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【短編小説】100円で温めて #4
#1 はこちら
◇
「あの、白田さん、温めてもらえませんか」
打ち上げがあったあの夜からおよそ3ヶ月、三條さんの行動の真意も分からないまま、僅かに残った心のモヤモヤに気付かぬフリをして今日まで過ごしてきた。
視線を向けると、あの時と同じく100円玉が差し出されている。
三條さんが何を求めているのか、この100円を受け取ればどうなるのか、今はもうハッキリと分かる。そして、この状況を容易く受け入れようとしている自分がいる。
そっと硬貨を手に取ると、案の定優しく抱き寄せられた。
前回は屋外でお互いコートを羽織っていたこともあり、個人的には温かさをあまり感じられなかったが、今は違う。三條さんはシャツにジャケット姿、こちらはブラウスにカーディガン、密着した身体から体温が伝わってくる。
言葉もかけられず身動きも取れないまま彼の腕の中で固まっていると、「この雨で桜が散っちゃうのもったいないね、せっかく咲いたのに」と声が聞こえた。
「すごいです、私もおんなじこと考えてました」
「え、ほんと?」
「まじです、まだお花見してないのになぁって思ってました」
「…じゃあ、行く?お花見」
ハッとして顔を上げると、ゆるゆるの優しい笑顔。見慣れたはずの丸眼鏡が目の前にあって、距離の近さに一気に恥ずかしさが込み上げる。
「え、いいんですか?」
「一緒に行くのが僕で良ければ、だけど」
◇
私たちが暮らすこの街は、元は城下町だった。中心地には今でもお城の石垣が残っており、公園として整備されている。そして、その場所は桜の名所であった。
昨晩の冷たい雨が嘘のような快晴の中、三條さんと私は桜の並木道をゆっくりと歩いていた。
今日は土曜日、通路は混雑しカラフルなレジャーシートがあちらこちらで所狭しと広げられている。
二人っきりで歩いていることに加え、このレジャーシートの中に社長や先輩の顔を見つけてしまったらどうしようという緊張感から、内心ドキドキしながら歩を進める。
完全なるプライベートで三條さんと会うのは初めてだった。
とは言っても、2人きりの時に2度もあんな出来事があったのだから、仕事にプライベートが侵食してきているようなものなのだろうが。
昼過ぎに公園の入口で待ち合わせ、園内をブラブラ歩き、時折立ち止まっては散り始めた花びらを静かに見つめた。
凛とした佇まいで桜を見つめ、三條さんは何を考えているのだろうか。その表情からは伺い知ることはできなかった。
傍目から見ればデートなのかもしれない。しかし、手を繋ぐ訳でも彼から愛の言葉を囁かれるでもなく、ただただソメイヨシノを眺める時間だけが続いた。
元々三條さんはお喋りな方ではなく、交わす言葉も決して多くはない。それでも沈黙が苦痛じゃないのは、不思議な信頼関係のようなものが私たちの間に成立しているからだと思った。
日が傾きだした頃、大通りの洋食店で一緒に少し早めの夕食を取った。食事を終えて店を後にし帰路につく。
人通りの少ない路地を歩いていたとき、あの合言葉と共に100円玉が差し出された。この時もハグ以上のことはなく、彼は何事もなかったかのようにまた歩き出す。
駅に着いた後、三條さんは電車に乗って帰る私を改札まで送ってくれた。別れ際も、「今日は楽しかったよ、それじゃあ気をつけてね」と優しく手を振ってくれた。
◇
1人電車に揺られながら、今日1日を思い返す。
タイミングがあれば、三條さんが私を抱き締める理由を聞きたいと思っていた。実際、聞き出す機会は何度もあった。なのに、問いかける言葉を口にする勇気が出ないまま時間だけが過ぎて今に至る。
「なんで聞けなかったんだろ」
乗客もまばらな車内、自分にしか聞こえない声で反省する。
これまでの乏しい恋愛経験を元に色々考えてみるものの、いくつか可能性が浮かんでは確信が持てないまま所在なく漂っている。
そのまま帰宅し、楽しくも不思議なデートでじんわり疲労した身体をソファーに沈める。
しばらくして「あ、忘れてた」とおもむろに立ち上がった私は鞄から財布を手に取り、100円玉を取り出した。それを近所の雑貨屋で買っていた小物入れにしまう。
フタを開けると中には100円玉が2枚、どちらも三條さんから受け取ったものだ。もらったものだから自由に使っていいのは分かっているのだが、なんとなく使うことができないまま300円の貯金ができてしまった。
硬貨の数がハグの数。
改めて数えると抱きしめられた腕の感触が鮮やかに蘇る。その夜は中々寝付くことができなかった。
◇
最終話#5に続きます。