#F117 #nato「1999 F-117A shootdown撃墜」
#F117 #nato
「1999 F-117A shootdown撃墜」
CGグラフィック映像化!(>ω<)
Yarnhub YouTube 2024/10/31
「F-117撃墜記録には諸説があり、NATO軍内部に勤務するロシアのスパイがF-117の飛行ルートをロシアに流し、ロシアは撃墜の暁には破片を頂くという約束のもと、ユーゴ空軍にデータを流したという説を聞いた事があります(信じ難いが…)。下記サイトより引用」https://youtu.be/Zd88lzCWjpA?si=K7zsiMeK5t_xOMUA
1999 F-117A shootdown
パイロットインタビュー
https://youtu.be/w-xTRRCMLAA?si=wMtzLhx730cipVHi
On Mar. 27, 1999, the fourth night of Operation Allied Force over Serbia, an F-117 Nighthawk stealth fighter jet was shot down while returning to Aviano airbase, in northern Italy after bombing a target near Belgrade.
U.S. Air Force Lt. Col. Darrell P. Zelko, a veteran of the 1991 Gulf War, was flying a stealth plane from the 49th Fighter Wing, deployed to Italy from Holloman Air Force Base, New Mexico, with the radio callsign "Vega 31" when he was hit by the Serbian air defense near Novi Sad.
Zelko was flying his third Allied Force sortie and he was egressing the target area when his since-then invincible, F-117 was hit, forcing him to eject behind the enemy lines at 20.45 LT.
An MH-53M, MH-53J and MH-60 aircrew along with Special Tactics Airmen responded to the emergency and within 5 hours of being alerted, AFSOC (Air Force Special Operations Command) assets, coordinated by E-3 AWACS and supported by several specialized platforms, including an EC-130E ABCCC and A-10 in Sandy role, rescued the F-117 pilot prior to enemy forces who were bearing down on the downed pilot's location.
1999年3月27日、セルビア上空でのアライド・フォース作戦4日目の夜、F-117ナイトホーク ステルス戦闘機が、ベオグラード近郊の標的を爆撃した後、イタリア北部のアヴィアーノ空軍基地に帰還中に撃墜された。
ダレル・P・ゼルコ米空軍中佐は1991年の湾岸戦争のベテランで、第49戦闘航空団のステルス機を操縦し、ニューメキシコ州ホロマン空軍基地からイタリアに配備され、無線コールサインは「ベガ31」であった。
ゼルコは連合軍3回目の出撃で、目標エリアから脱出しようとしたとき、当時無敵だったF-117に被弾し、20時45分(日本時間)に敵陣後方で脱出を余儀なくされた。
MH-53M、MH-53J、MH-60の搭乗員と特殊戦術飛行士がこの緊急事態に対応し、警告を受けてから5時間以内に、E-3 AWACSによって調整され、EC-130E ABCCCやサンディ役のA-10を含むいくつかの特殊プラットフォームによって支援されたAFSOC(空軍特殊作戦司令部)のアセットが、墜落したパイロットの場所に迫っていた敵軍より先にF-117パイロットを救出した。
