友敵理論を乗り越える鍵
2010年代の平日のとある昼、都心の街中にいた僕は見知らぬ海外の方に声を掛けられた。
女性3人組だったが、その内の1人がずっと海外の言葉で話し掛けてくるので、僕は必死に耳を凝らしてみたが聞き取れない。
どうやら英語でもないようだ。
ヨーロッパのどこかの言葉だろう、しかしなぜ僕にその言語が絶対通じるテンションで声を掛けてきているんだろうと不思議に思っていたら、彼女は続けてガイドブックのようなものから地図のページを開いた。
彼女が指先でトントンと叩き示す場所には「MUJI」と書かれてあり、ああ、無印良品に行きたいのかと、ここで彼女らの目的が判明した。
ただ、その地図もヨーロッパの言葉で書かれており、日本生まれ日本在住の僕がその地図を見ても、現在地がどこかすら全く読めなかった。
僕は当時ガラケーユーザー、周囲を見渡しても無印良品はない、彼女も何故かアナログな紙の地図、これ以上僕にできることはなかった。
僕はアイムソーリーと別れを告げ、彼女らは再び歩き出して行った。
最近は、店の商品にスマホをかざし、リアルタイム翻訳で一人悠々と買い物をしている海外の方も目撃する。
現代のデジタル化社会は僕が苦戦した言語の壁をいとも簡単に打ち消せるというのに、この3年間は観光を控えなければならない何とも悔しい時代だ。
現代ではもう大きな戦争など起こらないと思っていた。
その理由は多岐にわたるが、1つを挙げて簡単に言えば「複数国のルーツを持つ人」が世の中にあまりにも多く、その人たちは戦争の時、良い意味で明確な立場を持てず、年々その人数やパーセンテージが増えれば増えるほど世の中を完全に分断することは不可能だと思い込んでいたからだ。
しかし線引するのは政治家で、政治家は個人のルーツなど関係なくとりあえず完全に2つに分断して戦争をするものだと言われた僕は気力を失うような悲しみに襲われている。
そこまでして戦争がしたいかと。
一つの戦争が始まってもうすぐ1年になるが、記事の中では個人のルーツなど関係なく、一年中海外観光をする人が大勢往来することで地球の平和が保たれるという理論。
僕自身も海外の方に声を掛けられ、「安全そうな日本人」「物知りそうな日本人(ハズレですが)」に見えているのだと思うと、言葉が通じず、お役に立てなかったとしてもヨーロッパに対してマイナスなイメージは今も全く持っていない。
そもそも日本を選んで旅行に来てくれるありがたい存在だと分かりきっているからだ。
すごく小さなことを言おう、今の僕にはスマートフォンがある。
翻訳アプリも入れている。
人と対立したって良い事はない。
対立の先に利益があっても、相手から恨まれたり執着されたり、逆転を企てるためにこちらに敵意をあらわにしたり、それを知って気分が悪くなったり。
良い事はない。
僕はただ、スマホを持ち街中に佇んで平和を願っているだけだ。