【小説】臓器が当たる宝くじ
政治哲学がテーマの作品となっております。約25,000字。
※
「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。
1.公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
2.その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。
臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。(Wikipedia「臓器くじ」の項目より引用)
年末ジャンボ臓器宝くじとは
「第8回年末ジャンボ臓器宝くじ、発売中! 一等はなんと、心臓移植を受ける権利!! 二等以下も、肝臓や腎臓、肺などさまざま豊富な臓器を取り揃えました。お値段は一枚たったの300円、販売は12月25日まで。移植が必要な皆様、年末ジャンボ臓器宝くじで移植のチャンスをゲットしましょう。買わなきゃ不健康なままですよ!」
一等 心臓
二等 肝臓
三等 腎臓A・腎臓B
四等 肺A・肺B
五等 骨髄
六等 角膜A・角膜B
七等 現金300円
年末ジャンボ臓器宝くじ規約
第一条 臓器レシピレエントに当選した方(以下「当選者」という)は、臓器移植を望む場合は申込期間内に国立東京○○病院年末ジャンボ臓器宝くじ事務局(以下「事務局」という)まで申し出ることとします。
第二条 当選した対象臓器のほかの臓器への交換は認められません。
第三条 当選者は当選くじ券及びレシピエントになる権利を第三者へ譲渡・販売することはできません。(ただし配偶者又は3親等内親族への無償譲渡は認められる場合があります。)譲渡・販売が判明した場合は、譲渡契約無効又は当選取消となります。
第四条 移植予定の臓器が、医学的見地から当選者への移植に不適と医師に判断された場合は、当選取消となります。
第五条 当選者は、当選した臓器が希望した臓器と異なる場合は、当選辞退(※)することができます。辞退は申込期間内に事務局に連絡するものとします。
第六条【重要】 各臓器の当選者のうち、一名でも臓器移植を拒絶(※)した場合は、全ての当選が取消となります。この場合、当選者全員が移植を受けられないこととなります。
第七条 移植を拒絶する場合は申込期間内にその旨を事務局に意思表示するものとします。
第八条 当選者は、移植を希望する又は拒絶する又は辞退する意思表示を事務局にした場合でも、申込期間内であればその意思表示を変更することができるものとします。
第九条 申込期間内に事務局まで当選のご連絡をいただけない場合は、当選を辞退したものとみなします。
第十条 当選が取消となった場合でも、くじ券購入金額の払い戻しはいっさいいたしません。
第十一条 本規約は七等の当選者には適用されません。
(※)ご注意 「辞退」と「拒絶」は異なります。「辞退」は当選した臓器が購入の動機となった希望する臓器と異なる場合を指します。「拒絶」は当選した臓器の移植を受けるべき状態であるにも関わらず、自由意思により移植を受けない選択をすることを指します。規約第六条は、拒絶する当選者が現れた場合は適用されますが、辞退の場合は適用されません。
・その他、ご不明な点があれば、お気軽に事務局へお問い合わせください。
事務局電話番号 03-○○○○-○○○○
抽選は12月31日。
移植申込期間は5月31日まで。移植手術実行日は9月1日以降を予定しています。
腎臓A
当選者 沢田太一(48歳、男性)
大晦日、沢田は自宅のコタツに入ったまま、手に持ったスマホのディスプレイを何度も再読み込みさせていた。
年末ジャンボ臓器宝くじの抽選は午後6時からで、公式サイトに当選番号が公開されるのは午後7時になっている。
まだ午後6時50分を過ぎたところだが、もしかしたら公式サイトがちょっと早く更新されるかもしれない。ソワソワしながら、何度もブラウザの再読み込みをしてしまう。
つけっぱなしにしているテレビから、今年最後となるニュース番組が、年末年始の買い出しに出かける人の群れで下町の商店街がにぎわっている、という映像を流していた。
沢田の妻の清子が、台所で年越しそばを作っているらしく、出汁のにおいが沢田のところまで漂ってきた。
沢田がⅠ型糖尿病を発症したのは、ちょうど40歳のころだった。
ある日をさかいに、毎日たくさん食べているにも関わらず、急激に体重が減りはじめた。長年の不摂生をため込んだような出っ張っていたビール腹が、みるみるへっこんでいったことを最初は喜んではいたのだが、どうもそれだけではなく、体調がおかしい。
いつも慢性的に倦怠感があり、特に朝の寝覚めが吐き気をともなう不快感に満ちていた。歳のせいだろう、最初はそれを言い訳にしてごまかしていたが、ある日の仕事中、同じ職場で働く後輩に、「先輩、いつも缶コーヒーか炭酸飲料飲んでますよね。一日、何本くらい飲んでるんですか?」と聞かれたときに、とうとう自分の身体に本格的な異状が起こっていると自覚するようになった。
意識して数えてみると、なんと缶コーヒーとコーラだけで毎日約7本を消費している。
子供のころから甘いものが好きで、特に夏は浴びるように炭酸飲料を飲んでいた。成人してからも……というより、成人してからはさらに、喉が少し渇けば自販機で、冬は甘いロング缶のホットコーヒー、夏は炭酸飲料や冷たいコーヒーを頻繁に買って飲むようになっていた。
自販機の清涼飲料7本といえば、これだけで1500キロカロリーに及んでいる。ふだんの食事は毎日三食しっかりと食べている。
もしかしたら、ガンなんじゃないだろうか。ガンを患ったら、体重が一気に減るとどこかで聞いた記憶があった。
妻の清子に相談した上、有給休暇を取得して病院に行ったところ、ガンではなくすでにかなり進行している糖尿病に侵されていると診断された。尿検査に続いて血液検査も受けさせられ、腎臓の機能もかなり弱っているということだった。
前回健康診断を受けたとき、たしかに血糖値が高く過体重であるという注意を受けた記憶があるが、あまり強くは言われなかったため、全く気にしていなかった。
とにかく、食餌療法と投薬は今すぐにでも始めなければならないということで、日々の食事において気を付ける点を指導され、アクトスという錠剤の薬を処方された。
「おそらく、インスリン注射を打たなければならなくなるまで、あと1年です」
分厚いレンズの眼鏡をかけた医者にそう言われたとき、思わずため息が出た。
その日以降、雪崩を打つように沢田の症状は悪化していった。医者の予言どおり1年後には、シャチハタ印鑑のような形のインスリン注射を常に持ち歩くようになり、44歳の春には、週に二回の人工透析を開始した。
毎日の食事は、糖分やカロリーだけでなく、塩分やたんぱく質の量まで制限される。脂の乗った最上級のブリの刺身に、醤油を二、三滴だけ垂らして食べたときは、なぜだか情けなくて涙が出てきた。
清子と結婚したときに沢田はまだ21歳の学生で、翌年産まれた長男はすでに大学を卒業して独り立ちしている。やっかいな病を得ても子供の将来を心配しなくてもいいことは、沢田にとって救いだった。また仕事がデスクワークでさして体力を要さず、会社も沢田の病気に対して理解をしてくれ、透析を受ける日は仕事を早退させてくれたこともありがたかった。そのぶん給料は若干減ったが。
しかし、これから死ぬまで透析を続けていかなければならないと考えると、うんざりする。透析を受けたあとは、血圧が低下するため、全身が疲労困憊したようにだるくなり、吐き気もある。透析を受ける前日は、一分に一回くらいの割合でため息を漏らした。
透析から解放される唯一の方法は、腎臓移植。
