遊びにおける『競争』と『運』に関して、(2)
おはようございます。本日も素敵な一日になりますように願っております
以前の記事”遊びにおける『競争』と『運』に関して、(1)”のつづきになります。
アレアがアゴンの補完的役割を果たしていることを以前の記事で述べました。
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (167-215頁)によれば、
アゴンならアゴンというただ一つの決定的な分類は、それに向かない敗者から将来の希望をすっかり奪ってしまいます。だからアゴンに代わる別のテストが必要なのです。運を頼りにすれば、あまりにむきつけの競争、ごまかしの競争の不公正にもなんとか耐えられるようになります。同時に勝運にも恵まれない人びとにも、敗者同士の、当然はるかに数の多い争いでは、正しい競合が行われるだろうという希望を残してくれます。出生というアレアがかつての至上権を失い、代わって規則のある競合が勢力伸長してくるにしたがい、それと並んでアレアの二次的なメカニズム、すなわち番外の大勝が不意に転がり込み、勝利者は呆気に取られて呆然としているといった、そうした無数のメカニズムが発達し、増殖してきています。こうした目的に応えるのが、偶然の遊びになります。競技と見せかけながら、実は賭けのリスクの、単純あるいは複雑な運の要素が基本的な役割を占めている、そういう共通性格を持つ遊びであります。賭けるということ、それは、労働を、忍耐を、倹約を放棄することで、もし運ということがなければ、また部分的にはまさに運の管轄である投機に走らなければ、労働と窮乏とのくたびれ果てた生活では決して得られないだけのものを、幸運は瞬く間に与えてくれます。
国営の富くじ、カジノ、競馬、そしてあらゆる種類に私設賭博は、純粋アレアの限度内にとどまっており、厳密な公正の規則を厳しく守っている一方、現代社会での目覚ましい変化として筆者があえて「形を変えた富くじ」ところの、諸々のコンテスト・コンクールが存在します。才能、無償の学問、発明、あるいはその性質上客観的評価や法的賞罰とは一見無縁のさまざまな功績に受賞するかのように見せかけている財産や栄光をもたらしてくれる機会です。そこからチャンピオンやスターが出現し、人々の中に多くのファンが生まれます。
コンテスト・コンクールで突然転り込む、しかし能力のおかげと見えるがゆえに清浄な財産は、同じ階層、同じ生活程度や教育水準の人びとにしか限ってしか行われない社旗的競争の幅の狭さに対する補償なのです。一方では、日々の競合は激烈で仮借ないものだが、他方ではそれは単調で退屈なもので、面白くないばかりでなく、怨恨を募らせるものです。それは人を消耗させ、気落ちさせます。実際のところ、就業によって得られるわずかな給料では、現在の生活条件から抜け出しうる希望はほとんどないからです。そこで誰しもが現状を創り出している社会体制に復讐を熱望するようになります。その怨恨の気持ちを晴らしてくれ、熱狂と同時に一挙に真の昇進のチャンスを与えてくれるような、反対の権能を併せ持つ活動〔形態〕はないものかと夢見た結果として、コンテスト・コンクールに惹かれるし、自身が参加出来なくても、その競技者に多少とも同一視することで、このような「代理」行動を通じて人びとは優勝者や勝者の成功を共有することができます。
能力と運との組み合わせた原理が支配する世界にあっては、大部分の人は競争に敗れ、あるいは競技場裡に現れる力もない。彼らは競争にアクセスできないか、勝利できないかのどちらかである。誰しもが自分が第一人者になりたいと思うが、能力も運もごく稀な選ばれた人にしか微笑みかけないため、大多数の人が失意のままに留まことになります。だが、第一人者は一人しかいないという単純な理由によって、自分は第一人者にはなれまいと、誰もが知り、誰もが秘かに思っています。だからこそ、仲介人によりすなわち代理によって勝者となる道が選ばれ、これは万人が同時に勝利することができます。しかも大した努力も失敗の危険もなしに勝利する社会的敗者の唯一の道なのです。
スポーツや映画が大きな位置を占める現代社会では、スター信仰、チャンピオン信仰は際立った特徴であり、スターやチャンピオンと彼らを礼賛する群衆との間には絶えざる滲透現象が見られます。スターやチャンピオンの趣味、癖、ジンクス、つまらない生活の細部に至るまで通じているだけにとどまらず同じ髪型にし、そのファッション、化粧法や食事療法まで一緒にしてて、何から何まで彼らを真似ます。こうした熱狂を解釈する鍵となるのは、もちろん競技者や演技者の素晴らしいプレイではなく、むしろ、チャンピオンやスターとの同一化を求めるいわば一般的欲求なのであります。スターは成功の化身であり、勝利の表徴であります。日々の生活の汚れた圧倒的な無力感に対する復讐、卓越を拒もうとする社会的障碍に対する復讐の表徴であります。
万人が最高位につきえないことは明白で、そこで生まれたのが代理という逃げの手であります。幻惑的な豪奢と栄光の世界に入ろうという望みも固い決意も持たぬ諦めた多数者に対して、潜在性の軽微な擬態が、無害な埋め合わせとなります。ここで、『競争』と『偶然』の社会において、ミミクリは薄められ退化しているが、まだ残されております。ミミクリはもはや、憑依や催眠に到らず、世にも空しい夢想にとどまり、魅惑の暗い映画館か陽光を浴びる競技場かにおいてすべての眼差しが一人の輝くヒーローの動作に注がれる時に生まれます。