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800万円の宴会に、はがれた唇!?〜戦国のおもてなしに見るお酒との付き合い方〜

忘年会にお正月、それから新年会。
時節柄、お酒を飲む機会が増える人もいるかもしれない。

お酒や飲み会との付き合い方を考えるきっかけには、ならないかもしれないが、
今回は戦国時代の宴会やおもてなしを見ていこうと思う。

戦国時代の宴会のハウツー本「御成記」

室町〜戦国時代に書かれた「御成(おなり)記」という記録がある。いわば正しいマナーの本であり、申し送り事項のような感覚もある記録だ。

「御成」とは、政治権力者が居住する家から出て、特定の寺社や家臣の家にいくこと。そこでは、儀礼としての饗宴がおこなわれる。身分の低い者が高い者をおもてなしするのだ。

「御成記」には、引出物や献立、客間の装飾、能の番組といった内容が書かれているため、またやるとき、別の人物がやるときの参考になる。

「三好邸御成」800万円のおもてなし

三好邸(亭)御成とは、永禄4(1561)年に、将軍・足利義輝が三好義興の家に行ったときのおもてなし。

どんな内容かざっくり見てみよう。

式三献(プロローグ)

まずはじめに「式三献」の儀式がある。家の主(三好義興)とお客さん(将軍)との献杯儀式だ。
 
飲むだけではなくお膳が3つつく。お膳の上には、白いかわらけ(おちょこの平たい版)、生姜、梅干といった薬味、鯉の刺身などが置いてある。

交互に3度酒を飲み、順序やどちらの手で酒器を持つのかまで決まっているおごそかなものだ。

饗宴がはじまる

さて、ここからが本番。別の部屋に移り、17献にわたる酒と料理がふるまわれる。ここでは17回に渡り、酒と料理が上げ下げされる。(お、多い!)

また、引出物は三好亭の場合は料理の上げ下げの度に渡され、(馬や太刀、鎧など)途中で能がはじまり、宴会は進んでいく。

料理の内容は山海の珍味を並べた以下のような物。
(参考文献を一部改変してのせました)
1、鳥・雑煮
2、のしあわび、鯛
3、湯漬(お茶漬けみたいなの)、香の物、からすみ、菓子
4、麺類、添え物
5、イカ、芋籠(いもごみ)
6、饅頭
7、ハモ、あおなます
8、三方膳(葛粉に色をつけて山形に盛りタレ味噌をかけたもの)
9、エイ、すし
10、羊羹(小豆を羊の肝の形に作って蒸したもの←どんなん?)
11、ごんぎり(小鱧の丸干し)
12、魚羹(ぎょかん。魚と野菜入りのスープ)
13、削り物(乾燥魚を削ったもの)
14、まきするめ、さざえ
15、シイラ、くらげ
16、つぐみ、鯛の子
17、はまぐり、からすみ

もうちょっと一つの膳にまとめてもよさそうなラインナップと思ったのは、私だけだろうか。家臣の分もあわせて1000以上のお膳が用意されたそうだ。

さて、こちらの宴会ですが、お値段ズバリ・・・

「80貫文!」現代の価格で800万円以上かかっているらしい!
権力者はすることが違いますね〜(三好さんは大丈夫だったのでしょうか)

武家社会における「酒」の意味

武家社会において、酒は重要な意味を持っていた。祝い事には酒が必須。主人や貴人より盃を賜ることは名誉なことだった。
(たしかに、有名人とか推しとか尊敬する人物と場をご一緒したら、特別な気分になるのはわかるかも?)

飲み過ぎ注意!

ただ、宣教師ロドリーゲスの書物を読むと、衝撃の事実が・・・
「度がすぎる程酒を強いるように仕組まれている」「酩酊」「多くの者が完全に前後不覚に」「生来飲めない者までも飲もうと努める」とある。

酒の飲み方にもいくつかあり、例えば10人が輪になって座り、順番に飲み&隣の人に注ぐ「十度呑」、10杯の酒を飲む早さを競う「鶯呑」があるとか。

…どう考えてもヤバいやつだ。
まるでひと昔前の大学サークルのノリ…だなんて言ったら怒られるかしら。

唇が、くっついちゃうのよ

もうひとつ、酒を飲むための器がくせものだった。(当時の人はどう思っていたのかは知らないよ)

「かわらけ」=素焼きの土器

「かわらけ投げ」といって、高いところから、かわらけを投げて厄除けなどするアクティビティがあるけれど、あれと同じ。(城崎温泉の大師山や琵琶湖の竹生島など)

かわらけは儀礼に用いられ、使い捨て。
表面には何も塗っていない、素焼きのお皿。こちら、表面が乾燥しているため唇の皮が剥がれるという最大のデメリットをかかえていたのだ。

宣教師のロドリーゲスもこう言っている。

飲む時は盃にひっつかないように、飲む前にまず唇を動かして十分湿らせておかないと、たやすく盃からはずすことができないからである。

考えただけでも、ちょっと痛い。
ぺりっ。唇に血が滲んだ武士・・・

なぜこのような盃を使ったのかはわからないが、花見やBBQの紙皿や紙コップのように、さっと処分できるとか、洗い物が面倒くさかったから…ではあるまい。
重要な儀式のため、新しい、穢れがないを意識したのか、仕切り直しを意識したのか、みなさんどう思われます?


旧来の堅苦しさを、ぶっ壊した信長

信長は、かわらけではなく、杉や檜の木材そのままか、それに漆を黒く塗ったもの(自分の姿が移るほど綺麗だったそう)を好んだ。

(いいよね、木の酒器。
私のふるさと秋田の秋田杉を利用した、曲げわっぱの酒器はおすすめ)

信長は、宴会も変化させた。
ただ装飾のためだけに置かれた魚や鳥や冷たいものをやめ、料理があたたかいまま適当な時に出されるようになった。

信長、やるじゃん。
無駄に豪華にしたものよりも、必要なものはなにか、変更や削ぎ落としていくことは、何時でも大事なことだよね。

現代人も酒をのむ、宴会をする

これほどの過剰なおもてなしは現代ではなかなか見ることはない。
しかし、戦国時代。御成のおもてなしに失敗したら、自分の首(リアルな意味で)だけでなく、家そのものが滅ぼされてしまうとか、今後の家の行く末がかかっている・・・。

一体どんな思いでおもてなししたのだろうか。
酒の味はわかったのだろうか。
もてなす側や酒が飲めない体質なのに参加するはめになった武士の気持ちを思えば、胃が痛くなってくる。笑

今日は、金曜日。
クラフトビールでも飲もうかな。(日本酒じゃないんかい)

<参考文献>

金子拓『戦国おもてなし時代 信長・秀吉の接待術』


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