1999 F-117A shootdown
On 27 March 1999, during the NATO bombing of Yugoslavia, a Yugoslav Army unit shot down a Lockheed F-117 Nighthawk stealth ground attack aircraft of the United States Air Force by firing a S-125 Neva/Pechora surface-to-air missile. It was the first ever shootdown of a stealth technology airplane. The pilot ejected safely and was rescued by U.S. Air Force Pararescuemen conducting search and rescue.[1][2]
1999年 F-117A撃墜
1999年3月27日、NATOによるユーゴスラビア爆撃の最中、ユーゴスラビア軍部隊がS-125ネヴァ/ペチョラ地対空ミサイルを発射し、アメリカ空軍のロッキードF-117
ナイトホーク ステルス地上攻撃機を撃墜した。これはステルス技術を搭載した航空機の初の撃墜であった。パイロットは無事脱出し、捜索救助活動を行っていたアメリカ空軍のパラシュート部隊によって救助された。 [ 1 ] [ 2 ]
https://en.wikipedia.org/wiki/1999_F-117A_shootdown
1983年にアメリカ空軍に配備されたF-117は最先端の装備であり、ステルス技術を使用して設計された最初の運用可能な航空機でした。比較すると、ユーゴスラビアの防空システムは比較的時代遅れであると考えられていました。[ 3 ]
ダウニング
1999年3月27日、ユーゴスラビア軍第250防空ミサイル旅団第3大隊がゾルタン・ダニ中佐(後に大佐)の指揮下で、F-117空軍シリアルナンバー82-0806、[要出典]、コールサイン「ベガ31」[要出典]を撃墜した。[ 3 ] [ 4 ]
ユーゴスラビア軍部隊は、ソ連のイサエフS-125「ネヴァ」ミサイルシステムのユーゴスラビア版(NATO報告名、SA-3「ゴア」)を装備していた。[ 1 ] [ 3 ] [ 5 ]
現地時間午後8時15分頃 、射程距離約8マイル(13キロ)のミサイルが数発発射された。2009年にミサイルを発射した兵士として特定されたジョルジェ・アニチッチ中佐によると、彼らは約23キロ(14マイル)の距離からF-117を発見し、NATOの対空抑制装置によるロックオンを避けるために、17秒以上ミサイルを作動させなかったという。 [要出典]
F-117、コールサイン「ヴェガ-31」を操縦していたのは、砂漠の嵐作戦の退役軍人であるダレル・パトリック・「デール」・ゼルコ中佐(1963年11月30日生まれ)だった。[ 3 ] [ 6 ]彼は2発のミサイルが低い雲を突き抜け、自分の機体に向かってまっすぐ飛んでくるのを目撃した。[8 ]最初のミサイルは彼の上を通過し、バフェットを引き起こすほど近かったが、爆発はしなかった。2発目のミサイルは近くで爆発し、その破片と衝撃波が機体に重大な損傷を与え、制御不能に陥らせた。[ 7 ]爆発はボスニア上空を飛行していたNATOのボーイングKC-135ストラトタンカーから見えるほど大きかった。[ 7 ] [ 9 ]
ゼルコは機体が転倒した際に強い重力加速度にさらされ、脱出のための正しい姿勢を取るのに苦労した。パラシュートが開いた後、彼は救命無線を使ってメーデーコールを発し、撃墜されたKC-135と連絡を取ることができた。[ 7 ]訓練に反していたが、ゼルコは降下中も救命無線を使用した。[ 7 ] [ 10 ]彼は高度が高ければ信号が最長距離をカバーできると考え、また地上のユーゴスラビア軍にすぐに捕虜にされるだろうと確信していたため、そうなる前に無傷であることを確認したかった。[ 7 ]
