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『稲盛和夫一日一言』 7月15日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 7月15日(月)は、「思いやりの心」です。

ポイント:人類は、備えるべき思想の軸となる「思いやりの心」を見失いつつある。何としても、もう一度そのような「思いやりの心」を蘇(よみがえ)らせる必要がある。

 2001年発刊の『稲盛和夫の哲学 人は何のために生きるのか』(稲盛和夫著 PHP研究所)「共生と競争について」の章の中で、共生の考え方について、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 まだ文明を築き上げる前、人類は共生の思想というものを強く持っていました。私なりに考えると、そのキーワードは「愛」です。 

 「愛」には二つの側面があります。一つは他のすべてのものを包み込む普遍的な愛で、もう一つは自己愛です。
 原始的な人類社会に普遍的な愛に基づく共生の思想が生まれたのは、それを自然界に教えてもらったからです。つまり、自分を大事にしようとする自己愛が肥大化すると他者に害を与える。そうすると、結局自己も滅びる、ということを自然から学んでいったのです。

 例えば、焼畑農業などで、目先の収穫にとらわれ、自然界の再生能力を超えて森を焼き払えば、やがて土地は地力を失い、収穫量は激減します。自己愛を優先した報いはそうした形で自分たちにはね返ってくる。
 人類は、自然界で生きていく中でそうしたことを学び、「共生」という生き方を自然と実践するようになっていったわけです。

 自然界全体を見ると、普遍的な愛による共生というものが広く存在しているのですが、中には自己愛が強く現れる場合もあります。
 例えば、環境の変化によって、バッタが異常繁殖することがあります。バッタは周囲の草木をすべて食いつぶして丸裸にしつつ、何十キロ、何百キロと移動して、すべてを食い尽くしてしまうものですから、結局は食べるものがなくなってすべて死んでしまう。
 このように、自己愛が過大になったとき、その種は死に絶えてしまう。つまり、過剰な自己愛は、自らの破滅を招くわけです。

 では、競争というものはどうして起こるのでしょうか。
 もともと自然界は普遍的な愛に包まれていて、その基本には共生の思想が流れています。その枠組みのなかで、それぞれの生き物は厳しい自然環境に耐え、生存し続けようと、各々の自己愛に基づいて必死に生きています。
 実は、その必死に生きるということが、結果として側にいる生き物との競争状態を生み出しているのです。

 一生懸命に生きようとすればするほど、結果として隣で生存し続けようとしている生き物との間に競争が生まれる。そして、その競争から脱落すれば、滅亡するものも出てくるわけです。

 それは、一方が他方を滅亡させようとしたのではありません。一方が生存をかけて必死に生きたために、その余波を受けてもう一方が脱落をしていく。つまり、「適者生存」なのです。
 自然界の過酷さを表すのに、よく「弱肉強食」という言葉が使われますが、私はどちらかといえば、「適者生存」のほうが自然界の掟であると思っています。それは、誰かが意図的に仕掛けたものではなく、環境に適合できなかったがために自らが脱落をしていく。それが真実の姿ではないでしょうか。

 生きていくために必要な自己愛はあって然るべきなのですが、それはあくまでも「共生」という枠組みの範囲内に留めるべきものです。

 人類は自由を手にしましたが、その自由は一方から見ると素晴らしいものですが、他方から見ると悪をなすこともあります。
 もともと善と悪があるわけではありません。根は同じところ、「愛」から始まっているのですが、その愛の使い方によって、善にもなり悪にもなる。
 つまり、自己愛に終始した場合には悪をなし、「他者を思う」という愛に目覚めたときには善となる。善悪の分かれ目とは、自己を愛する「愛」と、他を愛する「愛」の間にあるのです。

 「共生」を実践するためのキーワードは、「他を愛する愛」であり、仏教にある「足るを知る」という考え方ではないでしょうか。(要約)

 今日の一言には、「思いやりの心を蘇らせることができれば、人類が抱えている問題の多くは、おのずと解決へと向かうはずだ」とあります。

 前トランプ政権の際に強まったアメリカにおける自国第一主義の主張や、徐々に強まるヨーロッパおける右傾化、さらには格差社会の拡大などといった社会課題は、自国、個人の利益を優先しようする心の動きに基づいた流れであるように見えます。

 世界のあちこちで身勝手な暴走が頻発し始める前に、「思いやり」「慈悲」「愛」といった人間が大切にすべき心の動きへの関心が高まっていくことを願いたいと思います。


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