【小説】ありがとう深度
一
山田太郎(25歳男性)は、一人暮らしのワンルームマンションの玄関から出たところで、スマホを忘れていないか確認するため、手提げバッグのなかに手を突っ込んだ。
スマホはバッグの内側ポケットにあった。
とりあえず取り出して、ディスプレイで時刻を確認する。
7時48分。いつも通りの時間だ。今から駅に向かえば、いつも乗っている電車に間に合うだろう。
歩き出そうと思ったそのとき、山田はスマホのディスプレイに見慣れないアイコンが表示されていることに気付いた。白枠の正方形のアイコンの中に、小さな文字で「thank you!」とだけ書いてある。
「これはいったい何だ?」山田は独り言を言った。
こんなアプリをダウンロードした記憶はない。寝ぼけてる間にダウンロードしてしまったのだろうか。
とりあえずそのアイコンをタッチして起動させた。
「このアプリは、”ありがとう“という音声を自動で感知し、その深度を計測するものです。発せられた”ありがとう“の言葉に含まれる感謝の気持ちを、レベル1からレベル10までのあいだで測定できます。また、本当は感謝していない、むしろ迷惑に思っていたり疎ましく思っているにも関わらず”ありがとう“が発せれられた場合は、その偽り度をマイナスレベル1からマイナスレベル10で測定できます。この度はありがとう深度アプリをダウンロードしていただき、まことにありがとうございました。」
アプリが起動して最初に出てきたその注意書きのようなものを、山田は二回繰り返して読んだ。
さっぱり意味がわからない、というのが最初に湧いてきた感想だった。
とりあえず、スマホに向かって、
「ありがとう」と発してみた。
すると、スマホが短くバイブレーションした後、ディスプレイの中で赤い文字で数値が動き始めて、間もなく停止した。
「ありがとう深度 マイナス1.2です」
いったいこれは何なんだろう。
山田はもう一度、
「ありがとう」と発した。
さっきと同じように数値が動いて、止まる。今度はマイナス0.8だった。
さっきの説明書きを信じるなら、このアプリは「ありがとう」という発話に含まれる本当の気持ちを測定するためのもの、ということになるのだろう。
そんなことが可能なのだろうか。発声の様子や声の高低などで計測するのだろうか。
そもそも、なんでこのアプリがインストールされてるのだろう。
とりあえず考えるのは後にして、今は出勤しなければならない。
山田はスマホをスーツの内ポケットに入れ、玄関の鍵が閉まっているのを確認してから、歩き始めた。
二
山田は毎朝、駅までの道の途中にあるコンビニで、眠気覚ましのために缶コーヒーとシュガーレスガムを買うことを日課にしている。
コンビニのレジ係の女の子は大学生アルバイトで、すでに顔なじみになっている。とても感じのいい子で、たまに一言二言、会話をすることもある。
その日も昨日と同じように、冷たい缶コーヒーをガムを手に取ってレジに持って行った。
「いらっしゃいませ」「256円のお買い上げになります」「44円のお返しになります」
会計を済ませて、山田は購入した商品を手に持った。
そして店を出るためにレジの前から去ろうとすると、
「ありがとうございます。おまたお越しくださいませ」とレジ係の女の子は素敵な笑顔で言った。
そのとき、ポケットの中でスマホが振動した。
表に出てから、スマホを取り出して画面を見る。
「ありがとう深度 マイナス5.8です」
これは、先ほどのレジ係の子が言った「ありがとうございます」がマイナス5.8ということなのだろうか。つまり、ぜんぜん「ありがとう」と思っていない、むしろ迷惑に思ってるくらいなのに「ありがとう」を発したということなのだろうか。このアプリが本物で故障していないならば、それ以外にとらえようがない。
そりゃアルバイトの立場にしてみれば、客が多かろうが少なかろうが貰えるお給料は基本的に変わらないわけで、客が来ないほうが楽には違いない。
しかし、自分で言うのも何だが、それほど大きな金額を使ってるわけではないにしてもほぼ毎日来ている常連客なのに、まったく感謝されていないということがあるのだろうか。
山田はガラス越しに店内のほうを眺め、レジ係の女の子の顔を見た。
いつものさわやかな笑顔で接客している。
駅について、混雑する電車に乗る。
