ヴェルディ:オペラ合唱曲集 2

00:00 La Forza del Destino Overture(歌劇 《運命の力》 序曲)
08:50 "La Traviata" Prelude to Act 1(歌劇 《椿姫》 第1幕前奏曲)
12:28 La Traviata "Libiamo"(歌劇《椿姫》より 「乾杯の歌」)
15:39 Va pensiero, sull'ali dorate (Chorus of the Hebrew Slaves) from Nabucco (歌劇『ナブッコ(Nabucco)』第3幕より「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」)
20:40 AIDA "Triumphant return march"(歌劇 《アイーダ》 ~凱旋行進曲)
22:28 Messa da Requiem "Dies Irae"(《レクイエム》 から “怒りの日”)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジュゼッペ・ヴェルディ
Giuseppe Verdi
Giuseppi Verdi by Ferdinand Mulnier c1870.jpg
1870年頃撮影
基本情報
出生名 ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ
Giuseppe Fortunino Francesco Verdi
別名 オペラ王
生誕 1813年10月10日
フランスの旗 フランス帝国、タロ地区(英語版)、レ・ロンコーレ村(英語版)
死没 1901年1月27日(87歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国、ミラノ
ジャンル ロマン派音楽
職業 作曲家
活動期間 1840年 - 1893年
公式サイト http://www.giuseppeverdi.it/

ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年10月10日 - 1901年1月27日)は、イタリアの作曲家。19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。「オペラ王」の異名を持つ。

代表作は『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』などがある。彼の作品は世界中のオペラハウスで演じられ、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いている。ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される。1962年から1981年まで、1000リレ(リラの複数形)イタリアの紙幣に肖像が採用されていた。

作品の変遷
ヴェルディの時代

ブッセートのヴェルディ公園 (Piazza G. Verdi) にある彼の像。
イタリア・オペラ史において、1842年の『ナブッコ』から1871年の『アイーダ』までの30年間は特に「ヴェルディの時代」と呼ばれ、歌手の技量に依存する度合いが高いベルカントが衰退してゆき、代わって劇を重視した作品構成が主流となった転換期に相当する。これはヴェルディとワーグナーが導入した手法によるが、イタリアの変革は前者による影響が圧倒的である[52]。

ヴェルディの生涯を通したオペラ作品は、3もしくは4区分で解釈されることが多い。『オベルト』から『スティッフェリーオ』までを第1期、『リゴレット』から『アイーダ』までを第2期、晩年の『オテロ』と『ファルスタッフ』を第3期と置く場合と、晩年は同じながら『マクベス』の存在を重視して『アッティラ』までを1期、『マクベス』から『椿姫』までを2期、『シチリアの晩鐘』から『アイーダ』までを3期、残りを4期とする考えもある。以下では4期区分を軸に解説する。

デビューから『アッティラ』まで
1期のヴェルディ作品には愛国精神を高揚させる題材が多く、『ナブッコ』で描いた権力者と虐げられた人民の対比を皮切りに、特にそれを意図した『十字軍のロンバルディア人』好評の主要因となった。当時はウィーン会議(1814-1815年)以降他国に支配された状況への不満が噴き出しリソルジメントが盛り上がりを見せていた。何度もの反乱の勃発と挫折を見てきたイタリア人たちは、1846年に即位したピウス9世が政治犯の特赦を行ったことで光明を見出していた。この時期のヴェルディ作品はそのような時流に乗り、エネルギッシュであり新しい時代の到来を感じさせ、聴衆の欲求を掻き立てた。それは聴衆を魅了することに敏感なヴェルディの感覚から導かれたとも言う。しかし、作品の完成度や登場人物の掘り下げ、劇の構成などには劣る部分も指摘される。

『マクベス』に始まる人間表現
2期の始まりとなる『マクベス』は、怪奇性が全体を占め、主人公のマクベス夫妻の欲望と悲劇が筋となる台本であった。ヴェルディはこの特異性を最大限に生かした細かな心理描写を重視し[、ベルカントを否定してレチタティーヴォを中心に据えるなど[13]合唱がこの雰囲気を壊さないことに心を砕いた。当時のオペラには演出家はおらず、ヴェルディは『マクベス』で150回を越えるリハーサルを行い、シェイクスピアを表現するという総合芸術を目指した。『群盗』は主役のジェニー・リンドを立てることに重点が置かれ、気が進まないまま制作した『海賊』は従来からの傾向が強かった。『レニャーノの戦い』は時局に追随する愛国路線の最後の作品として、それぞれ進歩性は鳴りを潜めた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物の心理を書き表す方向性が再び示され始めた作品で、最初は観客から理解を得られなかった。

しかし『リゴレット』では醜いせむし男を含む主要な4人物それぞれの特徴を四重唱で[対比させ、劇進行を創り上げた。この傾向は動的な『イル・トロヴァトーレ』主役の復讐に燃えるジプシー女、静的な『椿姫』主役の高級娼婦の悲哀と死を表現する劇作において、より顕著なものとなった。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』は単純な善悪の対立ではなく、複雑な人間性を音楽と融合させて描き出した中期の三大傑作となった。

