【小説】天保デモグラフィー

幸いにして我が国の人口増加は、世界的にも低く、近年の出産力は、ほぼ静止人口に向かうポテンシャルとなっております。実際に人口が静止するまでには50年程の期間を要し、それまでの人口増加はおよそ3000万人に達すると推計されております。

「厚生白書昭和49年版 昭和48年度厚生行政年次白書の発表に際して」より引用。

 江戸時代後期、東日本のX藩にて。
 五月某日。
 大目付・斎藤彦次郎は城の家老の執務室に参上した。
 家老の元木宗右衛門定房は、静かに書を読んでいる。元木は斎藤よりも二十ほど年長で、そろそろ顔にしわが目立っている。
「申し上げます。城下の診療所より先月ぶんの報告がありました。患者の総数はおよそ二百で、特に流行り病などの兆候は見られないもようです」
「左様か」家老は小さくうなずいた。
 半年前、西洋医学を学んだ医者を江戸より招き、城下に診療所を設営した。診療所は身分を問わず、体調不良を起こしたものは誰でも少ない費用で受診できることになっている。
「診療所に何か不足はないか? 足りないものがあれば、予算を増額するが」家老が問う。
「今のところ、薬も人手も間に合っているようです。しかし医者も多少驚いておりました。この藩の人間は上も下も健康な者が多いと。皆、衣食足りて、よほどの善政が為されておるに違いないと、感心しておりました」
「うむ」
 藩のトップである藩主の殿様は、参勤交代で二年に一度しか領地には帰ってこない。帰ってきた殿様は、趣味である連歌や茶に興じるばかりなので、藩政の実権は家老が一手に担っていると言ってもよい。
 斎藤は大目付という役職を預かっているが、要するに家老の秘書役である。
 X藩は昔から、ほかの藩とは少し変わったユニークな統治が行われている。
 百姓、町人、武士問わず、子供は寺子屋に通うことが推奨されている。
 領内の教育水準はすこぶる高い。書を読めない者、そろばんの扱えない者はひとりとしていないと言っていい。
 健康で、知識ゆたかな人で藩は満ちている。
 身分に関わらず、藩内は皆幸福である。

 夕方、帰宅した斎藤は、今年六歳になる息子の松太と一緒に風呂に入った。
 風呂から上がって薄手の和服に着替えると、妻のなかが膳を運んできて、夕食が始まった。
 夕食の膳は、玄米二合に汁、二切れの香の物だけ。大目付という重責を担っているが、質素なものである。
 X藩は年貢が軽い。
 米を生み出す百姓が多くの米を得るべきであるという理念のもと、必要以上の富を支配階級が独占するということはしない方針となっている。 
 藩の財政は厳しいが、武士が贅沢せずに倹約すれば間に合うのだ。
 夕食が終わり、松太が床に就いた後、
「どうだ、松太は神送りは、避けられそうか?」と尋ねた。
「きっと大丈夫ですよ、かしこい子ですから。来年を待たず合格できるかもしれませんよ」なかが答える。
「そうか」と斎藤は短く言った。

 翌日、清兵衛という職人が、奉行所を通して家老の元木に面会を求めてきた。
 元木はそれを二つ返事で許可し、午後には清兵衛が登城してきた。
 清兵衛は墨で何やら書いた書面を元木に見せ、ややこしいことを説明している。清兵衛は蝋燭を作る職人で、櫨《はぜ》の実より蝋を抽出する新たな技術を発明したと主張しているようだ。
 X藩は蝋燭の産地で、多数の職人がいる。蝋燭はこの地域の名産品と言ってもよく、藩内の重要な産業のひとつとなっている。
 清兵衛の説明を一通り聞いた元木は、膝を打って、
「よしわかった。あらためて人をそちらに遣わす。確認次第、そなたには以降十年に渡って年十両の金子《きんす》を与えよう」と言った。
「ありがとうございます」
 清兵衛は頭を下げると退出して行った。
 職人の生態として、開発した新しい技術や製法を秘匿したがる。特に同業者に知られることを、生命を奪われるがごとく忌み嫌う。
 しかしそれでは、せっかくの技術がひとりの職人に囲われてしまい、産業全体としては非効率となる。
 そこでX藩では、画期的な技術を発明しそれを公開したものには、その功績に応じて報酬を与えることにした。今でいう特許に近い制度である。
 この制度は先々代の家老のときに始まったのだが、以降藩内の工業は飛躍的に発展した。職人たちが新しい技術を競うようになったため、蝋燭に限らず、製鉄や製紙、炭焼きなどあらゆる分野において日々進歩している。
 また、商人や職人の内輪で行われていた無尽《むじん》という金融システムを、藩の支援で大規模化し、事実上の信用組合のように機能している。これにより、商工業に限らず、村の灌漑整備、架橋などの大規模プロジェクトも実行できるようになっている。

「ご家老様、よろしいでしょうか」
 斎藤と同じく大目付の吉野が部屋に入ってきた。吉野は農政を担当している。
「ああ」と元木は短く答える。
「ご報告します。藩の実験田において、先年から取り置きしておった『百粒』の田植えが完了しました」
「左様か、ご苦労。如才ないか?」
「万事うまくいっております。今年の秋が楽しみです」
「わかった」
 百粒というのは、とある米の種籾《たねもみ》の通称である。ふつう一本の稲穂から採取できる米粒は八十程度である。
 百粒以上の籾を付ける稲穂だけを選別し、それを栽培して農業の生産性を上げる実験を行っているのである。
 また、根倒れしにくい稲から取った種籾と、実りの多い籾とを混合してひとつの田んぼの植えて、生産性が高く根倒れしにくい稲の開発も行っている。今でいうところの品種改良にあたる。
 これらの合理的で科学的な政策により、X藩はその規模に比較して非常に豊かな生活を送ることが可能となっている。

