憎むは人の業にあらず-SNSの「羨望」「孤独感」「恐れ」と向き合うこと
「ローザのこの世をまるごと楽しむブログ」に
2021年9月10日に書いた記事です。
人はどんなに特定の人間が好きであっても、
その人になることはできません。
同時に、誰かを好きになるということは、
1つくらいは自分と似ているところ、
共鳴できるところがあるのでしょうが、
それでもすべてが同じということはありません。
遺伝子が同じであると言われる一卵性双生児であっても
指紋、目の虹彩、静脈パターン、ほくろの位置や数などは異なります。
両者は別の人間です。
性格や趣味嗜好まで考慮すれば、これもすべてがコピーというわけには
いかないと思います。
私の友人の双生児などは、親が本人たちの好きなように育てたせいか、
髪型やファッション、好きな食べ物にいたるまで、バラバラでしたね。
しかし、それでうまくいってるのですから、
2人にとってはそれがベストであったと思うのです。
つまり、身体的な特性だけみても、自分と同じ人間はこの世にはおらず、
唯一無二の存在なのです。
そこから考えれば、一卵性双生児以上に遺伝子が遠い人である人間に
自分との共感や同意を求めても無理なことです。
それがこの世の理ですし、頭では十分理解ができています。
それでも私は生身の人間ですので、
どんなに瞑想、祈り、五戒を唱えても、
やはりもやもやすることが多いものです。
逆に自分が嫌悪している人間や、あまり関係がない人間は、
案外気にならないものです。
しかし、こういう自分の気持ちを考えると、
人間の命に係わるような犯罪が、
親族間や顔見知りに多いというのが理解できます。
結局、相手に対して親愛の情があるにもかかわらず、
それが裏切られるからです。
ただ、この場合の親愛の情には、
執着も入っていると思います。
一方、自分が嫌悪している人間の場合は、解決しなくてはいけないトラブル
がなければ、顔も見たくないものですし、あまり関係がない人間は、
関わってこなければあえて近づきません。
例えるととおりすがりのおばさんに嫌味を言われるのと、
(虐待をしない状態の)
実母に嫌味を言われるのが、どちらがきついかと言えば、
後者の方がきつい場合が多いと思います。
実母を例にとった場合、子どもの心には親ならば
どこかわかってくれるという期待がある場合が多いことから、
「お母さんならばわかってくれるのになんで実の子どもの言うことをわかってくれないの」
となるわけです。
まして、実母が日常から「自分は子どものことをよく理解していて、
子どもの味方である」というアピールをしていたらなおさらです。
同一対象に対しての印象の落差が大きいと人は苦しくなるものです。
そのことから、
自分が好意をもっている人に関しても、その気持ちが強ければ強いほど、
「私が~さんのことをこれだけ愛しているのに、どうして、
私と同じ考えでいてくれないの/わかってくれないの」
とあらゆる面での理解と共感を求め、
それに対するバックが期待通りではないと
悲しみ・怒りなどの感情に襲われる人もいます。
とりわけ、自我が乏しく、「~さんが全て」というくらいに
相手に心酔しているような場合です。
特に自分が好意をもつ人間に関するSNSで、
その人間が華やかな生活をしている姿を目にすると、
この世で幸せにくらしてくれているということを
諸神仏様や相手のご先祖様に感謝するとともに、
自分が過酷な状況におかれていれば、なおさら、もやもやするものです。
もやもやの成分はだいたい
3つでできていると思います。
1つ目は羨望
特に共通の事案があり、自分の方に負担がかかっている状況や、
個人的に過酷な状況にあれば、「あなたは好きなことができていいわね」
となってしまう可能性が高いと思うのです。
前者の場合は、相手に対する怒りの感情も入っているでしょう。
2つ目は孤独感(おいていかれた感)
つまり、「おいて行かれた感」です。
小さな意味で言うと、どこかに行った場合は、
自分にも声をかけてほしかったことなどです。
この場合は、「今度は~に一緒に行こうね」と言っていたという
前提事案がある場合があります。
大きな意味では、特に自分と相手との間に、社会的にも経済的にも
目に見えるもので落差が生じている時に思うと思います。
例えば、相手が賞をとる、破格の出世をするなどです。
相手が幸せになるのでしたら、それが自分にとっての幸せ
であるわけですし、この世とあの世くらいに隔てられるわけでは
ないのですが、やはり、「遠くの世界に行ってしまった」
という思いをもつものであると思うのです。
