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『稲盛和夫一日一言』 10月30日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 10月30日(月)は、「第二の人格」です。
ポイント:素晴らしい哲学は、理性で理解するだけでなく、繰り返し学び、自らの血肉としていこうと努めなければ意味がない。そうすることによって、自分がもともと持っていた性格の歪みや欠点を修正できれば、新たに「第二の人格」をつくり上げることもできるはず。
2016年発刊の『稲盛和夫経営講演選集 第5巻 リーダーのあるべき姿』(稲盛和夫著 ダイヤモンド社)の中で、「人格は後天的に磨かれる」として、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
日本には、「才子、才に倒れる」という格言があります。「才覚」に恵まれた人は、その並外れた才能をもって、大きな成功を収めるけれども、その「才覚」を過信し、あるいはその使い方を誤り、やがて破綻に至るということを戒めた言葉です。
人並みはずれた「才覚」の持ち主であればあるほど、それらの力をコントロールするものが必要となります。私はそれが「人格」であり、その「人格」を高めるために、哲学や宗教などを通じて「人間として正しい生き方」を繰り返し学ばなければならないと考えています。
「人格」とは、人間が生まれながらに持っている先天的な「性格」が、その後人生を歩む過程で、後天的に磨かれ、でき上がるものだと私は考えています。
先天的な「性格」はまさに千差万別です。もし人生の途上で何も学ばず、新たな要素を何も身につけられないとすれば、持って生まれた「性格」が、そのままその人の「人格」となります。そして、その「人格」が、その人の持つ「才覚」の進む方向を決めてしまうことになります。
例えば、生まれながらの「性格」がエゴイスティックなリーダーが、素晴らしい「才覚」を発揮したなら、いったんは成功できるでしょう。しかし、「人格」に問題があるため、いつしか私利私欲のために、不正を働くことになるかもしれません。
逆に、生まれつきの「性格」が至らないものであったとしても、その後の人生で素晴らしい聖賢の教えに触れ、「人間として正しい生き方」を学んでいくならば、後天的に素晴らしい「人格者」になることができるはずです。
誰しも持って生まれた「性格」が完全なわけではありません。だからこそ、素晴らしい哲学や宗教を繰り返し学ぶなどさまざまな取り組みをし、その教えを自らの血肉とすることを通じて、「人格」を高めようと努力する必要があるのです。
絶え間なく努力を重ねていくことで初めて、自分がもともと持っている「性格」のゆがみや欠点を修正し、新しい「人格」、言うならば「第二の人格」をつくり上げることができるのです。(要約)
「人間として正しい生き方」とは、私たちが小さいころから教わってきた「うそをついてはいけません」「正直が一番!」「自分だけ欲張っちゃダメ、他の人にも分けてあげなさい」「人をだますのは良くないことだよ」といった人間として最も基本的な規範を守って生きていくことです。
京セラフィロソフィに「人格を高めようとする努力の繰り返しこそ尊い」という項目があります。
私たちは常に人格を高め、維持する努力をしなければなりません。しかし、よほどの修行をしても、悟ったり、完璧な人格者になれるものではありません。人格や心を高めていくためには、際限のない努力の繰り返しが必要なのです。
きれいな心を持とうとしていても、悪い心が何度となく出てきて、強欲になったり、腹が立ったりします。そのたびに、「それではいけない」と自分に言い聞かせて悪い心を抑え、きれいな心を持つように、努力し続けることが大切なのです。
たとえ悟り切った完璧な人格者にはなれなくても、常にそうありたいと自らを反省しながら、繰り返し繰り返し努力している人こそ、立派な人格者といえるのです。(要約)
毎日のように私欲が出てしまい、「人格者」と言われるには程遠いレベルではありますが、日々反省を繰り返すことで、少しでも己の人格を高めながら人生を全うできればと思っています。