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百貨店が遠のいていく
僕は百貨店という所には何年も行っていない。
子どもの頃は、お盆の時期に墓参りをしてお寺で法事を済ませた後、数十人の親戚みんなで移動して百貨店上階にあるレストランで食事をする、というのが恒例行事だった。
小さいうちはそれが楽しかったが、僕が小学校高学年の頃に祖父が亡くなると、それまでは大好きな祖父と一緒にご飯を食べるイベントだったものが一転してしまった。
お墓で祖父に手を合わせ、お寺で祖父を偲んだ後、祖父のいない百貨店で食事。
生きている側の人間と生きていない側の人間の分岐点について、子どもながらに考える機会となった記憶がある。
病気で亡くなった祖父、今なら「つらかった身体や心からようやく開放されたんだね」などと気持ちを切り替えることができるが、生まれて初めて近い身内を亡くした子どもにとっては、何もかもが受け入れがたい現実でしかない。
その後も上の身内はどんどんいなくなるし、さらに夏は猛暑日ばかりの気候変動が進み。
「お盆の時期に太陽の下でお墓参り」が危険行為になるとは、全国の無数に眠っているお墓の中の皆様も驚いていることだろう。
僕の家の父側も母側も、真夏にお墓参りと法事の恒例行事は消滅してしまった。
ちなみに祖父個人は冬に亡くなったので、命日のお墓参りはかなり冷えるが、それでも真夏の炎天下に比べればまだマシだ。
お中元もお歳暮も、父の日も母の日も敬老の日も、手続きは近くのスーパーで出来てしまう。
健在の3人の祖父母は高齢だが頭ははっきりしていて、景気が悪くなった日本経済のことも分かっているし、普通の花にちょっとした和菓子や手紙を送って充分喜んでくれている。
むしろ「贅沢は敵」みたいな思考回路が世代的にもあるのか、豪華な品を送っても困らせてしまいそうであることは日々の電話での会話の中から汲むことができるので、僕が百貨店に行かない理由がここに一つある。
一方僕の親は芸術的なことは何も分かっていない。
博識な芸人さんが、「若い頃から立派な芸術に触れていればカルト宗教の勧誘に心を動かされることはない」と言っていたのを覚えている。
僕の親は、よくその宗教の類に引っかからずに人生歩めているなと感心するほどの強運だけは持っている。
毎日ネットニュースに踊らされている割には、ロシア国民が全員戦争に賛成していると思い込んでいるような人たちだ。
豪華な品を送っても響かない。ただの花ですらつまらない要らないと言う始末だ。
響かないものを送も贈っても僕もつまらないし、代わりにトクホの飲み物を買って渡せば機嫌を良くするが、3日も経てば忘れてまたネットニュースに踊っているので、できれば年中関わりたくない。
百貨店に行かない理由2つ目が、ここにある。