『稲盛和夫一日一言』 3月10日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 3月10日(日)は、「大善は非情に似たり ②」です。
ポイント:「大善は非情に似たり」 真の愛情とは、どうあることが相手にとってほんとうによいのかを厳しく見極めること。
1996年発刊の『成功への情熱 ーPASSIONー 』(稲盛和夫著 PHP研究所)「大善をもって導く」の項で、リーダーが大きな愛をもって導くことの大切さについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
リーダーは、愛情をもって部下に接していかなければなりません。これは、決して溺愛するという意味ではありません。
「小さな愛(小善)」ではなく、「大きな愛(大善)」により部下を教育していかなくてはならないのです。
例えば、親が子どもを甘やかすあまり、子どもは自分では何もできないようになってしまい、成長するに及んで人生を誤ってしまうということがあります。
それとは逆に、厳しい親に育てられた子どもは、自らを鍛錬することを学び、人生における成功者になるということがあります。前者を「小善」、後者を「大善」といいます。
職場においても、さまざまな上司がいます。その中には、優しくて、部下の意見をよく聞き、自由に仕事ができるようにしてあげる上司もいますし、また、非常に厳しい上司もいます。
もし、信念もなく、ただ部下に迎合している上司ならば、長い目で見て決して組織のためにはなりません。部下に甘い上司というのは、人気はあるかもしれませんが、その気楽さは部下をだめにしていくはずです。
長い目で見れば、目標を課し、規律をもって鍛える厳しい上司によって、部下ははるかに伸びていくのです。
「大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり」という言葉があります。小善をもって部下を導いていくリーダーは、つかの間の名声や成功しか手にすることはできないのです。(要約)
今日の一言には、「信念を持って厳しく指導する上司は、けむたいかもしれませんが、長い目で見れば、部下を大きく成長させることになります。
周りから見れば厳しすぎると思える行為も、それはその人を大きく育てるために必要な愛のムチであり、まさに非情と思えるその行為こそが大善なのです」とあります。
2001年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅠ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究課編/非売品)では、大善と小善について、あるODAの広告を例に、名誉会長は次のように解説されています。
ある発展途上国を支援するODAの広告に、次のような表現が載っていました。「私たちは貧しい国の人たちに、ただ魚を与えるということはしません。ただし、魚を捕まえる方法を教えます」
ただ魚を恵むだけでは、食べてしまえば何も残らない。相手にもらい癖をつけてしまうだけです。今食べるものを与えるというのではなく、どうすれば食べていけるのか、その方法を教える。
お腹が空いて困ることがあっても、川に入り、海に入り、教わったやり方で魚を捕まえればいい。方法さえ身につければ、後は自分たちで生きていけるはずだという考え方です。これも「大善」です。
魚を恵む、お金を恵むというのは小善でしかなく、結局は自活できない人たちを育てることになります。そのような意味で、最近では慈善事業も、本当に相手を助けるということはどういうことなのかを考えるようになっています。
「利他」を考える場合においても、この「大善と小善」ということの意味するところを、十分に理解していただきたいと思います。(要約)
自分にとって都合がいいことなのか悪いことなのか、得なのか損なのかといった基準で判断していては、とても「相手によって、どうあることが本当によいことなのか」などと考える余地は生まれてこないでしょう。
いろいろと迷うことはあっても、最後は自分の良心に従って判断し行動する。真っ当な信念を持つ、良識ある人間でありたいものです。