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戦国大名も苦労した〜白か黒かつけない喧嘩の解決法〜


喧嘩がおこれば、調停する人が現れるものだけど、調停というのは難しい。
喧嘩しているのがのび太とスネ夫で、そこにジャイアンが来て、喧嘩をやめろと武力でやめさせる。お菓子の取り合いなら半分に割って両方に分けるだろうし、ボールの取り合いなら、交代交代で使わせるだろう。

調停者はジャイアンくらい強くないと、喧嘩はおさまらないのだ。

戦国大名はジャイアンほど強くはなかった。
お分かりだと思うが、これは腕っぷしのことではなく、領国内(ご町内)での権力のお話。

戦国大名の分国法から、当時の社会がわかる

戦国大名の分国法とは、戦国大名が定めた、自分の領国のなかだけで通用する法(ルール)のこと。
今回取り上げる今川氏の「今川かな目録」だけでなく、陸奥国・伊達稙宗の「塵芥集」。甲斐国・武田晴信(信玄)の「甲州法度之次第」、近江国・六角氏の「六角氏式目」などがある。

今の法律に比べて強制力はそこまで強くなく、というかどれくらい従う人がいたのか、領国ないへの浸透の度合いは分からない。
逆に言うと、領国内でそうした困ったことをする輩がいたから、法を作ったと言った方が正しいのかもしれない。

家庭でいえば、宿題がなかなか終わらないという問題がある→「宿題が終わっていなければ、夕ご飯の後のテレビを禁止する!」と宣言するようなものだ。先に問題が存在する。

「戦国大名の分国法から、当時の社会がわかる」と書いたが、なぜ、当時の社会がわかるのかというと、「法慣習」といって当時の社会で当たり前や常識と考えられていた方法が採用されているから。

次章から具体的にみていこう。

物の取り合いや喧嘩の解決法

今回は分国法のなかでも今川氏の「今川かな目録」を取り上げてみる。

今川氏は、駿河・遠江・三河の三国(現在の静岡県・愛知県あたり)を治めていた戦国大名。今川義元(1519〜1560年)が、桶狭間の戦いで織田信長に敗れたことは有名だと思う。

この義元のパパ・今川氏親が「今川かな目録」を作成した。これは東日本ではじめて作られた分国法であり、先進的だったといわれている。
武田信玄の分国法もこれを真似している条文があるという。

今川かな目録の条文のひとつに以下のものがある。

「再開発地の領有をめぐって双方の主張が折り合わないならば、まず双方の主張する境界線の中間を境界とせよ」

参考文献記載の意訳部分を抜粋

これは、再開発して持ち主がはっきりしない土地の取り合いがおこり、双方の主張がバッチバチになっている場合に、その土地を等分に分ける=「はんぶんこ」にせよということ。

はんぶんこ、ですか?

中分(ちゅうぶん)の思想

なにを単純な…と思うかもしれないけれど、この「はんぶんこ」なかなかに深いのだ。
当時は「はんぶんこ」のことを「中分(ちゅうぶん)」や「折中」といった。

中分という観念は、受け継がれてきた慣習であった。つまり、当たり前によく使われていた方法だ。
土地の取り合いに関しても、「下地中分」といって、はんぶんこ(1:2など50:50ではない場合も)して双方に分割する方法が鎌倉時代ころから取られていたのである。

当時の中分に対する考え方がわかる記述がある。

奈良の春日大社「中分と申すは、両方の所務を混乱せず、心やすからんためなり」

つまり、中分は双方の心の平穏をもたらす最善策と考えられていた。

東大寺では「折中の法は、訴論人良好の相互得失、おのおの平等相兼ぬるの儀なり」

これは、折中の習俗は双方の損得を均衡させる平等な配慮だよ、ということ。

そして、「伊達家文書」にある、出羽の戦国大名・最上義光の言葉

人と人のもめごとというのは、どちらにも道理はそれなりそれなりにあるものである。(だから裁判というものは)とりあえず双方を比較して、道理の少ないほうを「非」としているだけのことである。