ゼルコはルマの南の野原に着陸し、現在はヨーロッパルートE70の一部となっている4車線の高速道路の約1マイル/キロメートル南にいた。彼は降下中に隠れ場所だと特定した排水溝に素早く身を隠した。[ 7 ]そこで彼は、ベオグラード郊外の標的にNATO爆撃機が投下した爆弾の衝撃波を感じた。[ 7 ]ゼルコは飛行機の墜落現場から約1マイル/キロメートル離れた場所に着陸し、ユーゴスラビア軍、警官、地元村民によってその地域の徹底的な捜索が行われた。ある時点で、捜索隊は彼が隠れていた溝から数百メートル以内に近づいた。ゼルコは約8時間後、翌朝早くにシコルスキーMH-53ヘリコプター2機とシコルスキーHH-60ペイブホーク1機に乗った米空軍戦闘捜索救助チーム(エリック・ジアッキーノ軍曹とジョン・M・ジョーダン上級曹長)によって救助された。ゼルコによると、彼はあと数分で捕らえられるところだったことを後に知ったという。 [ 7 ] [ 11 ]当初、彼は報道で誤認されていた。機体のキャノピーに「ケン・ウィズ・ドゥエル大尉」という名前が描かれていたためである。失われたF-117には「サムシング・ウィキッド」という名前が付けられており、湾岸戦争の砂漠の嵐作戦中に39回の出撃を行っていた。[ 12 ]
余波
写真では、機体が低速で逆さまの状態で地面に衝突し、機体は比較的無傷であったことが示されている。[ 1 ]米国は残骸を破壊しようとしなかったため、アナリストやパイロットは驚いた。F-117は1970年代の技術に基づいており、軍は1988年にその存在を明らかにしており、この機体は航空ショーに頻繁に登場していた。ブルース・A・カールソン将軍は、セルビアが残骸をロシアに引き渡しても、影響は最小限になるだろうと述べた。[ 13 ]
2機目のF-117が作戦中に標的となり、撃墜されたとされるのは1999年4月30日である。 [ 14 ]機体は損傷した状態でスパングダーレム空軍基地に戻ったが、[ 14 ]再び飛行することはなかったようだ。米空軍は作戦中もF-117を使い続けた。[ 15 ]この事件は2020年に別のF-117Aパイロットによっても報告されたが、機密扱いのままであり、詳細の一部のみが明らかにされた。[ 16 ] [ 17 ]
1999年5月2日には、第250防空ミサイル旅団が、後にアメリカ空軍参謀総長となるデビッド・L・ゴールドフェインが操縦するアメリカ空軍ジェネラル・ダイナミクスF-16CJファイティング・ファルコン戦闘機を撃墜した。[ 18 ] [ 19 ] [ 20 ]
F-117の残骸の一部はベオグラードのセルビア航空博物館に保存されている。[ 21 ] NATOの空襲作戦中、セルビアの軍閥アルカンが西側ジャーナリストに「記念品」として飛行機の小さなゴム部品を見せた。 [ 22 ] [より良い情報源が必要]米空軍は2008年にF-117を退役させた。[ 23 ]
現在パン屋を経営しているゾルタン・ダニと、現在は米空軍を退役したデール・ゼルコは2011年に出会い、それ以来友情を育んできた。[ 24 ]
「1999 F-117A shootdown」 「SPY」
第10回:F-117被撃墜のその後…!
https://www.masdf.com/crm/crm117.shtml
ナイトホークダウン! ナイトホークダウン!
1999年、ユーゴスラビアで大規模な空爆がありました。
F-117は夜の静寂から突然の爆撃音と、独特のジェット音を鳴り響かせ、市民にも恐れられており、「不死身のヴァンパイア再来」と言われていました。近くでその音を聞いたものは、翌朝になるとビルが内部から崩壊しているのを目撃することになります。
一発必中兵器による「正確な誤爆」が大きなニュースとして世界中で報道され大きな反響を呼んだユーゴコソボ紛争。そして誤爆と並んで大きなニュースになったのが不敗神話を持つF-117ナイトホークの撃墜でした。
撃墜されたF-117の写真を発見
http://www.linearossage.it/aerei-nato/
けっこう貴重っぽいので、ぜひ見てみてください。なお、アンチNATOサイトなので空爆で犠牲になった人の死骸とかが載っていたりするので、あんまり深くは見ない方がいいかもしれません。
F-117撃墜記録には諸説があり、NATO軍内部に勤務するロシアのスパイがF-117の飛行ルートをロシアに流し、ロシアは撃墜の暁には破片を頂くという約束のもと、ユーゴ空軍にデータを流したという説を聞いた事があります(信じ難いが…)。
1999年3月27日の夜。
