遊びにおける『競争』と『運』に関して、(1)
こんにちは。今日も素敵な一日になりますことを願っております。
以前の記事”遊びにおける『模擬』と『眩暈』に関して、”で原始的と呼ばれる社会においては、『模擬』と『眩暈』が社会制度に大きく係わっており、魔力などによる幻想や憑依などの恍惚状態をもたらす魔術師やシャーマン・巫女による伝説・神話や民間伝承が社会の根幹をなしていた旨を述べさせていただきました。
文明社会への移行に伴って、その権威を認められ崇められてきた、支配的文化風潮であったミミクリ(模擬)とイリンクス(眩暈)は力を失い、奇蹟も変身もない整序され安定した世界を知覚するに至ると、代わって規律性、必然性、計量性の数の領域で表される世界へと変遷していきます。
文明社会の行政制度や法治社会の発達はアゴン(競争)とアレア(偶然)の原理と深く関係し万人が平等という民主主義社会の問題において、この二つの原理が正反対でありながら、相補的な解決をもたらしております。
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (167-215頁)によれば、
ミミクリとイリンクスとが駆逐されて後は、制度的側面だけではなく集団生活の総体が、アゴンとアレアとのすなわち才能と運とのバランス、不安定でしかも無限に多様なバランスに依存するようになります。
社会の発展とともに最有能、最適格の者が社会の重要なポストに登用されることが求められます。競争や試験によって選抜され、登用された官僚などが行政を担い、社会を運営します。民主主義の進歩とはまさに、公正な競争、権利の平等、法的平等を含む諸条件の相対的平等化の進歩の事であります。
しかし、実際は、程度の差こそあれ、発達を遂げ大きくなったすべての社会において、富裕と貧困、無名と栄光、権力と隷属との拮抗が存在しています。市民の平等が揚言されてはいるものの、意味を持つのは法的平等だけである。家柄は相変わらず万人の上に、排除できない障碍として重くのしかかっており、それは自然との連続性、社会的無力性を反映する偶然の法則なのである。そこで、立法がその効果を相殺しようとすることになる。法律や憲法は、さまざまな才能や資格の間に公正な競合を成立させようとするものであります。この競合により階級特権をチェックすることが可能になります。
だが、この場合も明らかに競合者たちは平等のスタートを切る位置には置かれていません。
財産、しつけ、教育、家庭環境などという、外的だがしばしば決定的な力をもつ全状況は、法に書かれている平等を現実には無効なものにする。特権に恵まれない人々が遅れを取り戻すには、時には数世代を必要とする。フェアなアゴンのために取り決められた規則は、公然と嘲弄されています。試験、コンクール、給費といった能力や資質に対するさまざまな贈り物はたしかに存在する。だが、その贈り物を受け取るにも費用が掛かる上、教育などの機会に恵まれなければただの絵に描いた餅にすぎません。極言すればあたかも平等社会を印象づける一時的な姑息な手段であって、しかも大抵は雀の涙ほどのものであります。普遍的な規範や規則というよりも、救済や、正義の見本を装ったアリバイ工作です。現実を直視すれば、全体として同じ水準、同程度の家柄、同程度の環境の人びとの間にしか実質的な競合は有り得ないという事がわかります。
「親ガチャ」という言葉がはやりましたが、運はまず、遺伝というアレアそのものにつきまとっています。遺伝は、才能と欠点を不平等に分配するからです。生まれてくる子どもは、親や家族、家庭環境を選べませんので、生まれ落ちた家庭によっては、子どもの将来の選択肢が狭くなってしまいます。
次に、運が必ず介入するのは、試験や試合においてであります。それは最優秀者を勝利させるように仕組まれてはいますが、ヤマが当たった志願者や神風が吹いた競技者に運命が微笑えむこともありますし、他方、勉強を怠った正にその個所を不運にも衝かれ合格が危うくなることや、コンディションが悪くて思うように身体が動かず勝敗を危うくなることも、実際ありえぬことではありません。運や機会に乗ずる資質とかは、現実社会において一定の重要な役割を担っています。社会的、肉体的な出生のもたらす利点(それはおそらく、あるいは名誉や財産であったり、あるいは美や健康や稀有の素質である)と、意志、忍耐、適性、努力(これらは能力の属性)による成果と、この両者の相互干渉は現実社会では複雑であり、また無数に存在します。
近代社会は、その原理にもとづき、またしだいにその制度によっても、出生や遺伝の領域、すなわち偶然の領域を狭め、規則のある競争の領域、すなわち能力の領域を広げる傾向を持っています。こうした進化は人材を十分に活用するという公正を、合理性を、必要性を共に満足させます。しかしながら、これらの政策はほとんどが杜撰な非現実的なものであるため、多くの者が思慮分別のできる年齢になると、自分の才能さえ大して当てにならぬと承知し、才能豊かな他者と比べて自分の劣性を意識しているために、他社との公平な、計量化された比較にも希望がつなげず、より短絡的な成功の近道を求める気持ちが出てきて、富くじや賭け事の運の方に顔を向けるようになるのです。
アゴン(競争)の試合に勝てないことに絶望した者が、アレア(偶然)の全く新しい種類の公正という素晴らしい盲目的無差別の前に立てば、他者と同等な人間でいることを知ることができます。こうした状況においてはアレアはアゴンにとって必要な償い、ごく自然な補足物にのように思われます。