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京丹波の歴史~中世・農村編~
はじめに
前回の先史・古代史編に続いて、今回は中世編ということで、またまた『丹波町誌』を読んで、調べたことをプラスしまとめてみました。
丹波の中世・・・一言で言うと「ややこしい!」です。
これは、中世という歴史区分がそもそもややこしいからだと思います。
朝廷(天皇家)・幕府(武士)・農村の人々・仏教・室町期くらいからは商人など・・・、勝手にルールを作ったり、争ったり、なんだかんだ・・・。
だた、ややこしいんですが、おもしろいんです。
私の大学時代の専攻がまさにこの時代だったというのもありますが。
しかし、
調べたいことが多すぎて、頭がパニック!
家事もそこそこにしていたので、部屋がカオス!
という事態になりつつあるので、さくっとを意識してまとめたいと思います。
中世の京丹波における土地支配の変遷
・・なんか論文みたいな見出しになってしまいました。笑
京丹波の中世の古文書には、今でもなじみのある名前があり、
現在とのつながりを考えるとおもしろいので、気になるところだけでも読んでみてください。
○山内荘
一番有名なのが、この荘園です。
荘園とは、簡単に言えば有力者が管理している土地の範囲のことで、管理者はこの土地でとれた米などを税として納めていました。
この山内荘は、平安時代に関白藤原道家が、息子の青蓮院門跡というお寺の滋源という人に与えた土地で、
つまり、滋源さんが農民に米を作らせ、それを税として納めていたわけです。
この山内荘の範囲はとても広く、
曽根・院内・森・塩田谷・安井・豊田・富田・橋爪あたりの範囲だったと言われています。
このことは、橋爪の二宮神社、豊田の九手神社の文書、富田の龍泉寺跡の裏山にある経塚の碑に
「山内荘」の文字があるため言えるそうです。
(おなじみの地名が出てくると安心しますね・・笑)
鎌倉時代の頃は、丹波町はほとんどがこのような荘園のかたちを取っていたそうです。
ただ、諸行無常。世は変化していくもので、
建長5年(1253年)「近衛家所領目録」に「丹波国山内荘信輔」とあり、家司の平信輔に荘務を行わせていたことになるので、
どこかのタイミングで山内荘の所有者が近衛家に変わったと分かります。
その後も、移り変わり、
室町時代、応仁の乱(1467年)までは足利満詮・義視の領地。
応仁の乱後は、室町幕府の料所(国有地みたいなもの)になっていました。
そして、戦国時代に入った文明年間には、丹波守護の細川政元が
「山内荘三ヵ村を勝手に自分の所領とした」
「荘民らが元通り幕府の料所にしてほしいと願い出たものの、訴えは通らなかった。」と言った内容の文書があります。
山内荘の他にも、いくつかの土地の名前が見られます。
○光久保(みつひさのほ)
「保」というのは、小さい集落という意味で、山内荘の隣にあった安井の光久の集落をさしています。
観応2(1531)年、足利義詮が、桑田郡篠村(亀岡の篠)に八幡宮を作るための場所として、三宝院僧正坊に充ておこなったとあります。
○長曽根(ながそね)
「長曽根」とは、曽根と院内のことだそうで、
建武3年(1336年)光教上皇が、「長曽根その他7荘を、近衛家に安堵」とあります。
ちなみに「安堵」とは権力者のお墨付きのようなものなのですが、
「お、保障されたんだ!近衛さんよかったね。」
ということではなく、
中世は時代が下るにつれて、どんどん新しい勢力が登場します。
ですので、この近衛家もそんな新勢力に押されていき、最後に残されていた土地を安堵してもらったという少し危機感のある感じの話なんですね。
○須知村
山内荘内には「須知村」があったそうです。
須知村の範囲は、上野・蒲生・須知・市森の村々が集まったもので、足利氏の支配下にあったといいます。
その間にも、相国寺に寄進して税を免除してもらったり、足利義教が弟の義視に与えようとして反対されたりといろいろあったようです。
京丹波・中世のたくましい農民たち
・・・長かったですね。ごめんなさい。
ここまでは、土地の範囲と支配者にフォーカスして記述しました。
ここからは、もうちょっと住民目線で見てきましょう。
農民といえば、のんびり田畑を耕したりして、支配者に言われた通りにへいへいと税を納めていた、というイメージをされる方も多いのではないでしょうか?
しかーし、それは大間違いで、中世の人々はかなりたくましかったと言われています。
まず、生きるのに必死です。
そもそも食料で困ることがなくなったのは、現代戦後以降の話であり、
昔は定期的に、飢饉がありました。
とくに室町後期に至っては、長雨や低温、台風などの異常気象などが多く、何度も飢饉が起こり、餓死者もたくさん出ています。
ですので、当たり前に住民たちは、土地の支配者などに、税金を免除するように訴えたり、支配者が気に入らないから変えてほしいなど、さまざまな要求をしていました。
また、侵略者などから自分たちの財産を守らなければならなかったり、環境の整備も上からのお達しでやるというよりは、自分たちでおこなっていました。
時には武士的な性格を持ち、農耕のかたわら、弓などの技をみがき、村などを越えたつながりをも持っていたといいます。
例えば、寛正3年(1462年)、須知村の農民たちが土一揆を起こしたことがありました。
その前の大干ばつ、夏からは長雨と寒冷で大飢饉が起こり、京都市内などの周辺地域でも大規模な一揆が起こっていたので、それに呼応するかたちで蜂起したようです。
当時の「一揆」というのは、武力行使で、命がけのものでした。
そのような厳しい状況の中、村長のようなリーダーが出て来るのも必然で、各地で有力者が登場します。
京丹波における有力者は「須知氏」と「山内氏」です。
山内氏は山内荘の有力者ですが、
須知氏は南北朝の動乱の際に参戦したのをきっかけに、遠江国(静岡県西方部)周智郡から移ってきた人物で、
京丹波では一番有名と思われる須知城を築城したと言われています。
もともと京丹波にいた人ではないんですね。
そして戦国時代の終わり、須知城落城と共に滅亡したということです。
まとめ
さくっと・・は無理でした。笑
以上をまとめると、
・中世の京丹波は山内荘をはじめ、さまざまな土地区分があり、所有者も移り変わっていった。
・農民たちはたくましく、自分たちで飢饉と闘い、時の権力とも戦っていた。
ということが言えます。
中世といえども、400年ちょいの間のことを述べたので、変化するのも当たり前ですけどね。
そして、中世編まだまだ続きます。
みなさん大好き(?)お城編と文化編もお楽しみに!
長文お読みいただきありがとうございました。