多国籍オペラへ

『アイーダ』「凱旋行進曲」の旋律。
『シチリアの晩鐘』の出来はヴェルディに不満を残したが、フランス・オペラ座での仕事を通じ彼はグランド・オペラの手法を取り入れた。『シモン・ボッカネグラ』『仮面舞踏会』『運命の力』は改訂版を含め劇作性を高める方向を強め、『ドン・カルロ』は初演ではいま一つだったが、その改訂版および『アイーダ』ではイタリア流グランド・オペラの成熟を実現した。

特に『アイーダ』は多国籍の様式を混合させた。イタリア・オペラの華麗な旋律で満たしながら、声楽を重視する点は覆して管弦楽とのバランスを取らせ、以前から取り組んだドラマ重視のテーマと融合させることに成功した。舞台であるエジプトについて情報を仕入れたが、楽曲はエジプトの音楽ではなくヴェルディが独自に創造した異国的音楽であった。フランスのグランド・オペラも取り入れながら、その様式もそのままではなく工夫を凝らした4幕制を取るなど、独自の作風を実現した。

ヴェルディの大作は高い人気を誇り、それらを何度も繰り返して公演する方法が一般化し、例えばスカラ座はそれまで年3本程度のオペラを上演していたが、1848年以降は平均でほぼ年1本となった。これはレパートリー・システムと呼ばれた。作曲者は初演こそ慣例的に舞台を監督したが、このシステムが確立すると実際の監督は指揮者が担うことになり、オペラ専門の指揮者が現れだした。この代表がヴェルディの友で後に仲違いをしたアンジェロ・マリアーニである。レパートリー・システムはヴェルディの作品から始まったとも言えるが、指揮者の権限が強まると中には勝手に改作を施す者も現れ、ヴェルディは激怒したと伝わる。しかし、この流れは20世紀の演奏重視の傾向へ繋がってゆく。

晩年の傑作
16年の空白を経て発表された新作『オテロ』と最後の作『ファルスタッフ』は、それぞれに独特な作品となったが、いずれも才能豊かなアッリーゴ・ボーイトの手腕と、結果的に完成することはなかったが長年『リア王』を温めていたヴェルディのシェイクスピアに対する熱意が傑作の原動力となった。

イタリア統一運動への影響

パレルモのテアトロ・マッシモ(英語版)前に飾られたヴェルディの胸像。アントニオ・ウゴ作
音楽の歴史には、ある神話が永く存在した。それは『ナブッコ』第3幕のコーラス曲「行け、我が想いよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配力を及ぼしたイタリア国土に含まれていたミラノを歌ったものという話であり、観客は追放される奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられ、当時の政府から厳しく禁止されていたアンコールを求め、このような行動は非常に意味深いものだったという。「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われる。

しかし近年の研究はその立場を取っていない。アンコールは事実としても、これは「行け、我が想いよ」ではなく、ヘブライ人奴隷が同胞の救いを神に感謝し歌う「賛美歌 (Immenso Jehova)」 を求めたとしている。このような新しい観点が提示され、ヴェルディをイタリア統一運動の中で音楽を通して先導したという見方は強調されなくなった。

その一方で、リハーサルの時に劇場の労働者たちは「行け、我が想いよ」が流れるとその手を止めて、音楽が終わるとともに拍手喝采した。その頃は、ピウス9世が政治犯釈放の恩赦を下したことから、『エルナーニ』のコーラス部に登場する人物の名が「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更されたことに関連して、1846年夏に始まった「ヴェルディの音楽が、イタリアの国家主義的な政治活動と連動したと確認される事象」の拡大期にあった[61]。

後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される[9]。 また、サルデーニャ王国によるリソルジメントが進む中で、彼の名前Verdiの綴りが “Vittorio Emanuele Re d’Italia” (イタリア国王 ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号にもなっていたのも関係している。

ヴェルディは1861年に国会議員となるが、これはカヴールの要請によるもので、文化行政に取り組んだ時期もあったが、カヴールが亡くなると興味を失った。1874年には上院議員となるも、政治に関わることはなかった。

『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示する理論(シンフォニズム[1])に対するイタリア側からの回答となった。演技に対するこだわりも強く、作曲家という範囲を超えて主人公オテロが短刀で自殺するシーンをヴェルディは演技指導し、実演して舞台に転がり倒れこんだ際には皆が驚きの余り駆け寄ったという[57]。

『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入した感がある。作風はバッハ、モーツァルト、ベートーベンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、形式にこだわらず自由で気ままな作品に仕上げた。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。過去の作品も経験した苦難や孤独の自己投影という側面もあったが、ファルスタッフに対しては若い頃から他者からの束縛を嫌った自分、富と名声を手にして人生を達観した自分を仮託した。『ファルスタッフ』が完成した時、ヴェルディは「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と記した。
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