『稲盛和夫一日一言』 12月30日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 12月30日(土)は、「挫折が実になる」です。
ポイント:若いときに苦難に出遭っても、挫折を経験しても、絶対にへこたれてはならない。それは神様が与えてくれた「生長の糧」。
2002年発刊の『ガキの自叙伝』(稲盛和夫著 日本経済新聞社)「挫折越え夢を追う」の項で、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
九州の南端、鹿児島の田舎者が京の都に上がって四十六年。郷里を後にしたのが二十三歳、京都暮らしは倍の年数を数えるまでになった。それでいて、物言い、物腰、雅とまいらず、粗野な薩摩っぽの地は今も変わらない。
縁もゆかりもない京都だったが、建都千二百余年の古都はふところ深く受け入れてくれた。ついでに社名まで京の字をいただき、その恩恵測り知れないものがある。
二十代で七人の同志と血判して創業した京都セラミツク、現在の京セラは今、一万四千人、グループで四万人を擁するまでになった。そこに至るまでの道のり、もとより平坦ではなかった。それにも増して私の歩みは曲折多く、青春の蹉跌そのものであった。
父母ともに小学校卒という貧乏人の子だくさんの家庭のこと、勉強に励む雰囲気ではなかった。教育環境のせいにするつもりはないが、まず中学受験に失敗した。翌年、再挑戦するもまた敗退。高校は学制改革で無試験で進学したものの、大学入試では志望校にはねられた。就職になると、受けても受けてもかすりもせずの全滅、担当教授の紹介でもぐり込んだ会社は倒産寸前というおまけ付きだ。
すんなり入ったのは唯一、家の近くの公立小学校のみである。加えて、尋常高等小学校のころ結核にかかった。叔父さんが結核で亡くなったのを近くで見ている。後年、精神の領域に深い関心を抱いて得度したのも、早くに死を意識したことがずっと底流にあったからかもしれない。
挫折続きのままならない人生。それでもひがまず、ひねくれずにきたのは、その都度、どこからか「神の手」が現れ、私を支えてくれたからだ。そうとしか思えないような人との出会いがあり、親子でも及ばぬような温情にあずかった。
結核で寝たり起きたりの私に代わって願書を届け、入試に付き添ってくれた小学校の先生。「いいかげんに働け」という親を説得し、一時は断念した大学への夢を実現させてくれた高校の先生。私の技術を世に問う会社をつくってやろうと、自分の家屋敷を抵当に入れて資金を工面してくれた京都の会社役員。節々で大恩のある方はまだまだいる。その中のただ一人でも欠けたら今日の私はなく、京セラも第二電電(現KDDI)もなかっただろう。
期待にこたえるには会社を立派にするしかない。それも世のため人のためになる会社を目指そうと、自らを狂の世界に追い込むまで研究に没頭した。才能に乏しくても熱意があれば人に伍していけるはずだ。
しかし、それ以上に大切なものがある。心の様相だ。心が呼ばないものが自分に近づいてくることはない。人生は心に描いた通りになる。ひたすらそう考えてきた。
高校時代、国語の先生が発したメッセージに勇気をかきたてられ、古希を迎えようとなお、私は夢を見続けている。
桜島ならぬ比叡山を望む私の部屋には、西郷隆盛の『敬天愛人』の額が掛かっている。「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす」。道というのは、この天地のおのずからなるものである。
この南洲翁の遺訓を社是とし、心を高める経営、私心なき経営を実践してきたつもりだ。(要約)
今日の一言には、「神様は苦難を与え、それを糧にして『今からの人生を素晴らしく生きなさい』と励ましておられるのです」と書かれています。
2007年発刊の『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫著 日経BP社)第二章の冒頭、名誉会長は次のように述べられています。
人生は波瀾万丈です。人間は、幾多の試練に直面します。ときに壮絶なまでの辛苦をどう受け止めるかによって、その先の人生が変わってきます。
災難に遭って、打ちひしがれるままに諦めてしまえば、せっかく与えられた人生をただ暗く歩むことになります。逆に、艱難辛苦(かんなんしんく)に前向きに立ち向かい、災難を克服することができれば、人間的に高まり、人生も大きく開かれていきます。
「幾歴辛酸志始堅 (幾たびか辛酸を歴(へ)て志始めて堅し)」
人の志というものは、幾度も幾度も辛いことや苦しい目に遭って後、初めて固く定まるものである。(南洲翁遺訓五条より)
生きているかぎり、すべての苦難や挫折をかわしつづけることはできないでしょう。「やっかいもの」として避けようとするのか、「これも生長の糧だ」と考えて受け止めようとするのか。どちらを選択するかでこれから先の人生が変わっていくとすれば、どんと真正面から受け止めて生きていこうではありませんか!
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