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『稲盛和夫一日一言』11/3(木)
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 11/3(木)は、「苦労の代償」です。
ポイント:経営者は厳しい生き様を求められる割の合わない仕事かもしれないが、そうした苦労の代償として、金銭には代えがたい人からの喜びや感謝、信頼と尊敬を受けることができる。
2019年発刊の『機関誌「盛和塾」特別版「体系的に学ぶ稲盛哲学』(盛和塾事務局編/非売品)の「経営者は何のために働くか」という項で、稲盛塾長は経営者が働く目的について次のように語られています。
私自身、まだ青年経営者であったころには、「誰にも負けない努力」で働きながらも、自分自身で、何か損な役回りをしているように感じたこともありました。全力で経営に打ち込めば打ち込むほど、また公明正大な経営に努めれば努めるほど、こんなに割に合わない仕事はないとさえ思ったほどです。
特に中小企業の場合、一つ間違うと会社がつぶれるだけでなく、自分が担保に入れた家屋敷まで金融機関に取られてしまうということにもなりかねません。責任は山ほど重いのに、従業員からは「社長は自分たちの知らないところでいい思いをしているのではないか」と勘ぐられながら、日々の仕事を行っているわけです。そう考えると、経営者がいちばんつらい思いをしているのではないかと思ったことがあります。
私は、経営者としての果てしない努力の必要性について、京セラ創業二十周年記念式典で次のように表現しました。「企業を経営しますのは、ちょうど登山家が山に登るような感じだろうと思っています。(中略)
今日まで創業以来二十年間、一つの山を登れば次の山が見え、次の山を登ればまた次の山が見え、それの連続でした。まだまだ私どもが望んでおります頂は、はるかかなたにあると思います」
私がなぜそのような再現のない努力を続けることができるのか。それは、私が働く目的が、京セラの経営理念にあるように、「全従業員の物心両面の幸福を追求すること」にあるからに他なりません。(要約)
経営者とは、責任が重く、一瞬の気の休まりもなく、気の遠くなるような努力を継続してはじめて当たり前、と評価されるような割の合わない仕事かもしれませんが、そのような厳しい生き様に値する代償は得られるものなのでしょうか。
今日の一言では、「(企業を存続させていくことで)多くの社員が希望を持って生活できる。それによって経営者を信頼し尊敬までしてくれる。それは経営者の苦労に匹敵するだけの、金銭には代えがたい代償ではないか」と述べられています。
物事がうまくいきはじめたとき、「今までの苦労がようやく報われた」などと言ったりしますが、この「報われる」には、努力や苦労したことに対して、相応の結果や成果を得ること、という意味があります。つまり、そこには苦労や努力を重ねてきた過程があることが前提となっています。
報われる頻度がそう多くはないとしても、経営者は際限なく自身のエネルギーを会社に注入し続けなければなりません。そして、その代償として金銭的な報酬からは得られない社員やその家族、さらに地域からの感謝や喜び、称賛を受けることができるようになる。
そうした感覚を持てるのは、真の経営者といわれるようなごく一部の人ないものなのかもしれませんが、個人事業主である私も、経営に携わる者の一人として、「自分は今何のために誰のために仕事をしているのか」と自身に問い続けながら生きていきたいと思っています。