ノミの心臓とは言うけれど
僕は虫がやや苦手だ。
やや、というのは、道端で遭遇した大人しいバッタやなんかには恐怖心はなかったりする。その程度。
昨日、帰宅してしばらくして、自分の背面、玄関に繋がる廊下でバチン、バチンと音がした。
見たら、何かが飛んでいるようだった。
慌てて、廊下から目をそらさずして定位置にある緊急時の手持ちライトを手にし、ああ、やっぱりここにライトを置いておくのは正解だな、非常時にちゃんと素早く取り出せる、ノールックで点灯可能なデザインだし。災害時でも安心、
いやいや、自己評価を高めている場合ではない。
リビングから玄関に向けて、暗い廊下をライトで照らす。
(電気を付けるのは嫌な予感がするし、予感は直後に当たる。)
一度大人しくなった廊下をライトでグルグル照らしていると、発見した。
来客用に出しっぱなしにしていたスリッパの上に、体長10センチ程度の赤い胴体に長い羽を持つ者が休憩している。
赤トンボだ。
えっ、トンボ?
おそらく、僕が帰宅した時に肩のあたりにでもくっついていて連れ込んでしまったんだろう。
いや、どうしよう。
さっきの音から察するに、まだ元気そうだし、素手で捕まえられる自信はない。
困ってしまい、しばらくライトで照らし続け凝視していたせいか何かを察したトンボは、再び飛び始めた。
廊下の幅は、トンボにとっては非常に窮屈だろう、東側の壁にぶつかってバチン、西側の壁にぶつかってバチン、そこから、電気をつけていたバスルームの中に入っていってしまった。
風呂に入ろうとしていたのは僕なのに。
お先失礼します、じゃないよ。
屋外で遭遇するトンボは可愛いもんだが、廊下をバチンバチンとぶつかる音に突然恐怖心が芽生えてしまった。
僕の心臓がバクバク言い始める。
トンボは、思っているより羽が大きく、家の中だとその羽音が一層大きく感じる。
バスルームのドアを一旦閉め、外側から耳をすませる。
音がしない。また休憩しているのか。
そのまま一旦キッチンに向かい、ビニール袋を一枚取り出し、空間を作り出すようにフワっと広げた。
僕の作戦は、この中にトンボを入れて、ベランダまで運び、放してやろうというもの。
ビニール袋を構え、バスルームのドアを開ける。
パッと見、気配がない。
僕はバスルームに顔を突っ込んでみた。
すると大きな羽音を立て、僕の頭上を通過し、トンボは再び廊下に飛び戻ってしまった。
「うわあもう!」
裏声混じりの、なんとも情けない声だ。
僕が鳴くタイプの昆虫だったらこんな鳴き声のヤツ、誰も相手にしてくれないだろうな。
廊下で数回壁にぶつかる音がした後、大人しくなった。
僕もそっと廊下に出て、キョロキョロ見渡すと、廊下の一角に置いている収納ボックスのジッパーの上に止まっていた。
ジッパーの上をわざわざ選ぶとは、なんか可愛いな。
とでも言ってなけりゃ、手脚まで震えだした僕は、やってられない。
恐怖心マックスな状態だ。
ノミの心臓とは言うが、もはや胴体全体がバクバクしているような感覚の僕の心臓は、知らないが、動物のサイくらいの大きさなんじゃなかろうか。むしろ。
まんまるのビニール袋をゆっくり近づけ、トンボに近付き、そっと覆いかぶせ、出口をふさいだ。
意外にもトンボは暴れはしなかった。
屋外でトンボ捕りをしていた幼少期の記憶が一瞬よぎる。
捕まえる時に、暴れる生態ではなかっかな、そういえば。
間口を広げていたビニール袋を逃げる隙間を作らないように徐々に縮小していき、「ビニール袋を結ぶ」状態に近づけていく。
尾の方だな、少しだけムニっとした感触があったことは今日寝たらもう忘れよう。
指先が震えているが、手元が狂うと隙間から逃げ出してしまう。
代わりに肩が震え始めた。
羽音が怖いんですもん。
飛ぶ時もスピード感すごいし。
ありがたいことに、ビニール袋に包まれてからはトンボは暴れなかった。
こんな捕獲のしかたは経験がないので分からないが、羽が押さえられていればトンボって暴れないんだよな、ビニール袋という密室を感じたら、こうなるか、さっきまであんなに元気よく飛び回っていたのに。
間口を絞る最後の段階、ビニールが寄っているし、ジッパーもあるし、感覚的に、今トンボがちゃんと中に入っているのか分かりにくい。
隙間を生んで逃さないように。
これから風呂に入る疲れた身体で神経を尖らせる。
見えてはいないが感覚的に、ジッパーはこれだ。こいつからトンボが離れていれば、もう捕まえられている状態だ。
キュッと、最後の一絞りをして、ジッパーから袋を離し、左手で持ったビニール袋の中を確認する。
いる。大人しい。
その場から、ベランダまでの距離を考えたら、無意識に玄関を選んで外に出ていた。
あれ、どうしよう。ここで放しても、またうちに入ってくるか。
外の廊下を少し歩く。
何とも形容しがたいが、とにかくビニール袋を引っ掛けられる場所を見つけた。
口は左手で絞ったまま(ビニール袋を介しているが、確実にこの左手の中にトンボがいる。)、持ち手部分をそっと引っ掛ける。
左手はそのまま、右手は床面を向け、目を見開いて顎を引き、「頼む、落ち着いてくれ、というか暴れないでくれ。」
なんだか海外ドラマでこんなの見たことあるな。
だが一人のビビリな日本人が、トンボ相手にしていることだ。
地球の大きさと、僕の人としての小ささを一瞬だけ比較した。
周囲に人がいないのを確認し、膝を軽く曲げて逃げる準備を整え、パッと左手を離し、盗塁を決める野球選手のランナーと同じ気迫で、振り返ることなくダッシュで家の中に入った。
玄関のドアを閉め、ドアに背中をつけたままハアハアと呼吸を荒げ、肩も脚も指先も、久しぶりに自由になった左腕も、というか全身が震えている。
そしてそのまま目だけを動かし、トンボがついてきていないか確認をする。
羽音もしなけりゃ気配もない。
ドアから背を離した。
それでもトンボの気配はない。
ようやく、お別れすることができた。
翌朝、ビニール袋を確認しに行ったが、ビニール袋そのものがなくなっていた。
もう、全てがどうなったかは知らないが、あのトンボには楽しい余生を外で過ごしてほしい。
ただそれだけだ。