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本を読むということ|Webライターラボ読書会を終えて
私が所属するWebライターラボの読書会。
今回の課題図書は、近藤康太郎著『百冊で耕す〈自由に、なる〉ための読書術』。
この本の核心
読書会の前に、この本の編集者であるLilyさん(りり子さん)がこちらのポストをしていらして。
来週は『百冊で耕す』の読書会にお邪魔します。
— 伊皿子りり子|編集Lily (@lilico_i) February 13, 2025
『百冊』には「不良の読書」という項があるのだけれど、このnote記事のエピソードを著者に話したことがきっかけでした。「不良の読書かあ。おれ、それ書きたいな」と著者が言った。
世界からの逃げ場で:不良の読書|編集Lily https://t.co/38AegenKwC
このシビれるnoteを読んだあとで、第9章・B面「不良の読書術」を読んだ。
第9章の中での不良とは…
不良とは、「ずれる」ということだ。人と同じことはしない。人と同じことが、かっこ悪い。そう思ってしまう心性。
不良になりたい。電車に乗ってるときには、スマホではなく本を開く。
電車に乗ることがないから、家でもスマホではなく本をひらきたい。と思った。
また、この章には「悲しみ、不良、勉強、愛・・」これらの一見バラバラに見える言葉たちが一緒に登場する。
おもしろい。でも掴みきれない感覚がする。
しかも、人にやさしく、人を愛せるようになるため、幸せになるため…そのために読書するとは・・!
衝撃をうけつつも、消化できずにいた。
読書会の際にLilyさんにお伝えすると(ちゃんと伝えられた気はしないが汗)
「この部分はこの本のコア」とおっしゃる。
!!!!!
よくよく見ればタイトルと同じ名前の章。
知らないうちに核心に引き寄せられている感じがして、いい意味で恐ろしい♪
本は救いであり鏡である
また、話しているうちに、ひとつ思い出したことがあった。
本は救いだった
学生時代、哲学書を読み漁っていた時期があった。
専門学校に鬱々と通っていた時代。その場から逃げ出したくても、逃げ出せなくて。だから、本のなかに逃げていたんだな。
一言でもいいから、救いとなる言葉を、いまの自分をなんとか立たせていてくれる言葉を探していた。
あれは、本を読むことが救いだったんだな、と今頃になって気づけた。
また、読書をすれば自己肯定感につながる、生きる気力が湧くという。
ある日は朝しか本を読めなかった。しかもさっぱり分からない。それでいい。一日最低でも十五分は読んでいる。そういう人間は、明日も生きていいだろう。
・・そうかもしれない。
たしかに、私も本が読めた日は気分がいい。生きていていいと思える。
朝の15分読書を習慣、いや儀式にしようか。
本は鏡
さらに、ルームの他の方とLilyさんとの対話の中で、
本を読むことは、自分に気づく行為という話があった。
本は人と会話することよりも、もっとマイペースに、気づける。
自分と対象とのやりとりのなかで、対象から跳ね返ってきたことによる気づき。自分を再解釈すること。
まるで、本は、鏡。
そういえば神社のご神体も鏡だ。
自分の姿を映す。
本もそうだったとはね。
分からなくて、よかったんだ
分からないし、読みにくいし…で逃げてきた。とくに大人になってからは。
そんな私も、実は中学生のときはA・デュマの『三銃士』にハマったし、「和泉式部日記」「蜻蛉日記」「徒然草」あたりも読んだ。
先に述べたように、学生時代は哲学書をよく読んだ。
ニーチェ、ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、サルトル、デカルト。それとレヴィ・ストロース。
また、Angraの「Wuthering Heights」が好きだったので、E・ブロンテの『嵐が丘』を読んだことも。
いずれもよく分かって読んでいたわけではない。
当時は、背伸びして読んでいたけれど、それでよかったんだな。
だけど、大人になってから、分からないものに挑む余裕を失っている。
E・Hカーの『歴史とは何か』も持っているけれど、最初のところで挫折している。
効率主義に毒されているのかもしれない。
15分でよいから、再び読んでみようと思う。
・・「我慢することを覚える」ということだ。我慢してでも読む。「よさ」が分からないのは、著者のせいではない、自分のせいだ。そう、観念してしまう。
我慢してでも読む不快感が、意外とこれからの人生で大事なのかもしれない。
積読はファッション/自分が変わる
自分が変えられる。わたしにとっては、それが読書の最大の目的だ。
自由に読むのは、自由のようでいてそうではない。ちっぽけな”自分”に隷属している。
(中略)
自分の”自由”のその外に、深くて広い宇宙(そら)がある。
ことファッションにおいて、がまんしてはいけない。自分を縛ってはならない。 好きな服を着る。たとえ似合っていなくてもあきらめない。服が変わるのではない。自分が変わる。服の似合う人間に、なってくる。ファッションが、人間を変える。
(中略)
同じ意味で、先に理想の本棚を作ってしまう。
難しい本、分からなかった本、読破できていない本…なんとなく本棚に並べてあるのが、(好きな本であっても)少し後ろめたい感覚があった。
けれど、理想なんだから、いま分からなくてもいいんだ、ここにいてくださいと思えるようになった。うれしい。
それに、近藤先生も、そうやって本棚を作ろうとしていた時期があったらしいことを、Lilyさんから聞いた。これも人間らしい営みなのかな。
近藤先生の「〇〇とは」が好き
この本にはたくさんの「〇〇とは」がある。
読書や本、読むことを何度も言い換えている。
その度に、深くなる。刺さる。
少し抜き出してみる。
・小説とは、作品に流れる空気を味わうものだ。
・読書とは痕跡のことだ。
・本を読むとは、未完の人生を生きることだ。(p38)
・生きるとは、本といた季節の記憶。(p50)
・読書とは、問いを、自分で言葉にできるようにする、遠回りの、しかし確実なトレーニングだ。(p93)
・読書とは、あらすじではない。ーむしろ、作品の〈空気〉を感じることが重要だ。
・読書は、著者と付き合う〈行為〉のことだ。(P109)
・読書とは、新しい問い、より深い問いを獲得するための冒険だ。「問い」がそのまま「答え」になっている。終着駅ではない。始発駅に立つために、本は読む。
そして、問いを発見した人が、世界を変える。答えは、世界を動かさない。(p111)
・本を読むとは、孤独に耐えられる。(中略)人を愛せる、ということだ。
(P217)
たくさんある「とは」のなかで、一番好きなのが以下。
本を読むとは、結局人類を信じるということだ。人間に信を置くということだ。自分の判断力などあてにしない。しかし、わたしたちの先輩は信用する。いままで人間が読み継いできた本は、安心して、ゆっくり、意味がわからずとも、音読する。
時間ほど、世の中に信用できる批評家はいない。
「巨人の肩の上に乗る」という言葉がある。
私は歴史が好きなので、読み継がれてきたものの価値や重さを感じながらなら、理解できずとも、古典などを読める気がしてしまった。
信用って大事だな。
おわりに
たくさん響いたところがあったけれど、この辺でおしまい。
最近、元気がなかったけれど、本を読んでいなかったからかも。と思う。
本について、読書について、考え方が変わる。向き合い方が変わる。そんな一冊であり、読書会であった。
すぐそばにあったけれど、いままで気づかなかった、宝物に気付けた気分♪
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