移植を受けたからと言って、完全に健康になるわけではない。一生、免疫抑制剤を飲むことが必要になるし、すい臓の機能が回復するわけではないので、インスリン注射も引き続き必要となる。
だが、それらは透析の辛さや煩わしさと比べると、単なる日課のようなものにすぎないだろう。
一度だけ、ふたつある腎臓のうちのひとつを移植してはどうか、と妻の清子が沢田に申し出たことがあったが、悩んだ末に沢田はそれを拒絶した。移植のドナーになる手術は、レシピエントに為されるそれよりは簡単なものであるらしいが、決してノーリスクではない。愛すべき伴侶の身体を奪おうという気にはなれなかった。
脳死患者からの移植を希望して、臓器移植ネットワークの移植希望登録はしているが、そうそう年に何人も脳死者が出るわけもなく、望みは薄かった。
8年前から始まった年末ジャンボ臓器宝くじは、毎年100枚を購入している。こちらは脳死移植のレシピエントになるよりも、さらに確率は低いだろう。当たったとしても、腎臓以外の臓器が当選したら、何の意味もない。
しかし、希望は捨てきれない。
大晦日の時刻は間もなく午後7時となる。そろそろNHKでは紅白歌合戦が始まるだろう。
「それでは皆様、よいお年を」テレビの向こうのアナウンサーが、そう言って頭を下げた。
スマホのブラウザを再読み込みしたら、ディスプレイの画面が切り替わり、再読み込みする前のものとはちがったページになった。
「20XX年 第1207回全国自治体宝くじ(年末ジャンボ宝くじ) 及び 第8回年末ジャンボ臓器宝くじ 抽選結果発表」
沢田はすぐに「第8回年末ジャンボ臓器宝くじ」の項目にページを移動させた。
一等の心臓から、ずらっと当選番号の一覧が並んでいる。ほかには目もくれず、三等の腎臓Aと腎臓Bの番号だけを見る。
そして、コタツの上に置いていたくじ券を、宝くじ売り場でもらった黄色いビニル袋から取り出して、一枚一枚確認していく。
「はずれ、これもはずれ、はずれ……」
そう言いながら、買った100枚のうちの半分近くのはずれを確認し、「やっぱり今年もはずれだろうか……」などと思いながら、次の一枚をめくると、
「え……」とつぶやいた。
当たっている……、ように見える。ディスプレイの数字と、手元のくじ券の数字が、ひとつも変わらず一致している。ということは、当選だ。
もう一度、当選番号一覧の画面を上下に動かして、確認する。
間違いない。
三等の腎臓Aが、当たっている。心臓でも角膜でもない。欲しかった腎臓が、当たった。
「やったああ!!」沢田は子供のような雄叫びを挙げた。
台所の清子は、沢田の叫び声を聞いて一瞬のけぞって、
「いったい、どうしたのよ?」と言った。
沢田はコタツから飛び出して、台所の清子の前までやってくると、
「腎臓が当たった、腎臓が当たった、腎臓が当たった!!」と興奮しながら、三回繰り返した。
そして、その喜びを表すように清子をハグした。
「ちょ、ちょっと、料理してる途中なんだから、危ないでしょ」困惑気味にそう言った清子だったが、笑顔がこぼれている。
とりあえず電気コンロの火を止めて、あらためて沢田と清子はコタツに入ると、スマホの画面とくじ券の番号を何度も交互に見た。
やっと興奮が収まってきた沢田は、
「でもまあ、移植を実際に受けるにはいくつもハードルがあるみたいだし、ぬか喜びになってしまうかもなあ。特に毎年、注意事項の第六条というのがネックになって、実際に移植がされることはないようだ」と言った。
「第六条って?」清子が問う。
沢田は当選したくじ券を裏返して、蟻がつぶれたような小さな文字で書いてある「注意事項」いう項目を指さした。
清子は目を細めてそれを確認する。
第六条【重要】 各臓器の当選者のうち、一名でも臓器移植を拒絶する当選者がいた場合は、全ての当選が取消となります。この場合、当選者全員が移植を受けられないこととなります。
清子はそれを読んで、顔を上げた。
「ということは、腎臓が当たったあなたが移植を希望しても、ほかの心臓や肺が当たった人のうち一人でも拒否したら、あなたも移植を受けられなくなるっていうこと?」
「そういうこと。いざ、見ず知らずの人の臓器をくじでもらうということになったら、びびってしまう人が出てくるらしいんだ。だから、今回で臓器宝くじは8回目になるけど、実際に移植が行われたことは一回もないんだ。俺はもちろん腎臓はほしいけど、今回もきっと拒否するって人が出てくるだろうから、無理だろうね。まあ、期待せずに、申し込みだけはしとこう」
「なあんだ」清子はそう言って、台所に戻った。
沢田がテレビのチャンネルを変えると、紅い衣装を着た若い女性三人組のアイドル歌手グループが、ひどくテンポの速い曲を踊りながら歌っていた。
心臓
当選者 松田聖子(41歳、女性)
正月元旦の午前10時過ぎ。
「なんで、こんなもんばっかり当たるのよ!」
松田はくじ券を握りつぶすようにぐしゃぐしゃ丸めると、ゴミ箱に向かって投げた。くじ券は狙いを外れて壁に当たり、跳ね返って松田の足元近くまで戻ってきた。
ドラッグストアの登録販売者――実質的にはレジ係だが――として、時給920円でパート勤務する松田は、世間では正月休みの真っ最中である今日も午後一時から出勤しなければならない。
一人暮らしの粗末なワンルームマンションの床に落ちている、ボール状に丸まったくじ券を足で蹴ると、朝起きて着たきりだったパジャマ代わりのジャージを脱ぎ始めた。
自分はなぜこんなに、運が悪いのだろう。ため息どころか、涙すら出てきそうだった。
38年ほど前になるらしいが、物心つかないうちに松田の両親が離婚し、松田の親権は母親が持った。母が結婚前のファミリーネームに復姓したため、それまでは「岡田聖子」だった名前が、「松田聖子」になってしまった。
読み方は違うものの、老若男女問わず日本人であれば誰もが知っているであろうこの国民的アイドルと同姓同名となったときから、自分の不幸は始まったような気がする。
小学生のころから、男子に付けられるあだ名は「せいこちゃん」だった。もちろんそれは、敬意をこめてそのあだ名で呼ばれるのではなかった。
「ブスのまつだせいこ」や「まつだせいこのくせにブサイク」と言われたことは、数限りない。松田の容姿は十人並で、決して他人と比べてひどく劣るというものではなかったのだが、本物の松田聖子とは比べるまでもない。
こんな名前じゃなかったら、こんないじめは受けずにすんだかもしれないのに。離婚したときに復姓した母や、「聖子」と名付けた一回も会ったこのない父を恨まない日は一日もなかった。
しかし、容姿に関する悪罵は、呪いとなって実現する。
繰り返し「ブス」や「ブサイク」と言われ続けた松田は、自分に対して自信を失い、いつも暗い表情をしてしまっているため、思春期を過ぎるころには見紛うことなきブスになってしまっていた。
さすがに高校のころになると、容姿のことでいじめを受けることはなくなってはいたが、同じクラスの女子が次々と彼氏をゲットしていくなか、松田に言い寄ってくるような男子はついにひとりも現れなかった。
高校卒業後は簿記や税務などについて勉強する、会計の専門学校に進学したが、そのころちょうど大不況のまっただ中だったため、専門二年になってすぐに開始した就職活動は、全くうまくいかなかった。
面接に行くと、試験官を務める男性あるいは女性は、松田の履歴書を見ると、「へえ、まつだせいこって言うんだ」と半笑いの表情で言う。
松田はそのたびに、「まつだしょうこです」と訂正した。
名前のせいなのか、容姿のせいなのか、それとも不況のせいなのか、とうとう松田はどこにも就職が決まらないまま卒業し、フリーターとしてアルバイトを続けることになった。
以降、一度も正規雇用されることなく、40代を迎えた。
松田は今まで男性とお付き合いしたことは一度もない。というか、キスも男性と手をつないだこともない。