車内に、「ご乗車ありがとうございます。次は○○駅です」という録音されているアナウンスが流れる。
内ポケットでスマホが振動した。
「ありがとう深度 マイナス0.1です」と表示されていた。
三
山田の働く会社のオフィスは、十階建てビルの二階にある。
経理や法務を担当する部署なので、基本的にほぼデスクワークのみ。
出勤してからパソコンに向かい、黙々と仕事をしていると、午前11時を少し過ぎたところで、
「こんにちは。いつもお世話になっております。日本レンタグリーンです」という声が聞こえてきた。
オフィスの出入口のほうを見ると、青い帽子に緑の作業着を来た若い男が立っていた。
「観葉植物の交換に参りました。失礼いたします」と男は言ってオフィスに入って来る。
先々月から、社長の趣味もあって、レンタルサービスの観葉植物をオフィスに置くようになった。二週間に一回、植木鉢が交換されて、別の種類の観葉植物がやってくるという仕組みになっている。
男は課長のデスクに背後にある、1メートルほどの高さがあるフィカスを、植木鉢を握って持ち出して行った。そして間もなく、新しい観葉植物を運んできた。
今回の観葉植物はシェフレラという種類らしく、男は課長に何やら説明していた。
そしてそれが終わると、
「ありがとうございました」
帽子を脱いで頭を下げ、男は帰って行った。
山田のデスクの上に置きっぱなしにしていたスマホが振動して、ありがとう深度アプリが起動し始める。
「ありがとう深度 マイナス6.1です」と表示された。
その日の終業にて、部署内の一人の同僚が会社を退職することになっていた。田中という男性で、山田より10歳ほど年上。会社を退職して故郷に帰り家業を継ぐというようなことを田中は言っていたはずだが、あまり詳しくは聞いていない。
酒席が苦手な本人の希望により送別会などは行われなかったのだが、課長がこっそり用意していた花束を田中に手渡し、これまでの働きをねぎらった。
同僚たちは田中に握手を求めて、
「お世話になりました。本当にありがとうございました」や、「どうかお元気で。今までありがとう」と笑顔で声を掛けていた。
そのたび、山田のスマホのアプリが起動して、ありがとう深度を勝手に計測していく。
それがプラスになることは一度もなかった。
四
夕方から山田は同い年の恋人とデートをすることになっていた。
待ち合わせ場所のカフェに行くと、彼女はまだ来ていない。
ひとりでコーヒーを飲んでいると、となりの席の会話が聞こえてきた。
「だいじょうぶですよ。みなさん、これでちゃんと毎月配当を得られていますから」
ちらりと横を見ると、40代くらいの男と、80歳くらいだろうか、とにかく年老いた男が、四人掛けの席に向かい合うように座っていた。
40代の男はきれいなスーツを着ていて、いかにも営業パーソンという見た目だった。男はテーブルの上にカラーで印刷された資料を出して、老人に何やら説明している。
「こちらの商品なんですが、インドネシアでエビの養殖をする事業の債券に投資するという案件になっております。事業自体には現地政府が利益の保証をしていますので、元本割れは有りません。一口100万円から、満期は5年で年12%利回り、つまりひと月あたり1%の利回りとなっておりますね。すでに20年事業を継続しておりますので、安全安心ですよ」
それを聞いて、老人は老眼鏡越しに資料を見ている。
「すごいね。そんなに利息が付くのか」老人は目を輝かせて言った。
「ええ。お孫さんの教育費のためにも、いかがでしょう」男は言った。
「いきなりたくさんの口数を投資するわけにもいかないから、最初はひとつかふたつになると思うけど、後から追加もできるんだよね?」
「ええ、可能ですよ」
山田は横でそれを聞きながら、これは詐欺に違いないと思った。エビの養殖か何か知らないが、今どき元本保証で12%の利回りなど有り得ない。仮に有り得たとして、なんでそれをわざわざ人に売ろうとするだろうか。ぜったい儲ける案件なら、自ら投資するではないか。
「それ、詐欺ですよ」という言葉が喉元まで出てくる。しかし、まったく見ず知らずの相手に口をはさむのも気が引ける。
老人は少しのあいだ悩んでいるようなそぶりをしていたが、やがて、
「よし、じゃあ一口だけお願いしようかな」と言った。
「ありがとうございます!」男はそう大声で言い、テーブルに額をこすりつけるように頭を下げた。