 斎藤の懸案だった、息子松太の「神送りの儀」は、妻のなかの言ったとおり今年に合格することができた。
 斎藤はさっそく、元木にその報告に上がった。
 聞いた元木は、
「そうか。それは良かった。おめでとう」と無表情で言ったきり、少し黙った。
 しばらく静かな時が過ぎたあと、
「今年は、何人くらいが神送りになりそうかのう」と言う。
「おそらく、八十人くらいとなる見通しとなっております」
「憂鬱だが、仕方あるまい」
「かしこまってございます」
 善政が布かれ豊かなX藩であっても、生まれてくる子供を全て成人にするわけにはいかぬ。
 七歳までに、読み書きや簡単な算術、そして一定程度の身体能力を身に付けられない子供は、男女問わず斬首されることになっている。
 これを「神送りの儀」と呼んでいる。
 家老元木は言う。
「いくら技術を磨こうと、藩内で獲れる米の量には上限がある。またどんなに質素な生活をしようとも、一人の口を養うには一定程度の米が要る。となると、必然的に藩内で生きていける人間の数は限りがあるということになる。産まれた子供を全て育てるわけにはいかんのだ」
「ほかに、方法はないものでしょうか」斎藤が問う。
「ない。よその藩で、子供の間引きは村で処々にやっておるようだ。それに比べて、我が藩のやり方はまだ人道的ではあるまいか。稲と同様、人間も質の良いものだけを残さねばならん。民が幸福な生活を送るには、必要なのだ」
 田植えの終わる水無月のころ、その年のX藩では八十五人の子供が神送りとなった。

 その年の夏は、異常気象となった。
 梅雨がいつまでも明けず、葉月も長月も断続的に雨が降り続いた。
 そしてそのまま収穫の時期を迎えた。
 田畑が大凶作に見舞われたのは、言うまでもない。いわゆる大飢饉である。
 痩せ細った稲穂が、貧弱な籾をぽつぽつと生らしている。品種改良を重ねた稲も、長雨には勝てなかった。
 もはや年貢を減免するどころの話ではない。城に備蓄してある米を救恤米《きゅうじゅつまい》として出さねばらならないだろう。しかし、それでも足らぬ。
 元木は斎藤に、
「いかほどの不足か?」と訊く。
「藩内でおよそ四千人ぶんほどの食料が不足する試算となっております」
「そうか。ずいぶん、ひどいな」
 藩はこれまで何度か飢饉を経験していたため、こういうときのためのマニュアルが完成していた。
 四千人ぶんの食料が不足しているのならば、四千人の人口を削減しなければならない。
 問題はその削減方法だが、X藩では飢饉の際の口減らしは、身分を問わずくじ引きで行われることになっている。
 くじに当たったものは、即日斬首となる。
「避け得ぬならば、一刻も早いほうがよかろう。早速、手続きに入ってくれ」
「かしこまりました……」斎藤は小さく返事をした。
「全員を助けようとすれば、被害が拡大する。これがいちばん効率的なのじゃ」
 家老元木は、はっきりとした口調でそう断言した。

 元木宗右衛門定房、及びその妻自害という報せは、その翌日に城にもたらされた。
 ただ一筆、「無辜の民を殺すにあたり、この身を以て率先す」とだけ書いた書置きが遺されていた。
「ご家老さまが人口削減のためにまず自ら切腹した」という噂は、城下に留まらず農村にまで一気に広まった。
 それを知り、少なくない武士や農民がこのように思った。
「ほかの藩であれば、真っ先に身分の低いものを犠牲するところ、ご家老の潔癖さ比すものがあろうか」
 武士に限らず職人商人や農民のあいだにも、「ご家老に殉ず」として自害する者が相次いだ。
 その結果、藩内の人口は四千人を超えて減少し、口減らしのくじ引きは実施する必要がなくなった。
 近隣の藩が飢饉により大量の餓死者を出していたが、X藩ではひとりも餓死することはなかった。
 家老元木宗右衛門定房は、飢饉をしのぎ民を救ったヒーローとして新たに建立された神社に祀られ、元木大明神として崇められた。

 翌年の秋は、一転して大豊作となった。
 家老の職は、先代に子がなかったため、元木宗右衛門定房の実弟である元木源左衛門が担うことになった。
 飢饉をやり過ごしたものの、藩内には新たな問題が生じていた。
 先代の家老に殉じたものには若い男が多かったため、藩内では農作業の担い手となる労働力が不足しがちになっている。
 人口の回復は、X藩の最優先課題となった。
 斎藤は新しい家老の元木源左衛門と、その対処法の検討を始め、いくつかの方策を提案した。
 熟慮を重ね、ようやく人口回復のための政策がまとまった。
 それを民に告知するため、城下や村に、このような立て札が建てられた。

藩内の人口不足解消のため、以下告知する

一、出産した場合は一時金五両を支給する
一、三人目の子供を産んだ家には、子供が成人するまで年貢を一部減免する
一、寺子屋の授業料を藩で全額負担する
一、診療所において子供の医療費は成人するまで無料とする

尚、神送りの儀は当面中止とする


※補足※冒頭で引用した厚生白書について。
今となってはなかなか想像しがたいことですが、戦後から1970年代あたりまでは、「どうやって人口を減らすか(増やさないか)」が国内で優先度の高いテーマとなっていました。
ですので、「幸いにして我が国の人口増加は、世界的にも低く」という表現になったようです。
本作品はフィクションであり、X藩は実在しません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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迷子のトム@note
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