正確には、30代半ばのころに若い男と手をつないだことはあるのだが、相手はホストだった。
バイトが終わった後、ひとりで映画を見に行った帰りに、繁華街でホストクラブの客引きに遭い、ほぼ強引に店のなかに連れて行かれたのがきっかけだった。
ホストクラブでのサービスは、それまで一度も男にチヤホヤされたことのない松田にとっては、竜宮城にでも迷い込んだかのような、異次元の快楽をもたらした。
「今年の下半期で、店のナンバーワンになったら、オーナーが大阪に新しく出店する店を任されることになる。すごいチャンスなんだ。もしよかったら、しょうこちゃんも俺と一緒に関西に行こうよ」
羽瑠翔という名前の、21歳の美男子は松田をそのように繰り返し口説いた。
松田は日々の食費を倹約し、早朝から午前9時までの週に4日のバイトを始め、お金がたまると羽瑠翔の働くホストクラブに行き、ドンペリピンクを注文した。
気付けば消費者金融三社に合計400万円の借金ができており、羽瑠翔はいつのまにか店からいなくなっていた。携帯に電話すると、着信拒否されていた。
ようやく騙されていたことに気づいて、途方に暮れた松田が、人生を逆転させる唯一の頼みとしたのが宝くじだった。「一等前後賞合わせて○億円!」というふれこみで広告される、季節ごとの宝くじは毎回購入した。
しかし、ドラッグストアの安い給料で借金を返済しながら生活しているので、宝くじを何枚も買うことはできない。だいたいいつも、1枚だけ買うことが多かった。
去年の暮れにも、よく当たるという評判の郊外にあるショッピングセンターの宝くじ売り場で、年末ジャンボ宝くじを買ったのだが、家に帰ってくじ券をよく見てみると、それは現金が当たる宝くじではなくて、臓器があたる「年末ジャンボ臓器宝くじ」のほうだった。
きっと、売り場の店員が間違ったに違いない。
容姿も良くなく運にも恵まれていない松田だったが、身体だけは人一倍頑強にできていた。子供のころから、大きな病気はしたことがないどころか、風邪ひとつひいたことがない。健康診断以外で最近病院に行ったのは、薬缶のお湯をこぼして左足首まわりを火傷したときのことだったが、もう15年以上前になる。
当然、松田は臓器移植など必要としていない。
派手な虹色の柄に、心臓を表しているのだろうか、ピンク色のハート形の顔をしたキャラがプリントされている臓器宝くじのくじ券を見て、
「あした、宝くじ売り場にいって、ふつうのジャンボ宝くじと交換してもらおう」独り言を言った。
もう10年近く前になるのだろうか、臓器移植のための臓器が当たる宝くじというのが試験的に販売開始になったことは松田も知っていたが、購入したことは一度もない。臓器宝くじの仕組みも、商品以外がふつうの宝くじとどう違うのかも、知らない。
「まあ、いっか。どうせ私には関係ないし」
松田は臓器宝くじを財布のなかに戻した。
翌日、仕事が始まる前に、前日と同じ宝くじ売り場に行った。
「あの、すみません。昨日、こちらでくじを買ったんですけど、ふつうのジャンボ宝くじをお願いしたんですけど、もらったのが臓器宝くじだったんです。だから、ふつうのほうに交換してください」
そう言いながら、臓器宝くじのくじ券を窓口に出すと、昨日とは違う若い女性店員は、ちらりと松田の顔を見上げた後、
「一度販売したくじ券は、返品や交換はできないことになってます」と言った。
「え、そんな……、私はちゃんとふつうのジャンボ宝くじくださいって言ったのに、間違ったのはそっちじゃないですか。交換してください」
「そう言われましても、ルールとなっておりますので……。くじ券はその場でお確かめいただかないと」
納得いかない。もっと強く要求しようと思ったが、よく当たると評判の売り場なだけあって、すぐに後ろに人が並んできて、順番待ちをしている。
たかが300円で争うのも馬鹿馬鹿しいと思ったので、
「それじゃ、いいです。現金が当たるふつうのジャンボ宝くじ1枚ください」と言って、百円玉三枚を財布から出した。
大晦日も松田は出勤だった。世間では年末年始を家族や恋人と過ごす人も多いのだろうが、松田には普段と変わらない一日だった。12月31日に午後1時から閉店の夜10時まで勤務し、家に帰るとドラッグストアで買って帰ったカップ麺の天蕎麦を食べると、軽くシャワーをして寝た。
翌、元日。この歳になると、昔からの友人や知り合いは皆結婚していて、ともに初詣に行く相手もいない。
ふとんに入ったまま、特番ばかりのテレビをザッピングしながら見ていたが、まだ宝くじの当選を確認していないことを思い出して、起き上がった。
財布から、二枚のくじ券を取り出す。
そして、スマホのブラウザを開いて、見慣れた宝くじ公式サイトを開いた。
年末ジャンボ宝くじの結果は、はずれ。一等どころか、下一桁が合ってさえいればいい七等の300円も当たっていなかった。
ため息を吐いて、ブラウザを閉じた。
しかし手元にはもう一枚、臓器宝くじのくじ券がある。「どうせ、当たっても意味ないし……」そう思いながら、くじ券の裏を見てみると、
一等 心臓
二等 肝臓
三等 腎臓A・腎臓B
四等 肺A・肺B
五等 骨髄
六等 角膜A・角膜B
七等 現金300円
と、臓器宝くじの当選賞金(商品)一覧が目に入った。
「ひょっとしたら、こっちのほうで七等が当たってるかも」
松田は閉じたブラウザを再び開いて、宝くじ公式サイトを表示した。
当選番号案内
第8回年末ジャンボ臓器宝くじ
一等 心臓 142007
松田は手元のくじ券をもう一度見た。「142007」と書いてある。
「ウソでしょ?」とつぶやいた。
もう一度確認する。やはり、一等の心臓が当選している。
何度もスマホのディスプレイとくじ券の番号を見て、当選したことをはっきりと認識した。
しかし、そのときに松田が感じたのは、喜びよりも怒りだった。
「なんで、こんなもんばっかり当たるのよ!」と叫んだ。
心臓が当たったところで、松田にはなんら使い道はない。健康な心臓を、べつの健康な心臓とわざわざ入れ替える物好きが、世界のどこにいるだろうか。七等の300円が当たったほうがはるかにマシだった。
こんなしょうもないくじで運を使うくらいなら、なぜ現金が当たるほうのくじで使わなかったのか。自分の運命のあまりの残酷さに、松田は情けなさを感じた。
その日、仕事を終えて帰宅した後に、松田はふと思い付いた。
この心臓が当たったくじ券、誰かに売ることはできないだろうか。
くしゃくしゃになって床に転がったままのくじ券を広げて、裏面の規約をじっくり読んだ。
第三条 当選者は当選くじ券及びレシピエントになる権利を第三者へ譲渡・販売することはできません。(ただし配偶者又は3親等内親族への無償譲渡は認められる場合があります。)譲渡・販売が判明した場合は、譲渡契約無効又は当選取消となります。
そう書いてはあるものの、買うときに身分証等を提示したわけではないし、事務局というところでは譲渡があったかどうか確認できないのではないだろうか。
しかし、公式には禁止されているから、当たりくじ券の写真付きでネットオークションなどでおおっぴらに販売するのは難しいだろう。
仮に売れるとしたら、どれくらいの値段が付くのだろうか。なにせ心臓なんだから、10万円や20万円ではないはずだ。
譲渡したことがバレて当選が取り消されたとしても、松田にとっては痛くも痒くもない。試してみても損はないだろう。
松田はウェブメールのアカウントでツイッターアカウントを開設し、
「ジャンボの当選くじ券、お譲りします。1等。詳しくはDMで」
それだけを書き込んで、その日は布団の中に入った。
翌朝、ツイッターを確認すると、同じように最近開設したばかりらしいアカウントから、1件のDMが来ていた。
「はじめまして。ジャンボ当選くじ券の件、興味があります。臓器宝くじの一等の心臓という意味でしょうか? それなら、ぜひお譲りいただけないでしょうか。500万円までなら用意できます」
