『稲盛和夫一日一言』 7月4日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 7月4日(木)は、「労働の価値と意味」です。
ポイント:働くという行為は、人間にとってもっとも深遠かつ崇高で、大きな価値と意味を持っている。
2004年発刊の『生き方』(稲盛和夫著 サンマーク出版)の中で、「働く喜びは、この世に生きる最上の喜び」として、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
物事を成就させ、人生を充実させていくために必要不可欠なことは、「勤勉」であることです。すなわち、懸命に働くこと。まじめに一生懸命仕事に打ち込むこと。そのような勤勉を通じて、人間は精神的な豊かさや人格的な深みをも獲得できるのです。
私は、人間がほんとうに心の底から喜びを得られる対象というものは、仕事の中にこそあると思っています。そういうと、仕事一筋では味気ない、人生には趣味や娯楽も必要だという反論が返ってくるでしょう。
しかし、趣味や遊びの楽しさとは、仕事の充実があってこそ味わえるもので、仕事をおろそかにして趣味や遊びの世界に喜びを見い出したとしても、一時的には楽しいかもしれませんが、決して心から湧き上がるような喜びを味わうことはできないはずです。
もちろん、仕事における喜びというのは、飴玉のように口に入れたらすぐ甘いといった単純なものではありません。「労働は苦い根と甘い果実を持っている」という格言のとおり、それはつらさや苦しさの中からにじみ出してくるものです。仕事の楽しさとは、そうしたところを超えた先に潜んでいるのです。
だからこそ、働くことで得られる喜びは格別であり、遊びや趣味では決して代替できません。まじめに一生懸命仕事に打ち込み、つらさや苦しさを超えて何かを成し遂げたときの達成感。それに代わる喜びはこの世には存在しないでしょう。
人の営みのなかで最上の喜びを与えてくれる労働において、あるいは人生の中でもっとも大きなウエイトを占める仕事において充実感が得られない限り、他の何かで喜びを得たとしても、結局物足りなさしか残らないはずです。
また、仕事に懸命に打ち込むことがもたらす果実は、達成感ばかりではありません。それは、人間としての基礎をつくり、人格を磨いていく修行の役目も果たすのです。
禅宗ではお寺の雲水(うんすい)は食事の用意から庭掃除まで、日常のあらゆる作業を行いますが、それは座禅を組むことと同様のレベルに位置づけられています。つまり、日常生活の労働に懸命に取り組むことと、座禅を組んで精神統一を図ることの間に、本質的な差はないと考えられているのです。
日常の労働がすなわち修行であり、一生懸命仕事に取り組むことが、そのまま悟りにつながる道だと教えているわけです。
悟りとは心を高めること。心が磨かれていく、その最終、最高のレベルが悟りの境地です。その悟りを開く方法として、お釈迦様が説かれているのが「六波羅蜜(ろくはらみつ)」です。
「六波羅蜜」とは、仏の道において、少しでも悟りの境地に近づくために行わなくてはならない菩薩道(ぼさつどう)を記したもので、いわば、心を磨き、魂を高めるために不可欠な修行のことです。
「布施(ふせ)」 世のため人のために尽くす利他の心を持つこと
「持戒(じかい)」 戒律を守り、煩悩、欲望を抑制すること
「精進(しょうじん)」 何事にも一生懸命に取り組み、努力すること
「忍辱(にんにく)」 苦難に負けず、耐え忍ぶこと
「禅定(ぜんじょう)」 多忙な中にあっても、心を鎮めること
「智慧(ちえ)」 宇宙をつかさどる真理、悟りの境地に達すること
自分たちが自分の人間性を向上させたいと思ったときは、ふだんの暮らしの中で自分に与えられた役割、あるいは自分が行うべき営為、それが会社の業務であろうと、家事であろうと、勉学であろうと、それを粛々と倦まず弛まず継続していくことです。それが、そのまま人格錬磨のための修行となります。
日々の労働の中にこそ、心を磨き、高め、少しでも悟りに近づく道が存在しているのです。(要約)
今日の一言には、「労働には、単に生きる糧を得るという目的だけではなく、欲望に打ち勝ち、心を磨き、人間性をつくっていくという副次的な機能がある」とあります。
「労働」には、「からだを使って働くこと。特に、収入を得る目的で、からだや知能を使って働くこと」といった一般的な意味の他に、「生産に向けられる人間の努力ないし活動。自然に働きかけてこれを変化させ、生産手段や生活手段をつくり出す人間の活動」といった意味もあります。
労働を、「自然に働きかけてこれを変化させ、付加価値をつくり出す活動」と認識し、ふだんの暮らしの中で自分に与えられている役割、自分がやるべきことを粛々と続けていく。
「日々精進あるのみ」