江戸時代、京丹波町に落ちた隕石「曽根隕石」
曽根の隕石の記念碑を発見・・しかし、ない!
どこにあるか分からなかった曽根の隕石の記念碑・・先日ようやく見つけました!
地元の小学校と幼稚園の間の裏道の途中の日陰にひっそりとありました。
こんな目立たないところにあるとは!と
わくわくして見に行くと・・ない!
なんと、隕石のレプリカがありませんでした。
重さ17.1kg、縦約16cm、横約29cmとのデータもありますし、もちろん台座の大きさからして、直撃したら死んでしまうくらいの大きさだというイメージはできるのですが・・。
少し残念でした。
台座を見て思ったのですが、思ったより小さいなぁ~と。
恐竜が滅びた隕石と比べ・・(比べるなー!笑)
メインは元京都府知事が書かれた『農耕飛翔 須知何鹿の大地』という大きな石碑で、農耕の発展を祈っているのでしょうか?よく意味が分かりませんが、(分かる方教えてください)
そしてその横に少々ロマンチックな?ポジティヴな説明文のある石碑がありました。
『宇宙から丹波町への贈物 丹波町に落ちた曽根隕石』
そして『宇宙の引力をも引きつけた丹波町』と。
宇宙の引力・・・
・・・
実際に落ちた場所ではないようですが、気になる方は是非!
曽根隕石についての記録
以前もnoteに書いたことがありましたが、
曽根隕石が落ちたのは、慶応2(1866)年6月7日。
院内の藤田信濃と八木玉の井の山本伊豆正という人物が記録を作成して、陰陽道の土御門家に提出しています。
土御門家は当時、暦や天文についてを司っていたので、提出されたのでしょう。
おおざっぱに訳すと・・・
「慶応二年四月二十四日(旧暦です)天気は快晴。
昼前頃、急に暖かくなり、暗い雲が四方に広がって、にわか雨が降りそうだったが、大粒の雨が少し降っただけだった。
正午過ぎ頃、大砲のような音が2回、続いてホラ貝のような雷が響き渡る中に小石を弾いたような音がして、何か落ちたように思われた。
そのうち轟音もやみ、天気も晴れてきた。
探してみると、曽根村の土橋の南の麦畑から、土煙が…
行くと、火薬の香りがめっちゃして、木が焼け折れてるものもある。
畑の土が乾いて白い灰をかぶったすり鉢のようになっているところがあった。ほってみると、烏帽子のかたちをした鉱石のようなものがでてきた。
その日は村の庄屋勘右衛門の家に持ち帰り、翌日に地頭川勝中務から使いの者が来て、今は隕石は代官の家にある。
玉の井村から乾(北西)に三里半(1万3745m)ほどのところでも、大砲のような音がして地響きがなったという。院内村から巽(南東)に5町を過ぎる(545m~)のところでは、轟音がすごかったという話である。」
玉の井村とは、現在の南丹市八木でしょうか。そこから北西に1万3745mというとかなり遠くまで大砲のような音がしたこと、また院内村は、京丹波町院内で、そこから南東に545mというと・・まぁ近いので周辺地域ではかなりの大きな音がしたということがわかります。
(地図に詳しい方、解明してください。笑)
江戸時代には他の地域でも隕石がたくさん
江戸時代には京丹波町以外にも隕石が落ちたという記録や実物の隕石が残っている地域がいくつもあります。
文化14年(1817年)現在の東京の八王子市、日野市、多摩市のあちこちに隕石が落ち、その時の記録によると、曽根の隕石の時と同じように、雷のような轟音や白い煙、焦げた石が見つかったといいます。ただ、この時の隕石は砕けて、あちこちにおちていきました。(八王子隕石)
そのほかにも、浜松市の篠ヶ瀬隕石(1688年または1690年または1704年)、岩手県陸前高田市の気仙隕石、曽根隕石の翌年には山形県東根市の大富隕石などなどいくつもの隕石が報告されています。
その中でも曽根の隕石と深く関わっているのが、東京の八王子隕石です。
実は、東京の八王子隕石は隕石そのものは残っておらず、長年実物を探し求められていました。
そこで登場したのがさきほども登場した土御門家。江戸の天文方から送られたものではないか、とされている重さわずか0.1グラムのかけらが残っていました。成分を分析したところ、曽根隕石と同じ成分でしたが、もっとも多い種類の隕石の組成でもあったため、曽根隕石の可能性は高いが、断定はできないとのこと。
江戸時代には、まだまだ隕石については知らないことが多く、八王子では、空から石が降ってきたと大騒ぎする人々がいたという記録が残っています。京丹波町にはそのような記録は残ってはいませんが、空が黒くなったり、煙がでたり、轟音がするなど、好奇心満載な人もいたかもしれませんが、人々は恐怖を感じたかもしれませんね。