それを読むと、松田は布団から飛び起きた。まさか、500万円とは。いまだに残っている消費者金融の借金を返済しても、まだ余る。まさに、宝くじに当たったようなものだ。
このDMを送ってきた人がどんな人物なのか、松田は知る由もない。ただ、心臓移植が必要だということしかわからない。が、そんなことはどうでもいい。お金に換えられるものは、換えたほうがいいに決まっている。
まるで自分が臓器売買の闇ブローカーをやっているような気分にはなったが、それが何の問題があるというのか。
会計の専門学校に通ってたころ、経済学の授業もあった。そこで習ったのだが、アメリカのフリーなんとかという名前の経済学者が、「新自由主義」という、こんな内容のことを唱えていたらしい。曰く、企業や消費者の自由を奪う政府の規制は完全に撤廃すべきであり、あらゆる商品サービスを市場で自由に取り引きすれば、社会の豊かさは最大になる。規制は社会を貧しくする。
なぜドラッグストアで自分と同じ仕事をしている正規雇用の薬剤師は、自分と給料が3倍も違うのか、松田にはまったく理解できなかった。そこには、正規雇用と非正規雇用という、わけのわからない線引きがあるせいだ。松田も時給が上がるということで、医薬品の登録販売者の試験を受けたが、薬なんか自由に売って自由に買って、自由に使えばいいじゃないか。自分は過度に抑圧され、余計な苦労を強いられている。自由を求めることは、搾取された自分の富を奪い返すこととイコールなのだ。
心臓を売れば、松田はお金をもらえる。買った人は移植を受けるチャンスをゲットする。両者が得をして、誰も損はしない。立派な取り引きじゃないか。そもそもくじ券を転売してはならないという規制が馬鹿げている。
松田はツイッターのDMを送ってきた相手への返信として、「そのとおり、年末ジャンボの一等の心臓です。当たりくじの写真も添付して送ります。ぜひ500万円でよろしくお願いします。」そう書いたが、送信を押そうとした寸前で、指を止めた。
まだほかに、このくじ券をほしいと思う人がいるかもしれない。もっと高い値段を付ける人がいるかもしれない。申込期間は、まだだいぶ先だ。焦る必要はないのだ。
記入した未送信のメッセージを削除し、
「お問い合わせありがとうございます。おっしゃる通り、臓器宝くじの一等心臓の当選券です。証拠の写真も送信いたします。しかし、すでにほかにも数名、欲しいというお問い合わせをいただいておりますので、もうしばらくお待ちください」と書き直して送信した。
すぐに返事が来る。
「700万円でいかがでしょうか?」
意図しないまま、松田の顔に笑みが浮かんだ。
数日のうちに、やはりほかにも数名、譲ってくれというアカウントが現れた。
最終的には心臓のくじ券に2000万円の値段を付けたアカウントに販売することになった。
「振り込み確認後、書留郵便で送付いたします。秘密は厳守いたします」
そう返事をした翌日、松田の預金通帳にはそれまで見たこともない数字が印字された。
約束通り、松田は北海道に住む購入者へ心臓の当選くじ券を送付した。そして役目を終えたツイッターアカウントは即刻削除した。
思わぬ大金を手にし、松田はドラッグストアのパート勤務を退職することを決意した。2000万円という金額は一生をすごすには足りないが、しばらくは働かなくてもじゅうぶん生きていけるだろう。さすがにホスト通いはもうやらないが、美味しいものを食べ、ずっと欲しかったブランドもののバッグを買うくらいの贅沢をしても何ら問題ない。
「やったー! 臓器宝くじ、ありがとう~!」ワンルームマンションの自室で、松田はひとりそう叫んだ。
肝臓
当選者 野本ゆかり(21歳、女性)
「ゆかりちゃん、ちょっといい?」
「何?」
「あのね、驚かないで聞いてね、実はお母さん、去年の年末に、宝くじ買ったんだけどね」
「宝くじ? ふうん。それで、どうしたの。まさか1億円でも当たったの?」
「いや、……驚かないで聞いてほしいんだけど」
「なによ、何度も。驚かないわよ。いったい、どうしたの?」
「当たったのはね、肝臓なのよ?」
「カンゾウ?」
「そう。臓器の肝臓が、当たった」
「お母さん、いったい何を言ってるの? さっぱりわからない。臓器が当たるって、いったいどういうこと?」
「えっと、どこから説明したらいいか……。ふつうの宝くじのことは知ってるわよね。一等前後賞合わせて3億円が当たるって、やつ。でもね、宝くじにはもうひとつ種類があってね、そっちは移植を必要としている人のために、臓器が当たるっていうのよ」
「……臓器があたる? 本当に、そんなのがあるの?」
「ほら、これがそのくじ券」
「本当だ。こんなのあるんだ。常識を疑うわね」
「で、やっと肝臓が当たったのよ」
「それで、私に移植を受けろっていうわけ?」
「だって、そのために買ったのよ。ゆかりちゃんには内緒にしてたけど、毎年1000枚くらい買ってたのよ。どうしても、ゆかりちゃんのための肝臓がほしくて……。これまで七等の300円しか当たったことなかったけど」
「1000枚ってことは、30万円? そんなに買ってたの?」
「そう」
「……私、いらない。移植受けたくない」
「どうして?」
「だって、こんなの人間として間違ってるよ。臓器が宝くじの商品になるなんて。人身売買よりもタチが悪いわ」
「でも、実際に国の事業として行われてるんだから、ほしい人が利用して悪いことじゃないでしょう。少なくとも、法には違反しないし」
「法に触れないからって、何をやってもいいってわけじゃないでしょ。脳死移植の臓器希望登録も、お母さんがどうしてもって頼むから、申請は出したけど、私はそもそも脳死移植もあんまり賛成できない」
「どうしてそんなのこと言うの?」
「私だって健康な肝臓が欲しくないわけじゃない。でも、人と人とはどんな状況であっても、対等であるべきだと思う。性別や職業や、国籍や人種に関わらず。臓器を提供する人と移植される人が、対等な関係とは思えないのよ。脳死移植に関しても、臓器を提供するという意思表示は脳死になる前にされたもので、脳死になってからではもう本人に確認に取りようがない……。そんな状況で実行するのは、道徳的に間違ってると思う」
「でも、ゆかりちゃんがこの臓器移植を拒絶したら、ほかの当選者のも取り消しになっちゃうのよ」
「なに、それ?」
「ほら、この規約の第六条っていうので」
「それちょっと見せて。……ふうん、そういう仕組みになってるんだ。ちょうどいいじゃない。私の拒絶で、ぜんぶの移植をひっくり返せるんだから」
「そんなこと、言わないで。ゆかりちゃんが拒絶したら、ほかの当選者の期待を裏切ることになるのよ!」
「だから、私はそうしたいって言ってるのよ。それは私に認められた権利でしょう。仮に私の行動が愚かなことだったとしても、人には愚かさを選択する自由がある。……こんなことまでして生きたいと思ってる人なんか、正気じゃないわ。お母さんも、ちょっと頭おかしいんじゃないの。こんな宝くじにたくさんお金使うなんて。もうそのくじ券は捨てて、この話はしないで。そして、二度とそんなバカなくじは買わないで」
「お願い。お母さんはゆかりちゃんに健康になってほしいだけなのよ。母親として、娘に健康な身体をあげられなかったのが、本当に悔しくて……」
「泣かないで、お母さん。その気持ちはちゃんとわかってるから。でも、この臓器宝くじの移植だけは、どうしても受けるわけにはいかない。脳死移植の機会が来るのを、じっと待とうよ。そのときは、ちゃんとお母さんの言うこと聞くことにするから。だから、今回の当選は拒絶するって、事務局というところに連絡しといて、ね?」
腎臓B
当選者 村野光星(32歳、男性)
20代前半だったころに、年末ジャンボ臓器宝くじというものが試験的に発売されると知って、村野はとてもいい試みだと思った。
