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スーパー7で思い出した、クルマを操る歓び

もう数ヶ月前のこと、知人のご厚意でケータハム スーパー7なるクルマを試乗させてもらった。
その歴史は非常に長く、原形たるクルマは60年以上前にイギリスで誕生。昔のF1マシンに似た形はそのままに、現代に至るまで進化を重ねている(あまり詳しくないので、詳細は省略)。

試乗できたのは、フォード製1.6ℓをベースに1.7ℓへチューンされたエンジンを積む個体。
現代のクルマに慣れた目で見ると…、そもそもドアがない、窓ガラスもない、車内空間…というほどのスペースもなくもはやコックピット、という具合に異質すぎる光景が広がっている。

レーシングカーそっくりの見た目。
腕のある人が走らせるとそのままの走りをする
走るのに必要な最低限のものしかないコックピット。
キャビンも最低限で、大柄な人にはやや窮屈


ステアリングを外してどうにか運転席へ滑り込み、横に乗ったオーナー氏からコックピットドリルを受けて、初めてのキャブレター付きエンジンの始動に若干手こずりながら、何とか発進。

パワーステアリングが付いていないのでステア操作の重さに最初だけ苦労するも、走りだせば案外何てことはない。アクセル操作に対しても実に反応よく(アクセルと足が直結しているかのよう)、現代のクルマでは考えられないほど危ないナリをしているのに想像以上に乗りやすい。
ただ、今のクルマには大抵付いている電子制御(所謂ESPのような車両の姿勢制御デバイス)どころか、ABSもブレーキの倍力装置(=アシスト)も付いておらず、ドライバーの能力だけでコントロールすることを要求されるので、あくまでも恐々と走らせてはいるのだが…

山道を制限速度で一通り流してみて思ったのは、「クルマと人が一体になる歓び」であり「クルマを操る歓び」である。

現代のクルマは様々な事情でどんどん大きく重くなる傾向にある。また、様々な電子制御がお節介してくれるので、例えば一昔前なら乗り手を選んだようなスポーツカーでも、運転初心者が普通に走らせることもできるようになっている。
年齢も能力も様々なドライバーが乗ることを考えれば、そうして便利に安全になっていくのは正しい行き方ではあるし、技術の進歩も年々感じるところである。
その一方で、自らの操作で凶器にもなり得るような危うい機械を動かしているという感覚までも、希薄になりつつあると感じる。

一方、スーパー7はあくまでもドライバーが自らの腕で、自らの意思で操ることを要求するし、クルマの返す反応も怖いくらいに分かりやすくダイレクトだ。
ステアリングからは路面のザラザラ感が手に取るように分かるし、アクセルを踏むとエンジン内部で混合気が燃えて力を出し、クルマを前に進ませようとするのが伝わってくる。
剥き出しの体にこれでもかと感じる風。まるでクルマと人が一つになったように軽々身を翻す。ちょっと焦げたような排ガスの匂いも漂ってくる。
一歩操作を間違えば「死」に簡単に直面するので緊張感と隣り合わせだが、これ即ちスリルでもある。

以前読んだ本で「ドライビングはスポーツである」と語ったひとがいたけれど、自分の頭で考え、身体を動かしてクルマを操作し、クルマからは遅滞なく正直に反応が返ってきて…というのを繰り返しながら、その言葉の意味を反芻し、改めて得心した。
走ることだけを考えたこのクルマを操り、免許を取った頃に味わった「クルマを動かす」という感動を久々に思い出した気がする。

本気でこのクルマを走らせれば考えられないほど俊敏に走るし、実際以前その片鱗を味わってもいる。
今回の試乗はその時にはとても及ばない安全運転だったが、原初の歓びを思い出し、同時にクルマの世界の広さと奥深さをも垣間見て、これだから運転もクルマも楽しいのだなと感じた。

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