生きる事は戦いである(8月9日大幅加筆)
ーきわめてあてにならぬもの、○○歳までは結婚しないという言葉から考える―
個人的経験から、下記にあげる話題については長年正解のない答えについて考えてきました。死ぬまでに書いておきたい事を書くことをコンセプトに書いた次第です。
☆長いので目次
1 いわゆる負け戦のしんがりほど難しい~終わらせる事の困難さ(好きな人との結婚と不妊治療)
2 生きながら廻る「六道」とは(好きな人と伏兵的女性との結婚)
3 悟りを妨げるもの(相手の女性の状況からできちゃった結婚・授かり婚を考える)
4 思わぬ所に羅刹がいるものである(外野による好きな人と相手の女性の後日談)
5 最後に笑うのは往生際が悪く慣れ親しんだものか(結局、最強なのは幼なじみポジションなのか)
6 まとめー爪はいつでも研いでおくこと(あてにならぬものと大河ドラマのせりふに見る教訓)
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☆本文☆
1 いわゆる負け戦のしんがりほど難しい~終わらせる事の困難さ
古来より、戦に負けてしまい、その部隊のしんがりをつとめることが難しいと言われています。物事をきれいに終わらせること、いわゆる敗戦処理ほど大変であることは人間関係にも言える事でしょう。
7月になり、とある芸能人で「自分は結婚というものを考えていない」という方が結婚しました。しかも、相手は一般人女性(給与所得者)です。「彼は結婚しない人」という勝手なイメージで、色々と思いをめぐらせていたり、「結婚しないのだから」と枕を高くして寝ていた、熱狂的なファンにとっては青天の霹靂だったことでしょう。
昨今、結婚と出産の適齢期のようなものが瓦解してきています。必ずしもみなが20代や30代に結婚(法律婚・事実婚含め)、出産を行うわけではなく、結婚または出産のどちらかのみ行う人もいるし、一生涯、どちらも行わない・行えない人もいます。また、養子縁組で親になる人もいます。占いなどをやってみる身からすると、どう考えても一生涯、結婚・出産を行わない人や、実行しても離婚や死別の可能性が高い人もいます。子どもとの縁がきわめて薄く、我が子に先立たれる可能性が高い人もいます。こういう観点からみても、人の顔が異なるように、人生のライフイベントもさまざまで、結局、それぞれの人生の課題にその項目があるかないかということではないかと思うのです。
本来、結婚と出産は自由意思ですべき事であり、100歳を超えた高齢者が結婚してもとがめられず、特に男性の場合は、平均寿命を超えた90代になって血をわけた我が子を持ったとしても、それ自体、間違っているとは言えません。まあ、生物学的終焉を考えた時に、子どもへの養育責任等、別の問題は発生するかもしれませんが。
適齢期のような枠組みが崩れてどうなるかと考えた時、一番の問題は、「好きな人と結婚するという生活をする選択肢を消す事」を決めにくい事であると思います。つまり、「好きな人との結婚を諦めるタイミング」です。
よく、不妊治療のやめ時を決めるのが難しいという事と類似していますが、不妊治療は閉経というものがくれば、自分の遺伝子の存続ということを最優先に考えた治療は終止符を打たざるをえません。しかし、結婚は臨終の間際までできるので、ある意味、諦めないと思えば諦めなくてもいいわけです。
結婚および出産適齢期のような枠組みが崩れてどうなるかと考えた時の問題について、もう1つ言っておきたいことは、本人の中では解決した問題であったとしても、周囲がいつまでも期待を抱くことです。特に有名人で高齢になって結婚・出産した事例がでてくれば、「まだあの人も結婚できるのではないか」「まだ出産できるのではないか」と周囲は勝手に期待を抱いて、本人に圧力をかけます。「努力をすれば何でもできる」というような、義務教育の達成目標か!とツッコミを入れたくなるような考え方でいる人が、まだまだ多いのです。そもそも結婚・出産といったものが人生の課題にない人にとっては、そういった事は永遠に発生しないものです。はっきり言って、全員が高齢になっても結婚・出産といった選択肢がとれるわけではありません。しかし、上記と重複しますが、不妊治療と異なり、結婚の場合は臨終間際まで可能であるので、しないという選択をした本人にとっては、厄介な事になります。また、日本では同性婚が認められていないので、同性と法律婚をすることを考えている方は、国内では実現不可能です。それでも法律婚にこだわるとしたら、法律が改正されなければ、戸籍上は独身のままになります。現状では、これは仕方がないことなのです。
2 生きながら廻る「六道」とは
人によって地獄のイメージや捉え方は異なるでしょうが、私からすればこういった事態は、生きながら「六道」を廻るようなものに思えます。
適齢期のようなものが崩れた状況で、最も悲惨な終わり方とは、相手が「自分は○○歳くらいまでは結婚しないよ」とか、「自分はたぶん結婚しないと思うよ」と言うせりふを吐いていて、付き合いの長い彼女や、友人以上恋人未満の女性がじりじりとがっつかず待ち続けているうちに、男性のもとに思わぬ伏兵があらわれて彼がかっさらわれていくことです。
特に好きな人との間に、血を分けた子どもをもつ事を想定していた場合の女性にとっては、年齢も考えて行動せねばならない以上、死の宣告と言わざるをえません。