男は契約書らしき書類をバッグから取り出す。
老人もふところのポケットから印鑑を取り出した。
さすがにこの老人が騙されるのを黙って見過ごすわけにはいかないだろう。そう思って山田が立ち上がろうとすると、内ポケットでスマホがふるえた。
スマホを取り出して画面を見ると、
「ありがとう深度 プラス9.8です 非常に強い感謝が示されました」
と表示されていた。
その画面の示す意味を、呆然とした頭で考えているうちに、老人はハンコを撞いてしまった。
彼女とのデートは、予約していた高級イタリアンに行った。彼女の誕生日が来週の土曜日なのだが、その翌日が彼女が受験する資格試験日になっているため、少し繰り上げてお祝いをする。
一本5万円するワインをふたりで飲み、生ハムサラダやオッソ・ブーコ、ピリ辛のアラビアータなどを楽しんだ。
山田はまだ20代半ばだが、この彼女との結婚を真剣に考えている。
とても可愛くて穏やかな性格をしているし、話していて気が合う。一生を共にしていける気がしている。
食事が終わって、山田は彼女のに誕生日プレゼントを渡した。
何をプレゼントしたらよいものかずいぶん迷ったのだが、ショップの店員にいろいろ聞いて、ダイヤモンドの付いたプラチナのネックレスを買った。
彼女にそれを手渡すと、彼女は早速それを開封する。
ケースを開けると、彼女の顔が満面の笑顔になった。
「これ、高かったんじゃないの? 本当にもらってもいいの? うれしい。ありがとう」と彼女が言う。
そのとき山田の内ポケットでスマホが振動した。
こっそりスマホの画面を見ると、
「ありがとう深度 マイナス3.8です」と表示されていた。
五
デートを早めに切り上げて、山田はワンルームの部屋に帰った。
着替えずにベッドの上に大の字になって、ただ天井を眺めている。
知らないあいだにインストールされていたこの「ありがとう深度アプリ」なるものは、いったい何なんだろう。注意書きにあったとおり、ありがとうの深度を計測しているのだろうか。
だとすると、今の世の中、本当の「ありがとう」というのは有り得るのだろうか。買い物をしても働いても人に物を贈っても、それは得られない。
心の底から感謝しているのは、人を騙すことに成功した詐欺師だけではないか。
しかし、自分のことを顧みると、そうそう強気なことも言えない。普通に生活していれば、日に何度かは「ありがとう」と発するが、そのうち本当に相手に感謝の意を伝えるための「ありがとう」は、いくつあるだろう。
形式的な、あるいは社交辞令の「ありがとう」ばかり。
眠れないまま、いつの間にか午前一時を過ぎていた。
夕食のイタリアンは美味ではあったが、量がちょっと少なかったため、かなり腹が減ってしまった。
いつもならコンビニで弁当かサンドウィッチでも買って食べるところだが、どうもその気になれない。
スマホでこの時間でも営業している近所の飲食店を検索してみると、すぐ近所にある中華料理屋が出てきた。
個人宅と店舗が一体化している典型的な町中華の店で、山田は一度も訪れたことはない。夜中の二時まで営業しているようだ。
飲食店レビューの中身を見ると、いくつか書き込みがあった。
「料理はおいしいのですが、大将が不愛想なのが残念です」などと評価されている。
べつに今さら不愛想など気にしても仕方ないだろう。
横開きのドアを開けて暖簾をくぐり店内に入ると、客は誰もいなかった。ずいぶん古い店のようで、お世辞にも綺麗とは言いがたい。
カウンター向こうの厨房から眼鏡をかけた痩せた店主が山田の姿をちらりと上目遣いで見て、「いらっしゃい」と小さく言った。
店の隅に、音量小さめに設定されたテレビが点いていて、深夜の情報番組が流れている。
山田はカウンター席に座り、ラーメンを注文した。
店主は返事もせずに黙々と調理を始めた。評判通り、不愛想な店主らしい。
まもなく出されたラーメンを、山田は音を立てながらすすった。店のなかにその音がむなしく響く。
濃いかつお出汁のしょうゆラーメンの味は、非常に良かった。
食べ終えると、会計を支払って、
「ご馳走様でした」と山田は言った。
振り返って店を出ようとすると、店主は山田の背中に向かって、
「ありがとう。また来てね」と棒読みの台詞のような調子で、ぼそっと言った。
店の表に出ると、山田はスマホを取り出した。
「ありがとう深度 レベル10MAXです 最高級の感謝が示されました」
了