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京丹波町の歴史~先史・古代編~
家の中にばかりいると、どうしても視野が狭くなってしまいます。
そんな時は、歴史の旅に出ましょう。
自分たちが生きられるのは、せいぜい100年。
100年では到底知り得ない、経験しえない体験を先人達は積み重ねてきました。
先が見えないのは、どんな時代でもどんな人でも一緒です。
私たちは、「今」しか正確な意味で生きられないのです。
未来は幻想でしかないし、過去もまた同じです。
だから、今できることを精一杯やろうと、私は心がけて毎日過ごしています。いつもうまくいくとは限りませんが・・・。
前置きが長くなりましたが、たまたま『丹波町誌』という本があったので、歴史について書かれている部分をまとめてみました。
昭和60年の発行なので、情報が現在までに変化している可能性もありますが、すぐに図書館に行けないし、今現在どこのどなたが研究されているのかも分からないので、
本に書いてあることを、少しでも歴史が身近に感じられるといいなと思って、まとめてみました。
縄文時代
残念ながら、縄文時代の記述はなく、遺跡なども見つかっていないようです。
これだけでは寂しいので、周辺地域で調べてみると・・・
福知山市
○武者ヶ谷遺跡 京都府内で最も古い土器が出土。
舞鶴市
○浦入遺跡 5260年前の丸木舟が出土。
○桑飼下遺跡 住居に伴ったと考えられる48カ所の炉の跡が出土。
○志高遺跡 地表4mから住居跡のほか、石鏃・石さじ、斧、すり石と皿などの生活用具が出土。
などなど他にも周辺地域での遺跡はあるようです。
京丹波町でもみなさんの足の下に何か埋まっているかも・・!?なんて考えたらおもしろいですね。
弥生時代
弥生時代に関しては、お待たせしました。ありますよー!
○富田の美月遺跡(なんだか急に身近になりましたね)
打製石斧、錘(釣りの時に使うおもり)、つぼ(食べ物貯蔵用)、甕(煮炊きに使う)などが出土しました。
この遺跡からは、平安後期~鎌倉時代の遺物も出土しているようです。
○蒲生遺跡
須知高校の敷地内です!
ここでは一棟の竪穴式住居跡、土壙墓5基(穴を掘って埋めたお墓)、土器や石器が出土しています。
この住居は、小型の円形で、中央に炉の跡があり、壁を建てていた溝や柱の穴がはっきり残っていたそうです。
住居南側には貯蔵のための穴、北側には共同墓地の跡がありました。
この遺跡は弥生中期後半~後期のものということです。
古墳時代
遺跡に引き続いて、古墳です。
古墳はおなじみ道の駅味夢の里の周辺、塩谷古墳公園の古墳が有名ですね!
こちらは古墳群といって、12基の古墳が集まってできており、5~6世紀にかけて継続的に築造されてきたと推測されています。
一番大きな5号墳には、木の棺を埋める形で埋葬されていたそうですが、すでに盗掘されていたため、副葬品は見つかっていません。
しかし、周辺から2体の巫女埴輪が出土し、話題を集めました。
この巫女埴輪は首飾りや衣装も細かく作られていて、美しいと評判です。
味夢の里にはレプリカなどもおいてありますね。
この他にも、町内からは古墳がたくさん見つかっています。
昭和60年現在、40基見つかっているそうです。
そのうち前方後円墳が2基、他は全て円墳だそうです。
まず、前方後円墳について紹介しますね。
○藤浪車塚(豊田の藤波)
長さ31.5m、後円部直経19.3m、前方部幅7.2m
で、でかい。そしてどこだ?笑
○カナヤ一号墳(乗鞍古墳)
次は、円墳です。
富田 カナヤ 7基
蒲生 蒲生野 7基
曽根 宮の浦戸表 5基
深志野 8基
これらは群集墳で、他にも町内に古墳が点在しています。
円墳からは、須恵器、土師器、高坏、つぼ、まれに鉄刀などが見つかっているそうです。
「丹波」という名前
みなさんは、この地域がなぜ「丹波」と呼ばれているか考えたことはありますか?
それには諸説あるので、へぇ~!と楽しんでみてください。
湖水説
丹波とは、赤い波の意味で、太古の昔、この地方は赤い水の湖だったという説です。
観音峠や船岡から化石や石灰岩が出土していることから、もっともっと昔は海の底で、地殻変動によって隆起した後も、湖沼地帯だった可能性があります。
富田に「フトウ」「ツボイ」「カラトイワ」といった水を表す地名が残っていたり、「子守神社」→「湖守」ともいえるということからも、この説はきているそうです。
山獄説
『和漢三歳図会絵』という書物に、「谷羽」(たにわ)
『国名考』という書物に「谿羽」「谿塙」(どちらも”たにわ”)
つまり、「谷」という意味で、四方を山に囲まれ、その間にわずかな平地があるという意味です。
たしかに、見渡す限り山ですもんね・・(笑)
田庭説
豊受比売命(とようけびめ)という神が、この地域に稲種をまいて米を作られたので、「田庭」(たにわ)つまり美しい田んぼがいっぱいという説に加えて、
『延暦儀式帳』という書物に、神々に供える穀物をつくる豊かな土地という意味の「田庭」(たにわ)があります。
「美しい田んぼがいっぱい・・・」これも納得、に加え、今も変わらぬ景色があるんだなぁ~と思うと悠久の時を感じませんか?
奈良時代
和銅6年(713年)(今から1307年ほど前ですね。笑)
丹波地方は、11郡で構成されていたのが、丹波国六郡(桑田・船井・天田・何鹿・氷上・多紀)と丹後国五郡に分かれたそうです。
「船井」という郡名
これについては『三代実録』の貞観16年(874年)に「丹波国船井郡」という記述があります。
丹波国船井郡において、暴行を働いた二名の者を刑部省が斬刑に処したという内容です。(悪いことをした二人を処罰した)
また『和名称』にも「不奈井」という文字があり、神功皇后の伝説を伝えています。
平城宮の木簡
奈良時代の中心地(今の東京みたいなもの?)である平城宮から1つだけ船井郡の記述が見つかっています。
朝廷に米を納めたときに付けていた荷札なのですが、
「丹波国船井郡出鹿郷曽尼里秦人□□米」とあります。(□は判読不能の文字)
つまり、丹波国船井郡出鹿郷(高岡・水戸・市森・曽根・塩田谷・安井・小野の領域)の曽尼(=曽根!)に住む
秦人(=中国渡来人)が朝廷に米を貢献したという意味です。
曽根で大昔から農業がされていたと分かりますね。
さいごに
少し古い本からざっくりとまとめましたが、お住まいの方には、歴史が少し身近に感じられたのではないでしょうか?
引きこもりのお供になれば幸いです。
次回、中世編は1週間以内にアップしたいと思います。