ユーゴ空軍は得た情報から(?)SA-3(超旧式地対空ミサイル)をもってF-117の撃墜に成功しました。F-117に相当の自信を持っていたアメリカ空軍にとってはさぞ屈辱だったことでしょう。何せSA-10グランブルならともかく、SA-3じゃぁ…。
さて、撃墜されたF-117はソッコーで回収チームが組まれて破片一つ残さずもっていかれました(ちなみに再重要な部分は自爆装置が働いて破壊されます)。
当然ロシアにも主要な部分は受け渡されたので、あと10年もすればMiG-39(NATOコード:ファクトリー)としてモスクワエアショーで発表される日も近いかもしれません。当然ニックネームはナイトホークスキー。
なお、さほど重要ではない部分の破片は数奇な命運を辿ることになります。
ユーゴスラビアの首都、ベオグラードでは反戦運動として「反戦青空チェス大会」
「反戦青空マージャン大会」が開かれました。
チェスやマージャンが何で平和につながるのかは分かりませんが…いや、マージャンなら平和が分かる気がしないでもないですが(分から無い人は無視していいです
(^^;)。
同時に反戦国際マラソンが開かれ、多数の人たちが参加したらしいのですが、なんと、驚くことに反戦マラソンの賞品は…
撃墜したステルスの破片
素晴らしいブラックジョークですね(笑)
なお、破片はきちんと優勝者に渡されたそうです。アメリカのスパイ機関に命を狙われそう…(^^;
(更新日:2001年以前)
wiki
The Lockheed F-117 Nighthawk is a retired American single-seat, subsonic twin-engine stealth attack aircraft developed by Lockheed's secretive Skunk Works division and operated by the United States Air Force (USAF). It was the first operational aircraft to be designed with stealth technology.
ウィキ
ロッキードF-117ナイトホーク(Lockheed F-117 Nighthawk)は、ロッキードのスカンクワークス部門によって開発され、アメリカ空軍(USAF)によって運用された、引退したアメリカの単座亜音速双発ステルス攻撃機である。 ステルス技術で設計された最初の作戦機である。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Lockheed_F-117_Nighthawk
NIDSコメンタリー 第330号
2024年6月14日
NATOによるユーゴスラビア空爆から25年———ステルス機撃墜の真相と教訓
戦史研究センター戦史研究室主任研究官
中村 宗一郎
https://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/commentary330.html
PDFリンク
https://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary330.pdf
はじめに
1999年3月24日(水)、北大西洋条約機構(NATO)によるユーゴスラビア空爆(アライド・フォース作戦)が開始され、同年6月9日まで78日間続いた。本空爆は、NATOが人道上の理由で国連安保理の承認を得ずに行った軍事行動であり「合法性」と「正当性」が議論となるとともに、小国ユーゴに対してNATOの圧倒的な戦力の下で地上作戦が行われず航空作戦のみで実施された作戦であったことなどが注目された。当時、陸上自衛隊の高射特科部隊で訓練の企画等を担当していた筆者が注目したのは、「見えない戦闘機」と言われていた米軍のステルス戦闘機F-117(ナイトホーク)が撃墜されたというニュースであった。「旧式のソ連製対空システムを装備するユーゴスラビアが、レーダーに映らない最新鋭の戦闘機をどのようにして撃墜したのか」、将来は米軍だけでなく、他国もステルス機を開発することが予想される中で、防空を任務とする高射特科の幹部として現有装備でステルス機にいかに対抗できるのか興味を持ったのである。当時の筆者は、「過去の戦闘経験から飛行経路を特定し、機関砲等の射程内の低空において目視で照準し、撃墜したのではないか」などと想像していた。
