『稲盛和夫一日一言』3/10(金)
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 3/10(金)は、「大善は非情に似たり ②」です。
ポイント:「大善は非情に似たり」
信念を持って厳しく指導することは一見非情とも思える行為だが、それこそが大善であり、長い目でみれば相手を大きく成長させることにつながっていく。真の愛情とは、どうあることが相手にとって本当によいことのかを厳しく見極めること。
2001年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅠ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究課編/非売品)の中で、「大善は非情に似たり」について「小善は大悪に似たり」と対比しながら、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
「大善は非情に似たり」、これは、大善を行うことは、一見薄情な行為に映るということを言っています。
「人間、若いときの苦労は買ってでもせよ」と言ったり、「獅子は我が児を千尋(せんじん)の谷に突き落とし、そこから這いあがってきたものしか育てない」というたとえもあるように、周りから見れば酷(むご)いと思える行為も、それは人を大きく育てるために必要な愛のムチであり、まさに非情と思えるその行為こそが、大善なのです。
ここで大切なのは、相手にとって何が本当によいことなのかを考える必要がある、ということです。
目先のことしか考えずに相手に施そうとする善行を「小善」と言いますが、そのときはいいように見えても、後々悪い結果を招くことになる。つまり、つまらない善をなすことはかえって悪をなすことになるのです。
一方、なぜそのような冷たい仕打ちをするのか、血も涙もないと思える行為のなかに、相手を素晴らしい人間に育てていくという善行がある。まさに、非情とも思えるその行為こそが「大善」なのです。(要約)
人間は、とかく自分にとって都合がいいことなのか悪いことなのか、自分にとって得なのか損なのか、それで儲かるのか儲からないのか、というふうに、自分を中心に据えて物事を判断しがちです。
京セラフィロソフィでは、「自分自身を犠牲にしてでも、相手のためになることをしようとする心、それが利他の心であって、そうした利他の心をあらゆる局面で大切な判断基準としていこう」と言われています。
この判断をしたときに、自身にとっては都合がよくても、周囲の人には迷惑なことかもしれないと考えてみる。
身近な例では、右折レーンのない交差点で右折しようとして後ろに大渋滞を引き起こしている人、混雑する電車の中で子どもがシートに寝そべっていても注意をしようともしない親、国会議員でありながら一度も登院しようとしない新人議員、等々。ちょっと考えただけでも私たちの周囲には我慢の限界を超えそうな行為があふれています。
過剰に遠慮する必要はないのかもしれませんが、少なくとも自分の行為が、周囲の人たちにとって迷惑にならないように心がけることは必要ではないでしょうか。一歩踏み込んで、相手や周囲に対して「真の愛情」を持つということはどういうことなのかまで考えてみる。
「小善」なのか「大善」なのか・・・それが悩ましい判断であることだけは間違いなさそうです。