人は何のために生きるべきなのか。それは大義に殉じるためだ、と村野はずっと思っていた。愛すべき祖国と公おおやけのために生き、そしてそのために死んでこそ日本男児ではないか。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
これは村野が尊敬する、国に生涯を捧げたとある有名な烈士の辞世の句だ。
死への意識を常に伴ってこそ、生きることが意味を持つ。かなうならば、ぜひ自分も辞世の際にはこのような境地に至りたいものだ。
近ごろ、訳知り顔の軟弱者どもが、自由主義だのジェンダーフリーだのフェミニズムだのダイバーシティだのという、左翼の亜種でしかないカルト思想を世に蔓延させている。しかも政治屋どもがそれに媚を売って票稼ぎのためにペコペコ頭を下げている。
まことにそのような、この美しい瑞穂の国を惰弱せしめる寄生虫は、一人残らず誅戮されるべきである。
ともかく、人がその臓器を提供し、複数の同胞の生命を助ける臓器宝くじというのは、まさに文字通り素晴らしい献身だ。村野はそう思っていた。
しかし、のちに自分がその臓器くじを購入して、臓器移植を望むことになるとは、想像もしていなかった。
村野は工業高校卒業と同時に、地元の従業員20人に満たない小さな工務店に就職した。工務店のメインの事業はとび職で、ニッカポッカというワタリの広いだぼだぼの作業服を着て、建設現場の足場を組む。
典型的ないわゆる3Kの仕事だが、給料は良かったし、何より社長――というよりも親方と呼んでいた――が厳しくも面倒見が良く尊敬できる人だったのが、キツい業務を毎日こなす動機となっていた。
親方は二代目だがすでに50歳を過ぎていて、先代から会社を任されて10年以上になる。
昭和の時代は、とび職人といえば気性の荒く背中に刺青を入れて、あまりよろしくない組織と関係している人が多かったらしいが、現親方は強面こわもてであることを除けば普通の人だ。
しかし今も工務店の顧問として残っている先代の社長は、墨が入ってるかどうかは確認したことはないが、地元の右翼団体「侠真会」の幹部を務めている。
工務店の事務所の壁には、大きな日の丸と旭日旗が横にならんで飾られている。
月に一回程度、その右翼団体が主催する宴会のようなものが開かれ、工務店に勤務する者は強制参加となった。
と言っても、村野はその宴会に参加するのがイヤだったわけではない。普段はあまり飲めないプレミアムビールや高級日本酒を飲めるし、二次会は美人のホステスがいる高級クラブに連れていってもらえる。
また、その宴会には工務店の同僚だけでなく、ほかの同業他社や異業種の従業員など、普段は接することのない人と話ができるのも面白かったし、もちろん右翼団体の構成員もいるため、とても刺激的な話を聞くこともできた。
そんな環境の場所に出入りするうちに、無垢な一人の建設作業員だった村野も感化され、いつの間にやら北一輝や頭山満、赤尾敏や野村秋介という戦前戦後の右翼思想家の書物を熱心に読むようになり、気が付けば仕事のない日曜日には頭に「七生報国」と書いたハチマキを巻いて街宣車のハンドルを握る、立派な団体の準構成員になっていた。
「右翼団体」というと、公共事業の妨害をしたり、一般企業にあやしげな機関紙の購読を強引に勧誘したり、暴力団の別働隊だったりと、一般にはあまりよいイメージを持たれていないが、狭真会はそのようなことは一切しない純粋な政治結社である。
訴えている主張は、憲法9条破棄、竹島と北方領土の自衛権発動による奪還、18歳以上男子に対する徴兵制の導入など。
そんな村野が腎臓を失うことになったのは、31歳のとき。原因は、交通事故だった。
ゴールデンウィークの後半の初日、知人の運転するオートバイの後部座席に乗り、旅行で三重県まで向かっていたのだが、箱根あたりの峠道のカーブで対向車線を走る普通車が中央線を大きくはみ出して、オートバイに接触した。
自動車はガードレールに衝突して止まり、バランスを崩したオートバイは道路を20メートルほど転がって止まった。運転していた知人は、道路を滑るようにして投げ出され軽症ですんだが、後部に乗っていた村野は身体が高く投げ出され、ガードレールを超えて5メートルほど崖下の小川の上に身体を強く打ち付けた。
目が覚めると、病院の天井が見えた。おぼろげながら、事故の記憶がある。
主治医が覗き込むように顔を近づけてきて、
「ご気分はどうですか?」と言った。
村野は口がうまく動かないことを自覚しながらも、
「すみません。ご迷惑をおかけしました」と言った。
そしてベッドの上で仰向けになったまま、医者から事故後にあったことの説明を受けた。
事故後に救急車が呼ばれ、この病院に運ばれたこと。地面には腰から落ちたらしく、骨盤に骨折があるが、骨折による後遺症のおそれは少なく、リハビリを経て歩くようになることはじゅうぶん見込みがあること。
ただし、腰を打ち付けたさいに、右の腎臓が重度の腎破裂を起こしており、すでに摘出済みであること。左の腎臓についても大きく損傷しており、回復するかどうかは見通しが立たないこと。しばらくは血尿が出続けるであろうこと。
そのようなことを告げられた。
それを聞いて村野がまず思ったのは、
「歩けるなら、まあいいや」というものだった。
常々、いかにして国のために生命を賭するかを考えている村野は、生きることにあまり執着がない。もちろん健康であるに越したことはないが、何かを失うことになっても、それは天命なのだろう。
村野には医学や健康に関する知識はなかったために、腎臓が損傷したらどうなるのか、ということはまったく知らなかった。
翌週、オートバイを運転していた知人と、車を運転していた男が揃って見舞いに来た。二人とも平身低頭の態で、特に車の男のほうは、病室で土下座をして床に頭をこすりつけた。
「ちょっと、頭を上げてくださいよ。そんなことされても、困ります」村野はベッドに寝たままの状態で言った。
そもそも、バイクに二人乗りする時点で、事故があったら大変なことになるということは覚悟はしていた。もちろんわざと事故を起こしたわけでもあるまいし、村野も自動車を運転するため、いつ加害者になるともわからない。
どうやら生命にかかわるような怪我ではなさそうだし、今さら相手を責めたところで時間が戻るわけでもない。
「もちろん、法に則った責任は取ってもらいますが、それ以上をあなたに望もうとは思いません。事故のことは早くお忘れになって、あなたのやり方で国に貢献してください」
半年後にリハビリを始めると、意外にも早くふつうに歩けるようにはなったが、走ると腰のあたりに軽い痛みが残った。どうやら、元の職場の工務店には復帰できそうになかった。
そして、医師が予言したとおり、損傷を受けた左の腎臓もみるみるうちにその機能を失い、30代の若さで週に二回の透析を要するようになった。
リハビリを終えて退院すると、村野は右翼団体の幹部の紹介を受けて、建設資材を作る鉄工所の事務職として働くことになった。とび職から事務職は、まったく異なる業務内容になるため、最初はわからないことばかりだった。
それまで、インターネットブラウザ以外はほとんど触ったことのなかったパソコンの表計算ソフトの使い方を一から勉強し、商工会議所で開催しているビジネス文書作成の講習会などにも参加して、なんとか半人前になるまで、1年近くを要したが、なんとか会社の同僚の足を引っ張らずに、日々仕事をこなしている。
人工透析を受けなければならないのは煩わしく、身体も前ほどは頑強ではなくなったために、いろいろと生活に制限が出ていたが、それよりも村野が辛く思っていたのは、透析に要する費用だった。
透析を受けるのは、なんと年間500万円ほどの医療費がかかる。しかし、健康保健の特例があるために、村野が実際窓口で負担するのは、毎月ちょうど1万円だった。