そもそも異なる人生軸を生きていて、
たまたま近くのレールで出会っただけなのですから、
こうなることが起きるのは想定内なのです。
しかし、人の気持ちはなかなか割り切れないものがあります。
そして、次なる脅威は以下のような動きであると思います。
3つ目は恐れ
基本的に、この世的な生き方で成功をする人間には、
地位や金のある人間に集まるものであり、
特に今までの地の時代はそうでした。
さらに、対象となる人間が人当たりがよい、八方美人なタイプ、
容姿も美男美女とくれば、
存在自体が誘蛾灯のように人が吸い寄せられるようにやってきます。
特に対象人物が男性であり、根底にある性質が野心的なものが
強い人であったとします。
そうしますと、自分の将来に有利になるような人を伴侶に選ぶ可能性もありますね。
さらに自由を謳歌したいという面がそこについてくれば、自分を束縛せず、
金銭的にも自立しているか実家にお金がある、また、厄介な家族がいない
なども条件にあがるでしょう。
あとは連れていて、一定のレベルが保てるようなブランド力がある人です。
そういうことを考えると、
はたして、自分はその条件にひっかけてもらえる相手であるのか、と、
また自分を卑下することにもつながるので厄介なことです。
昔の家同士の政略結婚などをみても、マイナス面がある相手、
リスクがある相手、うまみがない相手は避けるものです。
子どもがどうしても必要であれば、
妊孕力が低そうな人(年齢・病気や障害)は避けます。
本来の結婚がビジネス的な側面をもつ以上は、
仕方がない面があるものの、これが行き過ぎると、
本人たちの感情が伴わずに破綻したりもするわけです。
人道的な面からは、あまりおすすめはできませんね。
そして、大変からいことを言うと、集まってきた人々が、心底、
その人のことを理解して集まってきているかは疑問ということです。
その人にお金がなくなれば、地位がなくなれば、病気になれば、
離れていく人もたくさんいます。真にその人のことが大切ならば、
そういう時でも気持ちに寄り添うでしょう。
手ひどく見捨てたりしないでしょう。
その時に人は、自分の周囲の人の真意を知るのです。
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自分は占術をする人間であるので、
相手に対して、
よくも悪くもこういうものをもっているから、
こういう行動をするのかなどが理解できる場合が多いと感じます。
別のところではエネルギーワークなどもやるので、心の平安を保つことを
最優先に考えているものの、人間には割り切れないものがあり、
そういった感情である「執着」が人間を苦しめるものであることを
時に痛感するのですね。
お釈迦様は「愛別離苦」と言いましたが、本当にこの言葉のとおりです。
それでも、自分を落ち着けなくてはと思う時、
私はISに殺害されたジャーナリストの後藤健二さんの言葉を
思い出すようにしています。
正確に言うと、自分の心がざわつくことには、
神の裁きは必要がないのですが、それでも最終的なことは、
人間が手出しできないので、神様や仏様にお任せをしようと
思うのです。
後藤健二 @kenjigotoip
目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。
-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。
午後10:49 · 2010年9月7日·Twitter Web Client
相手に対して、「羨望」「孤独感」「恐れ」というマイナスの
感情を持つ前に平常心で相手と物事を見守ること、
上記のような感情をもち、それが「可愛さ余って憎さ100倍」という
ねじれた愛になることは、人の因果ではなく神の意思でもない、
最終的な判断は神様や仏様がされることであると解釈をしています。
以下、頭の中に浮かんだ言葉なので、書いておきます。
人が人と出会うのは、縁があったから出会いました。
そこに学びがあるから出会いました。
かりに頻繁に会う・連絡をとりあうことがなくても、
縁がある人は必ず今生でまた関われます。
そして相手の幸せを純粋に願った気持ちなど、
プラスの気持ちは必ず伝わります。
上の世界へ行けば、そのすべてが白日のもとにさらされます。
やがてはすべてを理解できる日がきます。
だから、相手に執着せず、魂を束縛することなく、
軽やかな気持ちをもって信じなさい。信じきりなさい。
画像は『絵因果経』(京都・上品蓮台寺蔵・国宝)からです。