筆者は、2009年6月から2012年7月まで、在セルビア日本大使館に防衛駐在官として派遣された際、ベオグラード・二コラ・テスラ国際空港の隣にあるベオグラード航空博物館に撃墜されたF-117の残骸が展示されているのを発見した。ある日、セルビア軍参謀本部を訪れた際、対応してくれた国際部長が同じ防空職種であったことから意気投合し、F-117が撃墜された状況について尋ねると筆者が想像していたのとは異なり「何度かの戦闘経験からF-117が旋回し、投弾する際にレーダーが目標を捕捉することが分かっていたので、その瞬間に対空ミサイルを2発発射して撃墜した」と教えてくれた。
ユーゴスラビア国民軍によるステルス機の撃墜には、指揮官の指揮・統率、部隊運用、教育訓練などの参考となる様々な教訓があると思われるため、紹介したい。
ステルス機撃墜の真相
世界初の実用ステルス機であるF-117が撃墜された状況については、当時、F-117を操縦していた米空軍パイロットのダレル・パトリック・デール・ゼルコ(Darrell Patrick Dale Zelko)大尉(当時、退役中佐)及びF-117を撃墜したユーゴスラビア防空部隊指揮官のゾルタン・ダニ(Zoltan Dani)中佐(当時、退役大佐)が後に当時の状況について語るインタビュー記事などが報道されており、おおよそ明らかになっている。
撃墜されたF-117は、1999年3月27日の夜、ベオグラード近郊の目標を攻撃するため、イタリア北部のアビアノ空軍基地を離陸して東へ飛行、スロベニアを抜けてハンガリー上空でKC-135(空中給油機)と落ち合って給油し、ベオグラードに向けて南下、目標を攻撃した後に、現地時間の午後8時42分頃、ユーゴスラビア国民軍第250防空ミサイル旅団第3射撃中隊のS-125M「ネヴァ」地対空ミサイルシステム(NATOコード名 SA-3「ゴア」)の4連装発射機から斉射された指令誘導方式のV-601Mミサイル(2段式の個体燃料ロケットモーター、全長6m)2発のうち1発目が機体の近くを通過、2発目の近接信管の起爆により左翼を破損、ベオグラード中心部から西北西約40㎞離れたブダノヴツィ村に墜落した。パイロットは脱出後に用水路に身を隠し、翌日、米空軍の戦闘捜索救助チーム(CSAR)のMH-60Gペイブホーク特殊作戦ヘリコプターにより救助された。
撃墜されたF-117は、米国ニューメキシコ州にあるホロマン空軍基地の第49戦闘航空団(49FW)に所属、機体のシリアルナンバー「82-0806」、愛称は「サムシング・ウィキッド(Something Wicked)」であり1991年の湾岸戦争でも活躍した。アライド・フォース作戦は、湾岸戦争に次いで2回目の海外展開作戦であり、撃墜されたF-117を操縦していたゼルコ大尉は、数少ない湾岸戦争の実戦経験者であった。
ゼルコ大尉は、アライド・フォース作戦において第7戦闘飛行隊(7FS)の所属として1999年2月の第3週にホロマン空軍基地からアビアノ空軍基地まで14時間45分かけて展開し、3月24日の第1派の攻撃に参加した後、1日休んで26日に飛行し、撃墜された3月27日は3回目の出撃であった。攻撃目標はベオグラード近くの重要目標である指揮統制施設で、別の日に他のF-117が攻撃を試みて失敗していた。
3月27日の夜は、天候不良により、ゼルコ大尉ら8機のF-117のみが出撃し、通常随伴する電子妨害機のEA-6Bプラウラーや敵防空網制圧(SEAD)を行うワイルド・ヴィーゼル機など他の機種の作戦はすべて中止された。F-117は、攻撃の際にステルス性を向上させるためアンテナを機内に格納していたことにより、無線による通話やレーダー警告受信機の作動ができなかった。
一方ダニ中佐が指揮する第3射撃中隊は、ベオグラードの防空を任務として、同市の西側に展開していた。第3射撃中隊は、1960年代からソ連に配備された高・中高度防空ミサイルS-125の改良版で、ユーゴスラビアに輸出されていたS-125M 、同じくソ連製で1970年代に運用が開始されたP-18早期警戒レーダー(NATOコード名「スプーンレストD」)を装備していた。