支払いが少ないのは村野にとってはいいことだったが、それは同時に国家に莫大な負担をかけていることを意味する。
我が国は長年の財界への利益誘導と過保護な社会福祉制度のせいで、国地方合わせてすでに1000兆円を超える借金を抱えており、国家財政は火の車だ。
村野ももらった給料から源泉徴収で税金を納めてはいるが、明らかに納める額よりも使う額のほうが多い。
いっそのこと、自分など自殺したほうがいいのではないだろうか。それが至誠というものではないだろうか。
病院帰りにそんなことを考えながら歩いていると、どこかからこんなアナウンスが聞こえてきた。
「第8回年末ジャンボ臓器宝くじ、発売中! 一等はなんと、心臓移植を受ける権利!! 二等以下も、肝臓や腎臓、肺などさまざま豊富な臓器を取り揃えました。お値段は一枚たったの300円、販売は12月25日まで。移植が必要な皆様、年末ジャンボ臓器宝くじで移植のチャンスをゲットしましょう。買わなきゃ不健康なままですよ!」
声の聞こえてきたほうを見ると、長方形の小さい建物があり、周りに黄色い派手なノボリが何本も立っている。
宝くじ売り場だ。さきほど聞こえてきたアナウンスの声は録音されたものらしく、まったく同じ声を時代遅れの小型CDプレイヤーのスピーカーが繰り返し発していた。
※※※
「もしかしたら、近々移植を受けることになるかもしれないんです」
正月明けの最初の透析を終えて、村野はすっかり顔なじみになっている病院受付の女性に対して、そんなことを言った。
「え、あらあ」と、村野より4歳年上の受付の女性は言った。
「まあ、まだ確定ではないんですけどね。そうなると、こちらの病院通いも終わりということになるかも」
「お身内のどなたかから、生体移植をお受けになるんですね」
「いえ、そうじゃなくて……」
村野は女性の顔を近づけると、声を潜めた。
「実は、臓器宝くじが当たったんですよ。しかも腎臓が」
「本当ですか、すごい!」と女性は嬌声を上げた。
村野は人差し指を自分の口までもっていき、「シーッ!」と言った。
人に聞かれると、非常に具合が悪い。なにせこの病院のなかには、のどから手が出るほど腎臓を欲しがっている人間で満ちているのだ。
「おめでとうございます。ラッキーですね」女性は村野の耳元でささやいた。
「まあ、実際移植されるのは、もう少し先になるでしょうから、それまではお世話なると思いますが、とにかく大きなチャンスが巡ってきました。事故でこんなに身体が不自由になるとは思ってなくて、なんと自分は運が悪いんだろうと嘆いたこともありましたが、どうやら捨てる神あれば拾う神あり。くじ券の番号を確認したときは、我が目を疑いましたよ」
「でも……」女性はさらに声を低くした。
「なんですか?」
「私もよく仕組みは知らないんですけど、あれってたしか、ひとりでも移植を拒否する人がいたら、ぜんぶダメになっちゃうんだったような……」
「そうです。でも、ほかの当選者を全員説得してでも、移植をOKしてもらいますよ。そもそも、くじを買った時点で、当たったのに拒絶するなんて、おかしな話じゃないですか。きっと、大丈夫ですよ」
「そうかなあ……。でも、あれのドナーって、誰がなるんですか? 脳死者が出るまで待つのかな?」
その問いの答えを村野は知っていたが、口には出さなかった。
公益のために自己の権利を放棄するのは、国民の神聖な義務だ。きっと俺は間違っていない。
平静を装って、受付でお金を支払い明細を受け取ると、「それじゃ、また」と言って病院を後にした。
肺B
当選くじが売れ残っていたため、当選者なし。
角膜A、角膜B、骨髄、肺A
当選者が、希望していた臓器と異なっていたことを理由に、辞退。
ドナー
2000万円の現金を手にし、松田聖子はとりあえず引っ越すことにした。住んでいる四畳半一間ユニットバスのワンルームは、ひとりで暮らすには不自由ないが、決して快適とは言えない。
不動産屋に行くと、近くにロフト付き十畳の洋室が入居者募集していたため、そこに決めた。家賃は3万円ほど高くなるが、問題ない。
スーパーで大きめの段ボールをもらってきて、引っ越し作業をしていると、インターホンがなった。
部屋着のまま「はーい」と言って玄関のドアを開けると、一目で高級とわかるスーツを着た中年の男と、若い一組の男女が立っていた。
「まつだ、しょうこさんですね?」と中年男が言った。
「そうですけど……」
「わたくし、こういう者です」
そう言って名刺を手渡してきた。
見ると、
国立東京○○病院年末ジャンボ臓器宝くじ事務局長
近藤総司
と書いてあった。
松田はとっさに、「やばい」と思った。
きっと、当たりのくじ券を転売したことがバレたのだ。
購入希望者とやり取りしていたツイッターのアカウントは削除済みだ。価格交渉などはDMを通じてやっていたので、第三者からは見えないはずだ。警察か役所が捜査したのだろうか。それとも、松田へ購入の意志を示したが、最高値を付けることができなかった数名のうちの誰かが密告したのだろうか。
ここは、シラを切り通すしかない。
「何か御用ですか?」松田は精いっぱい威圧感を出して言った。
「少し、お話したいことがございますので、ご足労願えませんでしょうか。表に車を待たせておりますので」
「お断りします。いま引っ越しの準備してて、忙しいんです。それじゃ」
ドアを閉めようとすると、若い男がドアの上部に手を掛けて強い力で引っ張った。ドアノブを手に握っていた松田はつられて引っ張られ、バランスを崩して倒れそうになった。
「何するんですか!」
「お願いしますよ。あまり手荒なことはしたくないんです。おとなしく従ってください」
無視して部屋に戻ろうとすると、後ろから腕をつかまれ、外に引きずられた。
「連れていけ」と中年男が言った。
若い男に右腕をつかまれて背中の後ろでねじられ、右腕は女に信じられないくらい強い握力で握られた。
「痛い、痛い。何なのよ、アンタたち。誰か、警察呼んでください!」
そう叫んだが、引きずられながらアパートの外に連れていかれ、黒塗りの高級車の後部座席に押し込まれた。
巨大な建物がいくつも並んでいる国立東京○○病院に到着すると、車を降りるように言われ、降りるとまた連行される凶悪犯のように左右の腕をつかまれ、一番大きな病棟の中に連れて行かれた。
そしてエレベーターで最上階の部屋に押し込まれて、
「ここでしばらくお待ちください」と言われた。
部屋の中には、ガラステーブルをはさむように革製のソファがある。
表に出ようとしたが、ドアには向こう側から鍵が掛かっているらしく、ドアノブが回らない。
「こんなの、拉致監禁じゃないの! 開けなさいよ。アンタたち、ぜったい訴えてやる!」
なんでこんな目に遭わなければならないのか。当選くじを転売したのが違法行為だとしても、警察が来るならともかく、病院の人間が勝手にこんなことをしていいはずがない。
ドアノブをがちゃがちゃ回しながら何度もドアを叩いたが、何の反応もなかった。
窓から逃げようにも、その部屋は8階で飛び降りることなどとうていできない。30分ほど、ドアの向こうに対して抗議の声を上げ続けたが、とうとう疲れてソファに座った。
どれくらい時間が経過しただろう。窓の外の日が傾き始めたころ、おもむろにドアが開いた。
顔を上げてそっちを見ると、もう老年の域に入ってそうな白衣を着た医師が部屋に入ってきた。続いて、アパートから松田を引きずり出した男女も入ってくる。さらに、松田に名刺を渡した臓器宝くじ事務局長の近藤という人物も入ってきた。
「どうも、お待たせしました。わたし、当病院院長の山口と申します」
着ている白衣の胸には「やまぐち」と書いたネームプレートが安全ピンで留めてあった。
「アンタが責任者ね。いったい、これはなんなのよ!」
松田の絶叫に、山口はまったく関心を示さない様子で、近藤のほうをちらりと見た。
