本当の自分は存在してない説
なんだか書いていて、中学生の思春期みたいなことばかりネタになってしまうなと思うのですが。
興味を持って人や自分を分析する時に、やはり哲学的な部分とか、掘り下げて行った結果、どの軸を使って自分なりに考える方向性になるのかとか、必要だと思うんです。
よく、誰かも言ってましたが本当の自分なんていない、ということです。
若い頃は本当の自分て何だろうっていうことを、軸がないからこそあえて決めたがると思うんです。そこに何かしらの軸がないと自分を証明できないという焦りや気持ちからなのでしょうか。
やけに自分を出せなかったり出したり探したり押し通したりするのもそういうことなのかなと。
大人になっても、何かを選択する時、行動する時、疲れた時、考え込む時、
ふと、私らしさとかそれぞれ考えると思いますが、散々考えた結果、
考えることをやめてしまう人、
考えることをやめて自然体で生きる人、
考えもせず自然体な人、
考えようともしない人、
考えた結果軸を決めて臨機応変にする人。。
などなど、たくさんパターンがあるなあと思います。
私がここでいう自分らしさとは、例えば、自分の中にいろんな人格があって、そのどれもが自分ということです。
自分らしくないことはしたくないというのは、
その自分とか、自分らしさのカテゴリーにさえも入れたくないような行いやキャラクターということです。
自分らしさや、自分というのは私の中では一つではありません。
イメージとしては、例えば、
傷つけられた時に出る反応として、後からふつふつと怒りが湧いてくる、悲しみが湧いてくる、
などというのもまた、別の人格が、
気の強い正義感人格:なんでやられっぱなしなんだよ!こいつにひどいことしやがって!とか、
良心の人格:そんなひどいことをあなたにしてくる人がいるなんて。。
弱い陰の人格:私は傷つけらるような人間なんだ。。
みたいな、自分を客観的にというか俯瞰してみているものが同じ脳内で戦っている、共存しているからなのでは?とか常に考える私は、変態でしょうか?
一種の脳内会議みたいなものかと思います。
今日は気分がいいとか悪いとか、同じことが起きても今日は腹たつたたない、悲しい嬉しいもその時々のキャラによりますので、今日はどのキャラ出てくるのかしらという感じなんだと思います。無意識でしていることを言葉にするとそんな感じがしました。
防衛本能として、多重人格なども世界には色々ありますが、その症状が強いか弱いかであって、無意識ではみんな少なからずストレスや身を守るためにそうなっているのかな、なんて妄想したりします。
それらが見えてくると、共存するべきか、軸はどのキャラなのか、本当はこれがいいのにこっちのキャラが強くなるとか。色々見えてきて面白いです。
そうなると、日常では、ある程度コントロールできるようになり、感情に振り回されるのは減ります。
バカにするとかではないのですが、
相手が鼻の穴を膨らませてくだらないことに怒ったり、文句をつけてきても、自分はそれをみて面白くてついニヤニヤしてしまいそうになるくらいまでいけば人生楽しいと思います。
それもまた生きる術の一つですが、みんなが自分の少女や少年である部分を救ってあげたいと思っているのではないかと思うのです。
何も疑いもなくまっさらな気持ちでいられた時と、今とでは一体どちらが残酷なのかというのは難しいとことです。
世界は素晴らしいこともありますが、
世界は勝手に変わってはくれないし、守ってもくれないし、待ってもくれない。
そんな中で、純粋に変わらずに何も知らないままで生きて行くことは不可能ですから、これもまた、憎き理想と現実の間寛平です。