現在28歳の私には、生まれてからの26年間を実家で共に暮らし、実家を出てからの約2年、もしくは1年を過ごした兄がいた。

 幼い頃の私と兄は、喧嘩の絶えない兄妹だった。意見が合わなければ、喧嘩。お互い譲らず、力と力のぶつかり合い。殴り、殴られ、腕を噛んだこともあった。そんな兄妹を父は、鉄拳制裁でよく止めてくれた。
 兄妹喧嘩で大きかったのは、私の右中指が骨折したことだったと思う。その時は、引き戸の兄が通りたい方と私が通りたい方が違い、双方反対側に立ったことが原因だった。これもお互い譲らぬ、壮絶な言い争いだった。しかし幼い私は、言い争っても拉致があかないと思い、引き戸の取手に手を掛け、扉を強引に開こうとした。兄も負けじと取手に手を掛け、勢いよく扉を開いた。結果、私の力負けで右中指を扉に挟まれ、骨折し、出血し、とんでもないことになったという喧嘩の結末である。その時、一番驚いていたのは一緒に住んでいた祖父母だった。血が指から滴り、痛い痛いと泣く孫の指を押さえ、血を止め、急いで近くの整形外科に連れて行ってくれたのだった。母も一緒に整形外科へ行った。母は喧嘩の現場にはいなかったので、祖父母より話を聞いていた。今思い出しても、これ以上の大きな怪我を伴う喧嘩はなかったのでこれは、私の人生史上他者より加えられた最大の怪我だと思う。

 そんな私と兄ではあったが、仲も良かった。私は、よく兄の後ろを着いて歩いた。兄が見ていたアニメをよく観た。幼少期、ミニ四駆が流行っていたので、二人でよく作った。ちなみに私はモーターすら入れるところがわからず、よく挫折していた。小学校に上がる頃には、お互い友達もでき、それぞれがそれぞれのコミュニティで遊ぶようになった。それでも家にいる大半は仲良くポケモンのゲームで遊んだり、ゲームキューブやNintendo64で遊んだりしていた。よくマリオパーティや大乱闘スマッシュブラザーズで遊んでいた。

 今、思い出しても兄は、両親に甘え、私を邪険に扱い、優しいとは言い難かったように思う。成人してからは私にも甘えていたように感じる。そんな兄は、決して私の思う理想のお兄ちゃんではなかった。しかしそんな兄でも、やっぱりお兄ちゃんなのかと思った出来事があった。
 幼い頃、私とよく遊んでいた近所の威張りん坊ちゃんがいた。その威張りん坊ちゃんは、私に言うこと聞かせたくて仕方がなく、少しでも反発しようものならすぐに手をあげる子どもだった。その子と遊んでいた日、夕方近くになり、そろそろ家に帰ると言うとまだダメだと私の腕を引っ張った。困った私は、たまたま近くにいた兄に助けを求めた。兄は、帰るよと威張りん坊ちゃんとは反対の腕を引っ張った。私はさながら、市中引っ張られの刑である(本当に実在する刑罰かは確認しておりません)。二人に引っ張られ、最終的には兄が力強く引っ張ったことで痛いながらも私は家路に着くことができた。
 また私が名古屋でしか上映しない映画を一人で観に行ったことがあった。その時兄は、心配したのか、それともその映画が観たかったのか、『俺も行く』と着いてきた。名古屋までは隣県ということもあり、普通電車で向かった。始発電車に乗り、名古屋の映画館を目指した。移動中、平日ということもあって電車内は混み合っていた。混み合っていた電車内で兄は、私を扉付近に立たせ、自分が前に立つスタイルで私が人混みにつぶされないようにしてくれた。兄なりに私を守ってくれたのだと感じた。

 お互いが社会人になってからは、各々のコミュニティに夢中で家で喋ることも減った。特に兄は、カードゲームをよくしていたので、そこでの交友関係がとても濃かったように思う。外にいた兄のことは知らないけれど、時折、電話に出る兄がボソボソと喋る姿に家での兄とは違う兄を見て、こういう兄もいたのかと思ったのだった。

 今、兄はいない。この世界のどこにもいない。存在していた証拠は残っているけれど、姿形は跡形もなく消えてしまった。人は亡くなると、あっさりと、本当にあっさりといなくなってしまうんだと思った。

 私の記憶に残る兄は、決して理想のお兄ちゃんではなかった。しかし仕事関係の方にも、兄の友人の方にも、はたまた関係が薄れていた同級生にも、兄は愛されていた。家族写真の中の兄は、ブスっとしていて、笑顔もない。友達と撮った写真の中の兄は、とても楽しそうに笑っていた。兄の生涯は、短いものであった。しかし色々な人に出会い、愛され、兄は兄なりに幸せだったんじゃないだろうかと思う。私がそう思いたい。

 私は、記憶に残るこの人の妹でよかったと思っている。

#キナリ杯

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