近藤が意味ありげにうなずいた。
「臓器移植法特別措置法8条に基づき、住民基本台帳からコンピュータでランダムに抽選された年末ジャンボ臓器宝くじのドナーに、あなたが選ばれました。本日以降、申込期日まであなたのお世話は当病院がすべて致します。よろしくお願いします」
「え……、ドナー?」
松田が臓器宝くじで当たったのは、ドナーではなく、臓器移植を受ける側のレシピエントになる権利だ。そのくじ券もすでに転売しているが。いったい、どういうことだろう。
「8年前から、年末ジャンボ臓器宝くじというのが試験的に導入されたことは、ご存知かと思います。くじに当選した方は、臓器移植を受ける権利を有します。一方で、臓器を提供する側となるドナーは、抽選日と同じ12月31日に、全国民、具体的には住民基本台帳のなかで臓器移植コーディネーターの移植希望登録をしている人を除き、成人している人を対象として、ひとりが自動的に抽出されます。そのドナーに、松田聖子さまが今回選ばれたために、こちらへお連れしました。手荒なことをして、たいへん申し訳ございませんでした」近藤が頭を下げた。
まったく、理解が追い付かない。しばらく口を開けてぽかんとしていると、
「つまり、あなたの臓器が、年末ジャンボ臓器宝くじに当選した方への移植に使われることになります」
松田はしばらくまばたきを繰り返したが、
「それって……、わたしの身体を解体して、わたしの肺とか肝臓を、今回くじに当選した人に分配するってこと……?」
「さようでございます」山口医師が言った。
「臓器を取られたら、死ぬんじゃないの……?」
「そのとおりです」眉ひとつ動かさない、平然とした態度。
「バ、バカなこと言ってるんじゃないわよ! あんたたち頭おかしいんじゃないの。そんなの、絶対拒否します!」30秒ほど沈黙した後、松田はガラステーブルを叩いて言った。
「残念ながら、あなたに拒否する権利はございません。法でそう決まっております」
「法だか何だか知らないけど、そんなの、わたしは合意してません。勝手に決めないでください。わたしの身体はわたしのものです。何なのよ、これ。冗談にもほどがあるわ。わたし、帰らせてもらいます」
立ち上がろうとすると、近藤の横に控えていた若い男が、松田の顔を拳で殴ってきた。松田はその場に崩れ落ちるように倒れたが、意識はある。
口の中が切れて、鉄っぽい血の味が満ちた。
「先ほど、山口医師がおっしゃったとおり、松田様は本日よりこの病院で生活していただきます。もちろん松田様の臓器は当選者に移植される可能性があるため、大事に扱っていただきます。具体的には、自傷行為や出された食事を拒否する断食行為、または脱走未遂などがあった場合は、待機の警察官より即座に射殺をする決まりとなっております。年末ジャンボ臓器宝くじの規約にあるとおり、当選者が一人でも移植を拒絶した場合は、すべての当選が取り消しとなり、移植は実行されず松田様は解放されます。全員が移植を希望した場合は、適性検査を経て担当医師による安楽死処置実施後に、臓器を取り出すことになります。以上、です。何かご質問はございますか?」事務的な口調で、近藤が言った。
松田は顔を上げて、部屋のなかにいる人間の顔を一人ずつ見回した。誰もが能面のような感情がまったく感じられない表情をしている。
ようやく、自分がとんでもないことに巻き込まれたことを自覚した。
臓器宝くじが、そんな仕組みになっているとは知らなかった。近代国家でこんな野蛮で暴力的なことが許されてもいいんだろうか。くじで選ばれた人間の臓器を、強制的に奪うなんて。
そして、まさか2000万円で売ったのが、自分の心臓だったなんて。他人の心臓に付いた値段であれば2000万円は高額だが、自分の生命に付ける値段としては、あまりに安すぎる。
「繰り返しますが、脱走だけは絶対に試みないよう、お願いいたします。その場合、射撃訓練で好成績を収めた警官により、警告なしで射殺されることになりますので」近藤が言った。
さっき松田を殴った男の腰のあたりに、ジャケットの下から拳銃のホルダーが覗いているのが見えた。
冗談やハッタリではないらしい。下手に逆らうと、本当に殺される。そう思うと、急に膝から指先までが恐怖で震え始めた。
松田はまるで命乞いをするかのような口調で、
「あの、ちょっとだけ教えてください。当選者が一人でも拒絶した場合は、わたしは帰れるんですよね? どうなんですか。当選者のうちで、誰か拒絶しそうな人はいるんですか……?」と言った。
「現時点では、肝臓に当選された方から、拒絶したいというご連絡を事務局にいただいております」
「それじゃ、移植はされないんですよね? わたしはもう帰してもらってもいいんじゃ……」
「規約第八条により、申込期間内であれば、拒絶の意思決定を変更できることになっています。ですので、申込期間が終了するまでは、こちらで生活していただくことになります」
申込期間は、たしかくじ券の裏に5月末と書いていた記憶がある。3か月以上、監禁生活を続けなければならない。
「今回で臓器宝くじは8回目だったと思いますが、これまで何人が実際に臓器ドナーになって殺されたんですか?」
「これまでの臓器宝くじの移植に関しましては、すべて拒絶者が現れたために、一度も移植が実行されたことはございません」
それを聞いて、松田は少し安心した。
「わかりました。従います。でも、家に帰って着替えだけでも取りにいってもいいでしょうか?」
「御用があればごちらで承ります。私に申しつけてくだされば、週に70万円の予算を上限として、洋服その他娯楽用品は購入して参ります。もちろん、それらの品は申込期間後に帰宅するとき、お持ち帰りいただいでもかまいません。ただし、健康管理の面から、食料品とタバコ・アルコール類などの嗜好品及び刃物・鈍器など自殺に用いることができる物のご購入はご遠慮いただくことになります」
※※※
松田は病院の診察室に連れていかれ、殴られた傷口の手当てを受けた。
その後、病院の最上階にある一室に連れていかれた。毛の長いじゅうたんが敷かれた、まるで高級ホテルのスイートルームのような部屋に、キングサイズのベッドが置いてある。窓は開かないようになっているが、空調はちゃんと聞いてある。
テレビやパソコンもある。冷蔵庫の中には高級な外国産のミネラルウォーターがちょうど10本入っていた。
バスルームは広く、脚を伸ばして入ってもおつりが来そうだ。
出入口は施錠されているが、それ以外はひとり過ごすには贅沢すぎるような部屋だった。
「失礼いたします。ご夕食をお持ちいたしました」
そんな声が聞こえて出入口が開くと、メイド服を着た女が入ってきた。
メイドは手際よく、テーブルの上に皿をいくつも並べていく。
「本日のご夕食は、フレンチシェフ水口浩二監修の料理でございます。2時間後にお皿を下げに参ります」
末尾に、ごゆっくりどうぞ、と付け加えて、メイドは深々とお辞儀をすると、部屋から出ていった。
水口浩二といえば、某有名ホテルのシェフで、コース料理を頼めばワイン付きでウン十万円するというので有名だった。
「至れり尽くせりじゃん……」独り言を言う。
さっきとは一転して、いきなり金持ちのお嬢様のような扱いを受けるようになった。
自分よりも臓器を大事に扱うためにこういう環境に置かれているということは理解しているが、悪い気はしなかった。
しかも、週に70万円つまり一日当たり10万円の予算を、制限付きながら自由に使えるらしい。そのカネの出所はおそらく、松田も支払った臓器宝くじの売り上げがもとになってるのだろう。
さっき近藤は、「臓器宝くじの肝臓が当選した人が拒絶している」というようなことを言っていた。
人間、自分の意志で誰かの生死を決するなど、なかなかできるものではない。殺してさらに臓器を奪うなど、よっぽどの狂人でなければ、決断できないに違いない。