S-125Mは、指揮統制装置のほか、3つの主要な対空レーダー装置(P-15目標捕捉レーダー、PRV-11高角測定レーダー及びSNR-125射撃管制レーダー)とミサイルを4発搭載できる発射機から構成されていた。指令誘導方式であるため、ミサイル自体には赤外線や電波などで目標を探知する能力はなく、迎撃の成否はミサイルが目標に到達するまで地上のレーダー操作手がSNR-125射撃管制レーダーによって目標を捕捉できるかにかかっている。SNR-125射撃管制レーダーには、テレビ追跡装置もあり、一旦レーダーで捕捉できればテレビ画像でも目標の追随が可能であった。
ダニ中佐によるとP-18早期警戒レーダーには4つの周波数があり、140mhzのVHF(超短波)の低周波数帯域を使用することにより15マイル(約24キロ)以内のF-117の大まかな位置の追跡が可能であった。また、NATOの電子探知システムは、P-18早期警戒レーダーの周波数が登録されておらず探知できなかった。形状制御技術と電波吸収体技術によってレーダー反射面積(RCS)の低減を図っているF-117も、投弾のため弾倉庫を開けた際にSNR-125射撃管制レーダーにより近距離で捕捉できたという。
ダニ中佐は、技術系の幹部であり湾岸戦争の頃から米軍の航空作戦やステルス機について関心を持ち、西側の敵防空網制圧(SEAD)から生き残り、ステルス機をいかに撃墜するかを研究していたと語っている。彼は電子探知システム及び敵防空網制圧(SEAD)の主要な手段であり、対空レーダーから放射される電波を探知して誘導するAGM-88「HARM」空対地ミサイルによる攻撃を回避するため、様々な創意工夫を行っていた。敵の航空機を捜索・追随するためにレーダーを照射すると、敵に射撃陣地の位置を暴露することになるため、SNR-125射撃管制レーダーの照射は20秒以内に2回だけ、レーダー作動後は、ミサイルを発射していなくても器材を撤収して陣地変換を行うことをルール化した。
また、彼は、射撃中隊の編成について発射機の数、発射機に搭載するミサイルの数を半分とし、繰り返し射撃準備訓練を実施することで、部隊の射撃準備時間を90分(標準的な所要時間は150分)に短縮することにより迅速な陣地変換を可能にした。第3射撃中隊がNATOの攻撃を避けるため作戦間に移動した距離は、10万キロ以上であったといわれている。
第3射撃中隊は、12カ所の予備陣地を構築し、予備陣地には掩体、偽装網、司令部との有線通信回線などを準備していた。陣地変換する際には、退役したSA-2地対空ミサイルシステムやミサイルに似せた丸太を利用して偽陣地を作った。偽陣地には最小限の人員を残し、NATO戦闘機からの攻撃があった際は、地下のコンクリート製防空壕等に避難させていた。更にオーバーホールのために国内の工場で保管していたイラクのMIG-21戦闘機を押収し、同機から取り外したレーダー部品を使ってデコイ(おとり)を設置し、NATO戦闘機に誤爆させるよう誘導した。
企図を秘匿するため、無線や携帯電話など電波を発する通信手段は決して使用せず、必要な場合は伝令を徒歩や車で移動させ情報を伝達するなどした結果、第3射撃中隊は作戦間に23発のHERMミサイルを撃ち込まれたが、人員・器材とも被害はほぼなかったという。
ダニ中佐は、様々な手段により対空情報の収集を主とする情報活動も行っていた。アビアノ空軍基地近くに配置されていた諜報員(ヒューミント)から離陸するNATO軍機の情報を収集することができたことに加えて、NATO軍機の飛行経路上に対空監視員を配置して飛行する航空機を目視で監視するとともに、NATO戦闘機と早期警戒管制機(AWACS)間の無線通信が暗号化されておらず、通話内容を傍受できたという。
第3射撃中隊は、日々の戦訓の分析も行うことにより、NATOの来襲目的、攻撃目標・規模、時期、接近方向、攻撃方向、攻撃手段などNATO軍の航空可能行動をかなり正確に予測できたことから、F-117を待ち伏せして撃墜するために最適の射撃陣地を選定し、対空レーダーの照射も最小限にすることができたと思われる。実際、NATOの作戦規定(SOP)では、任務ごとに飛行ルートを変更しなければならないはずであったが、NATO軍機は3日間同じルートで日々の任務を行っていた。
防空部隊は、掩護対象を守るため、敵航空機が爆弾等を投下して目標を攻撃する前に撃墜するのが一般的であるが、ダニ中佐は、ステルス機の撃墜を優先してF-117の投弾直後のタイミングで待ち伏せ攻撃をする決断をし、防空司令部の射撃許可を受けたうえで部下に射撃を指示した。NATOに対して圧倒的に劣勢のユーゴスラビアにとって、ステルス機の撃墜が米国世論に与える影響やユーゴスラビア国民の士気の高揚などを考慮したと思われる。
