遊びにおける『模擬』と『眩暈』に関して、
おはようございます。今日も素敵な一日になりますことを願っております。
遊びの原動力として、競争の愛好、運の追及、遊戯の喜び、眩暈の魅力が挙げられ、これらは前社会生活に浸透し普遍的であります。しかしそれぞれの地域や国民性などで遊びの諸原理(アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクス)は、各社会に不均衡に分布していると考えられます。
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (138-166頁)によれば、
原始的と呼ばれる社会においては、『模擬』と『眩暈』が大きく社会制度に係わっているが、発展した複雑な国家においては、『競争』と『偶然』が社会要素として大きなウエイトを占めています。
原始的社会では宗教的儀式が重要性を持っており、神々や、精霊、祖霊=動物などのありとあらゆる恐るべき、だが稔り豊かな超自然なものが憑依したり、それらの化身に変身したりするシャーマンや巫女などの存在が集団社会の中で崇め立てられ、敬われます。儀礼や祭りの中で失神や熱狂がが伝播し、自ら怯えあるいは人を怯えさせる陶酔境のようなトランス状態の中クライマックスを迎えます。つまり、原始的社会では政治的・宗教的諸制度が人を動顛させる幻影を生み出す威信の上に築かれ、例えば成人儀礼に臨む者が、白昼夢、幻惑、痙攣によって彼らの守護神の啓示を受けるべく、厳しい禁欲、痛みなどの試練に耐えて不滅の宗教的熱情を身に着け、神のご加護を期待します。原始的社会は超自然的存在を信仰することが社会の根幹であり、神話と儀式、伝説と礼拝といった種々雑多な相の下で、模擬と眩暈の共謀性が原動力として働いています。
一方、文明が発達し文化的活動が盛んになってくると、高度な秩序を持つ社会へ移行されていく中、ミミクリとイリンクスの組み合わせの優位は徐々に除去され、アゴン(競争)=アレア(運)の対が上位に置かれるようになります。模擬と眩暈は昔の優勢を失い、公共生活の周辺へ押しやられ、不法で犯罪的とまで言わずとも徐々に途絶えがちな貧しい役割に貶められ、あるいは遊戯と虚構との限定されたルールのある領域に押し込められます。この遊戯と虚構の領域において、眩暈と模擬とは人々に何時に変わらぬ永遠の満足をもたらしてはいるものの、その動きは拘束されており、人々の退屈覚まし、あるいは労働の憩いの役目しか果たしていない。こうなると、錯乱もなく妄想もないのです。