自分の身体がバラされることはなさそうだ。
銀のフォークを右手に持って、キャビアの乗ったフォアグラのソテーを突き刺して口の中に入れた。まるで歯が解けるんじゃないかというくらいの、旨味とちょうどいい塩気が口の中に広がる。こんな美味しいものは、今まで食べたことがない。
「しばらくここで暮らすの、悪くないかも」
松田はソファに座って、料理をガツガツ食べ始めた。
評価
令和X年 11月1日
内閣府 臓器宝くじ試験委員会
委員長 大坪寛美
経過報告書(第21回)
Ⅰ.ヒアリングの概要
先般、移植が実行された第8回年末ジャンボ臓器宝くじにおいて、レシピエント(当選者)となった各位へのヒアリングを実施したため、以下の通り報告する。
1.ヒアリング対象者 沢田太一(移植実行時48歳、男性)
対象臓器 腎臓A
いやあ、体調は非常にいいです。透析を受けなくてよくなったというのもあるんでしょうけど、長く食事制限を続けていたせいか、健康的な生活習慣になってましてね。水分を遠慮なく摂れるのがこんなに快適だとは思ってもみませんでした。糖尿のほうは引き続きあるんですが、こっちのほうの症状もなんだか少し良くなっているようです。
もちろん、移植を受けてよかったと思いますよ。
ドナーとなった方には申し訳ないという気持ちはありますが、人間やはり自分がかわいいですからね。いただいたチャンスは最大限活かしたほうがいいに決まってますよ。
私はこれからも健康に気を付けて生活をし、家族を大事にして一日でも長生きするのが、それがドナーになってくださった方への弔いになると思っています。
2.ヒアリング対象者 野本ゆかり(移植実行時21歳、女性)
対象臓器 肝臓
私は先天的に肝臓に異常があって、物心つく前にシトルリン血症という病気と診断され、入退院を繰り返していました。
ふだんはなんとか普通に生活することが可能だったんですが、食事にも制限があるし、学校も休みがちで、友達もできたことはありません。
自暴自棄になったこともあります。死んでしまいたいと思ったこともあります。
私の唯一の趣味は、読書でした。両親は、子供のころには私の欲しがる本はなんでも買い与えてくれました。私が15歳くらいになったころでしょうか、両親がスマートフォンを買ってくれて、それを使ってインターネットで自分で本を注文するようになりました。
地元の小さな本屋はあまり品ぞろえがよくなく、それまでは小説ばかりを読むことが多かったのですが、通販サイトで世の中にはほかにもたくさんのカテゴリーの書籍が出ていると知って、いろんなものを乱読するようになりました。
私が特に興味を持ったのは、政治哲学の、特に自由主義についてでした。
ずっと、なぜ私は健康でないのだろう。健康に産まれた人と私と、何が違うのだろう。そのことについて悩んでいたのですが、ジョン・ロールズという学者の「無知のヴェール」という概念を知って、考えを改めるきっかけとなりました。
長くなるので詳しくは申し上げませんが、AさんとBさんが対等であるということはどういうことか、また、AさんBさんが互いに対等であると認識するには、公権力はいったい何を人に保証すべきなのか、ということを探るためのキーワードであると、私は考えています。
私のような不健康な者は、ルールのない社会では、産まれてすぐに殺されてもやむを得ないはずなのに、生かしてもらえる……、その根拠はいったいなんなのだろう、と。
リベラル思想は絶対的に正しいのです。
話がそれましたね。
移植を受けて、とても快適です。もちろん、移植を受けてよかったと思います。人間の身体ってこんなに頑丈にできていると初めて知りました。
ドナーとなった方ですか?
その人にはあまり興味はありません。最初、私は移植を拒絶するはずだったんです。事務局にも一度、その意思表示はしました。
私は、臓器宝くじによってドナーに選ばれて、殺されるというのはイヤです。だから、私はたとえ当選したとしても、臓器宝くじによってドナーから臓器をもらう権利はありません。私とドナーの方の関係が非対称だからです。そう考えていました。
しかし、ドナーに選ばれた人が、実は臓器宝くじを買って当選していて、しかもその権利を転売しようとしていたと知り、私は怒りに近いような感情を覚えました。
臓器宝くじからの利益は得たいが、臓器宝くじによる責任からは逃れたいなどというのは通用しません。そのような人から臓器をもらうことに、何をためらう必要があるでしょうか。
ざまあみろ、としか思いませんね。
ドナーになった方への感謝の気持ちもありません。私は私の権利を、対等な条件で行使しただけです。
私は来年から、各国政府に気候変動へのアクションを求める若者のグループと、発展途上国の貧困を支援するNGOの、ふたつの団体に所属して活動する予定です。
気候変動によって真っ先に困るのは、発展途上国の経済的に恵まれない人々です。
たまたま発展途上国に産まれたからといって、豊かになるチャンスが与えられないのではあまりに不公平でしょう。
先進国のエゴから貧しい人々を守り、豊かで持続可能な社会を実現して、彼ら彼女らが意味のある人生を全うできるよう、微力ながらも貢献したいと思ってます。
3.ヒアリング対象者 村野光星(移植当時33歳、男性)
対象臓器 腎臓B
移植を受けたことを、後悔しています。
まさか、こんな気持ちになるとは移植前は想像していませんでした。もう死んでいる人の臓器が自分の身体の中で生きているなんて。
しかもその方を殺したのは僕です。……というと正確ではないのかもしれませんが、僕が臓器移植を拒絶していたならば、その人は死なずにすんだはずだったんです。
自分のせいで人一人が死んだという事実が、これほど重く圧し掛かってくるとは……。
毎晩、悪夢にうなされるんです。ドナーの方が枕元に立って、「私の腎臓かえして」と……。
本当に罪深いことをしてしまいました。いつも自殺することばかりを考えていますが、僕が死ねばドナーの方の腎臓も死んでしまう。それはさらに罪深いことのような気がして、もう身動きが取れません。
きっと、この苦しみを受けることが、僕に科せられた罰なのでしょう。
人は、自己の幸福を追求するために存在し、自己の幸福を追求することとは、他者の幸福を尊重することだったんです。
愛国の基礎は、隣人愛でなければならない。なんと愚かなことでしょう、僕はそんな当たり前のことすら、理解してなかったんです。
献身だの滅私奉公だのと自我を覆い隠す美辞麗句を弄して、移植を肯定していた過去の自分をぶん殴ってやりたいです。
Ⅱ.第9回年末ジャンボ臓器宝くじについて
初めて臓器宝くじによる移植が行われたことをうけ、臓器宝くじ試験委員会で第9回を開催するべきではないという動議が複数委員の連名で提出された。
当該動議に関する第一回目の会議はほぼ論点整理に留まり、その内容は次回報告書にて報告するが、現在のところ第9回を予定通り開催するべきという意見と、開催するべきではないという意見で委員は二分されている。
速やかに議論を重ね、議決を経て結論を出す予定である。
Ⅲ.前回報告書への追記事項
第8回年末ジャンボ臓器宝くじで、辞退または当選者なしとなった対象臓器(肺A、肺B、角膜A、角膜B、骨髄)については、臓器移植特別措置法41条及び附則5条に基づいて脳死者の臓器とみなされ、臓器移植コーディネーターを通じて適正あるレシピエントへ特例移植が実施された。
なお心臓に関しては、当選くじ券譲渡が為されたが規約により譲渡は無効となり、心臓移植を受ける権利は引き続き当選者に属すると判断された。
つまり今回のケースでは、心臓の提供者とレシピエントが同一人物となった。
よって、ドナー(松田聖子 享年41歳)の身体からその他の臓器摘出後、心臓のみはドナーの遺体の中に留め置かれ、そのまま縫合された。
了