どちらにも言い分があって、もともと白も黒もない。

現代人にとって、強制的にはんぶんこにするのは、聞く耳をもたず、事情を無視して、問答無用にはんぶんこというイメージがあったが、実は逆で、どちらにも道理があるからという理解のもとでの半分だったのだ。

勧善懲悪でもなく、海外のように敵を殺し尽くすわけでもなく。日本人は昔からバランス感覚を持っていたのかもしれない。
(おそらく地域性や宗教も関わるので、今回はここは深堀りしない)

以上は、モノ(土地)の取り合い。では殴り合いの喧嘩の場合はどうだろうか。

戦国大名はどのようにして喧嘩を解決しようとしたのだろう

もめにもめていた戦国時代といえど、自分の領国で喧嘩が起こるのはよくない。
無駄に戦い、人口が減ると、戦いでの武力が足りないこと以前に、まず食料を作る人がいなくなる。そうなれば、みな死んでしまう。

それなのに、現代よりもはるかに血の気が多い戦国時代の人々の喧嘩は、大勢が加わり死者がでることもあった。

「今川かな目録」にもどろう。
今度は、喧嘩に関する条文をみていく。

①喧嘩をした者たちは善悪を問題にせず、両者ともに死刑にする。
②もし相手が攻撃してきたとしても、我慢して、さらに負傷した場合は、被害者側に原因があったとしても、その場を穏便に対処したことに免じて、勝訴とする。

①喧嘩をしたら問答無用で死刑
つまり「喧嘩両成敗」だ。
「両成敗」ということは、先ほどの「中分」の考え方をベースに、両方に言い分があるだろうけど、喧嘩して混乱を生じさせたので死刑です。と言っているのだろう。

だいたい片方のみを処分してしまうと遺恨を残して、報復の連鎖が起こるかもしれない。
だから強制的に同等にしてしまう両成敗は意外に納得しやすいものだったといわれている。

ここで、当時の喧嘩がどのようなものであったか補足すると、まず1対1ではない。
1対1の喧嘩でも、すぐさま親類縁者が駆けつけて大きな騒動になるものだった。
現代でいえば、野球の乱闘騒ぎみたいなものだろうか。争いに味方がうじゃうじゃ集まって大混乱になる、あれ。

「喧嘩」という言葉から連想するイメージの当たり前も、中世人と現代人では異なるのではないだろうか。

②喧嘩を売られてもグッとこらえて応戦せず、そのことを今川家に訴え出たならば、たとえ今回のトラブルの責任がその者にあったとしても、ちゃんと訴え出た功績を評価して、その者の勝訴とする。

②訴え出た方が勝ち。
のび太VSスネ夫に戻ると、ジャイアンにチクった方が勝ちということになる。
…それでいいのか?釈然としない気がする。

ここで一番得をするのは誰か?
ジャイアンである。
ジャイアンに先に報告すると勝ちということは、ジャイアンの権力が強くなる。

そう。戦国大名も、当時の常識であった実力行使&当事者主義から、自分たちが権力を握るフェーズにいきたかった。

戦国大名、お疲れさん

でも、実際のところは、そこまで上手くいかなかった。
度重なる出陣で忙しくて裁判は滞り…。おそらく理想を果たせた戦国大名はいない。
ジャイアンは隣町との抗争に忙しくて、のび太VSスネ夫の裁判が後回しになりまくったのだ。

この権力側が裁判権を持つというバトンは、信長〜秀吉〜徳川家へと渡り、江戸時代でようやく花開くことになる。

今川氏をはじめ、このような法を作った戦国大名は先進的だった。
というか、ひとつの家庭、いや個人においても、ルール(≒理想)を作ったところで、守れないことが往々にしてある。
戦国大名の領国でも、守れていなかったんじゃないかな。

それに、権力側がジャイアンのような上からの裁判を手にするには、強い権力が必要である。
だけど大名権力はそんなに強くないから、当事者たちがなんとか納得する当時の常識(中分とか)を持ち出したというわけ。

戦国大名も苦労したよね。

絶対的に強かったようにみえる戦国大名。
かれらも苦労したんだな、お疲れさん。と分国法を読む度に私は思う。

<参考文献>


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