3月27日は、第3射撃中隊のP-18早期警戒レーダーが15マイル(約24km)で5機のF-117を捕捉し、SNR-125射撃管制レーダーを2回照射したが、目標を捕捉できなかった。電子妨害機やワイルド・ヴィーゼル機の支援がないという情報を得ていたダニ中佐は、反撃を受けるリスクが少ないと判断、ルールを破って3回目のレーダー照射を指示したタイミングと、ゼルコ大尉が操縦するF-117が投弾のため爆弾倉を開いたタイミングが運よく重なった結果、SNR-125射撃管制レーダーが3回目の照射でゼルコ大尉のF-117を捕捉し、目標まで8マイル(約13km)、高度5マイル(約8km)の時点でミサイル2発が5秒間隔で発射されたのである。ダニ中佐は撃墜確率を高めるため、1つの目標に対してミサイルを斉射することもルール化しており、彼によると斉射によって命中確率は89%まで向上していたという。
る。
〈参考文献・資料〉
〇ゼルコ大尉のインタビュー記事
“Interview with Lt Colonel Dale Zelko, USAF”, Wayback Machine, last updated November 21 2005,
https://web.archive.org/web/20160304043205/http://f117sfa.org/sfa_newsletter/Newsletter2007-05.pdf
〇ゼルコ大尉の国立アメリカ空軍博物館での講演
“The Unthinkable, the Unimaginable Happened: An F-117 was Shot Down in Combat”,Wings & Things Guest Lecture Series – National Museum of the USAF, last updated 2006,
https:/www.nationalmuseum.af.mil/Portals/7/documents/transcripts/f117_shot_down_transcript.pdf
〇ダニ中佐の講演会の動画
“Predavanje Zoltana Danjia o obaranju aviona F-117A(セルビア語で「F-117A撃墜に関するゾルタン・ダニの講演」の意)”, YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=hvgyiFCoG0U(英語の字幕あり)
〇ジョルジェ・アニチッチ退役中佐(第3射撃中隊の副中隊長)の戦争日誌
Dorde Anicic, SMENA(セルビア語で「シフト」の意) ,(Belgrade, Agrotop marketing, 2009)
〇F-117の撃墜に関する記事
・「F-117撃墜の真相」『航空ファン』2009年8月号
・“Air Defense: How to Take Down an F-117”, Strategy Page, last updated 2005,
https://www.strategypage.com/htmw/htada/articles/20051121.aspx
・”An In-Depth Analysis of how Serbs Were Able to Shoot Down An F-117 Stealth Fighter during Operation Allied Force”, THE AVIATION GEEK CLUB, last updated 2020,
https://theaviationgeekclub.com/an-in-depth-analysis-of-how-serbs-were-able-to-shoot-down-an-f-117-stealth-fighter-during-operation-allied-force/#google_vignette
〇NATOのベオグラード中国大使館誤爆に関する記事
中沢克二「米ステルス機残骸と中国大使館誤爆、22年目「真相」の怪」『日本経済新聞(電子版)』、2021年6月2日。
Profile
中村 宗一郎
戦史研究センター戦史研究室主任研究官
専門分野:
東アジアの安全保障、バルカン半島の安全保障、陸上自衛隊史