本領だった高屋村が富田村に。
旗本領だった上十勢村と下十勢村が実勢村に。
園部藩領だった知野辺村・黒瀬村・尾長野村・白土村・蕨村が下山村に。
そして明治22年に、この豊田村・富田村・実勢村・下山村が合併して高原村になりました。
栄えた須知町
江戸時代の宿場町であり、交通の要衝でもあった須知は明治の時代でも栄えていました。
明治10年代の道路改修・商品経済の発展により人と物資の動きが多くなり、観音峠以西の経済上の要地としても成長し、鉄道が園部まで開通した明治23年からの10年余りが、この須知の全盛期だったそうです。
今から約130年前が全盛期だったとは・・。
椿坂を越えて曽根へ向かう旧山陰街道の旧道と分かれて、蒲生野へ出る新設の山陰街道には急速に商店・民家・劇場・牛市場・東本願寺別院(門戸寺)が連なりました。
東京・京都へは、漬松茸・茶・生糸・木材・薪炭・竹・大麻・畳表・米・味噌を移出し、
石油・肥料・衣料品・食料品・雑貨を移入したそうです。
その中でも、めっちゃ丹波っぽい「漬松茸」。
名産品として、東京で1万樽も売れた逸品だそうで、どうやって作るかというと、松茸の笠をとり、石突きを取り、皮をむいた茎を大釜で蒸した後、水で冷やし、大樽で水漬けして貯蔵。小樽で塩水に漬けました。
東京では高値で売れ、薄く切ったものをうどんに入れて、お正月などに食べられたそうです。
会社も設立され、須知銀行や園部貯蓄銀行須知支店・須知魚商合資会社・船井蚕業株式会社・須知煙草合資会社など・・
なんだか急に現代っぽくなりましたね。
ちなみに明治36年の須知の主な生産物は、米・大麦裸麦・清酒・醤油・味噌・茶・刻み煙草・瓦でした。
須知以外の地域の商業
須知以外の地域にも商店などがちゃんとありましたよ。
新水戸・・茶屋・医院・菓子屋・紺屋・醤油屋
水戸・・医院・宿・茶屋
曽根・・茶屋・かじや・宿・酒屋・小島屋・かご屋・よろずや
上豊田・・豆腐屋・菓子屋・製茶・牛医者
口八田・・雑貨食料・茶屋・瓦屋・酒屋
豊田・・料理・茶屋
実勢・・茶屋
富田・・万屋飲食・仕出し・かごや・瓦屋・臼・土臼・桶
今でも面影があるところはあるのでしょうか?
現在ではあまり想像つきませんが、いろいろなお店があったのですね。
京都府農牧学校
京都府立丹波自然運動公園の北門の近くに、「京都府農牧学校跡」と書かれた石碑があるのをご存知の方も多いと思います。
明治9年10月に、曽根・豊田・蒲生にまたがる10万坪の地域に京都府農牧学校が開校しました。
この学校は、アメリカ人のジェームズ・オースチン・ウィードを主任教師として招き、日本農業教育三大発祥地の一つ(あと二つは東京と北海道)として記念すべきものでした。
そんなすごい学校があったのか!と思いますよね。。
しかし・・
授業はウィード先生の講義を通訳して行われたそうで、実習も英語だったため、生徒は苦労したといいます。
それよりも、時は明治。住民たちは外国人にまだまだ抵抗があったでしょうし、鹿や猪は食べていたでしょうけれど、牛を食べることは一般的ではなかったと言われています。
これに加えて、明治10年におこった西南戦争(西郷隆盛が中心と言われている反乱です)の影響などにより、経済的にも事業が厳しくなったそうです。
・・なんとわずか3年で廃校してしまうのです!短ッ。
京丹波の小学校のはじまり
江戸時代の子どもたちは、寺子屋といった自宅などの一部を開放した1教師1教室に10~30人の子どもが学ぶという形式でしたが、
明治政府の大改革のひとつに、教育の振興があり、明治5年には学制が発布されました。
京丹波町においては、現在の丹波ひかり小学校に通じる須知小学校の前身である尚綗堂(しょうけいどう)ができ、
翌6年には同じく丹波ひかり小学校に通じる高原小学校の前身である日進校と、竹野小学校の前身である辻村小学校が。
さらに翌7年には下山小学校の前身である日進校下山分校ができました。
竹野小学校の前身・辻村小学校は、名前を変え、明治34年に現在地へ。
須知小学校の前身・尚綗堂は、明治24年に現在地へ。
高原小学校の前身・日進校は、明治22年には子守神社の裏に校舎があり、明治41年には富田公民館の敷地にあったそうです。
下山小学校の前身・日進校下山分校は、白土本願寺にあったのが、明治17年尾長野へ移り、明治23年に現在地へ。
さまざまな変遷があって今に至ることが分かりますね。いろいろ名前も変わっていましたが、割愛させていただきました。
明治時代の戦争と京丹波
人類の歴史の中で避けて通れないのが、やはり戦争です。
明治時代は戊辰戦争からはじまり、西南戦争・・
そして明治27.28年の日清戦争(対中国)、明治37.38年の日露戦争(対ロシア)。
丹波町でも14人の戦病死者がいたそうで、丹波町誌に名前が書かれています。
また、国に献金したことを示す表彰状なども残っているほか、明治33年に陸軍が大演習をした際に、兵士の宿舎や食料などが徴発されたといいます。
明治時代の京丹波・おわりに
さいごに、江戸時代の主役だった?農民はというと・・
明治6年の地租改正により、土地の私有権が認められましたが、土地に対する税金はこれまでの物納(米など)ではなく、富作凶作に関係なく金納制になり、江戸時代と税率はあまり変わらなかったため、現金収入の少ない農民は変わらず苦労したようです。
身分制度は廃止されたので、農民とかいうくくりではなくなったとは思いますが、特権を奪われた武士や成長していった商人などさまざまな人たちが、時代の急激な変化の中で生きていった時代が明治時代なのかなと思います。
そして、藩から県に変わったことや、学校ができていったこと、刀にちょんまげ姿から、欧米化していったことなど、現在に急速に近づいた時代でもありますよね。
つまみ食いして書いていったので、抜けている情報も多々ありますが、大きな時代の流れにおける京丹波(丹波町誌がベースなので、瑞穂や和知の内容がなくてすみません・・)の様子がイメージできたら嬉しいです。
今回もお読みいただきありがとうございました。