普通でありたい、という本能
夜、スーパーで買い物をしていたら、僕の目の前を小さなお子さんが元気に駆け抜けていった。
無意識にお子さんが駆ける先を見ると、スーツを着た男性が2人、笑顔で話をしている。
男性2人は互いにスーツ姿とはいえパーマをかけていたり、ヒゲを生やした上で整えていたり、真冬に少し日焼けしていたり、な風貌で、それぞれに買い物カゴを手にしている。
似た者同士だが、家庭はそれぞれなのが窺える。
「自力でうんていに掴まれるようになったら楽なんですけどね」
「もうすぐ(聞き取れなかったが、勉強の何かの一つ上のランク)に届きそうなんですよ」
孤独な僕には一瞬分からない会話だが、育児の話のようだ。
彼らはパパ友ってやつだ。
しかも育児にすっかり慣れていて、僕が親戚と話すような、「父親はちょっと家事やったくらいで満足しちゃうし」「父親からされていないことを自分がやるのは大変だよね」のようなフェーズでもない。
仕事帰りに子どもを(おそらく保育園に迎えに行った上で)連れて、オムツと食材の買い物を一人でこなす男性がここに2人。
パパ同士の会話も、「大変だよな、男なのに」のような慰め合いのようなものでもなく。
新しい次元の会話を、僕は聞いている。
子どもの成長をしっかり見ていて、うちはこうなんすよ、おたくはどうすか、という、従来ママ友だけがやっていた情報交換だ。
子どもがより良く成長をしていくためには、他世帯との情報交換は欠かせない。
同じくらいのステータスの人たちから話を聞くことで、自分が取るべき行動の中間点を知ることができる。
特に子育てに関して言えば、突飛なことなんてしなくて良い。
平均的な育て方をすることで子どもはクラスの中で「普通の人間」を自覚し、さらに協調性を持てば平穏に暮らせると導き出せるようになる。
逆に、人の話を聞かないタイプが子どもを育てると、平均的な子育て法から外れていき、良く言えばオリジナルな子ども、正直に言えば平均値からズレた子どもに成長する。
クラスの中で浮いて、「自分は普通の人間ではない」ことを自覚するようになり、何故こうなったのか、自問自答の日々が続く。
勉強や習い事にも集中できない、なぜなら子ども一人では答えを導き出せない自問自答を永遠に続けていて、そちらに集中力を奪われているからだ。
クラスの中にいた、「勉強できなくてズレてもいる子」は、この計算通りなのだ。
子どもは、できるだけ普通でありたい、普通に過ごしたい、普通の人の輪の中に入っていたい。
きっとこれが本能なんだ。
学校で愛想笑いをして「普通」っぽく過ごしても、家に帰る度に思想を捻じ曲げられる。
そして翌日にズレた状態で登校して、また必死で中間点を探る。
なんて無駄な労力なんだろう、ただ親に耳がなかったばかりに。
時々、オリジナルの子育て法で立派な大人に成長しテレビの取材に応えている人がいるが、僕の目には「親は周囲と情報交換をした(平均値をきちんと読んだ)上でプラスワン、プラスツーの工夫をした人」に見えている。
子どもは頭が良い。
自分の親がおかしいことなんて、みんな気がついている。
普通の子育てをしてくれ、特別なことなんてしようとしないでくれ。
幸せに生きたくないですか?
自分が死んだ時、周囲に無視をされて葬式を適当にあしらわれてもいいよなんて人は、子どもが欲しいとは思いませんよね?
ならなぜ子どもが欲しいのですか?年を取って身体の自由が利かなくなった時、便利屋として動いてもらおうとしていますよね?
(これも「ズレて」いるのだが)
僕は、若いうちから身体の自由がありません、体力もないのです、人の生活を支えることはできません。自力で立つのに精一杯です。
何のために子どもを産むのか、ちゃんと考えてから産んでください。
近くのスーパーに良いネットワークを持っていそうなパパさんを僕は知っていますから。