「だってあなたはしないと言っていたじゃない!」
「あなたに嫌われたくないから(男性は追い回されるのを苦痛と感じる事が多い生き物との考え方から)、あまりアプローチをしなかった。その結果、このような憂き目に遭ってしまった」
一度はこう思いたくなるでしょう。
時間が経過して、「仕方がないことだ、それが宿命であったのだ」と自分で自分に言い聞かせても、やはりやるせない気持ちになるものです。まして、その男性に対して身も心も捧げるレベルでいたとしたら、その苦しみは生きながら六道廻りをするようなものです。
私のどうでもよい経験則では、「自分は○○歳くらいまでは結婚しないよ」とか、「自分はたぶん結婚しないと思うよ」のような発言ほどあてにならぬものはありません。しかし、そういってよくも悪くも自然に任せていると、天がお膳立てをするのか何なのかわかりませんが、そういう発言をする男女は、とかく電撃結婚とやらをするようです。特に、人からちやほやされ、誰にでも良い顔をするタイプの男女ほどその傾向があるようで、言っている発言ほどあてになりません。彼らを擁護すれば、強いタイプに押されると嫌われたくないあまりに承諾をするのかもしれませんが。
もっと言ってしまうと、人間とは平気で発言を翻す動物なので、ある意味仕方がないのかもしれません。私はもちろんのこと、かの聖人ペテロだってイエス=キリストを3度知らないと言ってしまい、後で後悔したのですから。だからといって、人に対して人生を左右するようなことは、あまり軽く考えて言うべきではないと言えます。特に相手の気持ちを小指の先ほどは理解していたならば、なおさらです。もし、そういう事を言った人間が、国文学関係の人であったら、私はもれなく上田秋成の『雨月物語』にある『菊花の約』をすすめるでしょう。次元は異なるものの、約束もとい発言は重いという事がよくわかるでしょうから。
3 悟りを妨げるもの
それにしても、これ以上に耐えがたい結末とはあるのでしょうか。
想定される最も最悪な結末とは、「男性が子どもを最優先に考えていないのに、子どもがからんでくるケース」(授かり婚もといできちゃった婚)です。結婚は離婚するという可能性があり、元々血縁がない間柄なら完全な他人に戻れます。しかし、子どもがからむと、完全な他人には戻れず、子どもという存在を通じて、2人の遺伝子という作品のようなものが地球上に存在することになります。それは消せないのです。仮に生物学的寿命が訪れても、役所の書類に残ります。早期の流産で届けを出す事がなくても、事実としては消せません。
ここで、相手の女性について考えてみた場合、より辛い思いをいだくのは、以下のケースではないかと思います。
・自分と同年代かつスペック的(学歴など)に大差が無い場合で、いわゆる高齢出産/超高齢出産の領域
・自分と同年代かつスペック的(学歴など)に下である場合で、いわゆる高齢出産/超高齢出産の領域
→想定できる当事者の思い:なんで自分は選ばれなかったのか。35歳をすぎると、妊孕率が下がるとされているのになんで簡単に子どもができるのか。
(8月9日補足↓)
これらのケースに関連し、電撃結婚の相手としてもやもやするのは、40代から50代前半の女性です。このラインはまだ子どもが出てくる可能性があるからです。年齢を理由に他人に結婚を反対されている人で、どうしても特定の相手と結婚したいならば、文字通り「体を張って、己の妊孕力に賭け」て、電撃結婚+できちゃった婚・授かり婚という策に持ち込む場合もありますし、そうと思われる人を発見したことがあります。安定期(最低でも22週を過ぎて)に入ってから動き出すのはその良い例ですね。
人によっては55歳以降、出産する事もありますが、40代から50代前半ラインは1つの山であると言えます。とりあえず、ここを「実子もやもや期」とします。確かに医学的にはハンデがついてきますが、「これを言ったらおしまい発言」ができるなら、「高齢であろうが何だろうが、その女性が実子を持つという課題を持って生まれてきており、代替手段がないレベルに決定的な課題である」だからです。
・自分および男性の知り合いで、普段は男性に対して態度などがよくなかった場合
→想定できる当事者の思い:なんで彼のことを悪く言っていたのに一緒になったのか。
・自分に肉体的ハンデ(特に婦人科疾患や、持病の関係で妊娠に影響がでる薬を服用している場合)があり、はなから出産という選択肢をとれない/とりにくい事に折り合いがつけられていない場合
・相手の女性に肉体的ハンデ(同上)があり、はなから出産という選択肢をとれない/とりにくい事を、本人がアピールしていた場合
→想定できる当事者の思い:なんでそれだけハイリスクな状態なのに簡単に子どもをもとうとするのか、そしてできるのか。これは上記の補足にあるように、「高齢であろうが何だろうが、その女性が実子を持つという課題を持って生まれてきており、代替手段がないレベルに決定的な課題である」だからです。
逆に、男性が何が何でも子どもを欲しがっていて、彼女や友人以上恋人未満の女性の中に、妊孕性が高いと思われるスペックを持っている人がいない場合で、ものすごく年齢が下の女性(婦人科系統の持病無し)と一緒になる時は、「ある意味仕方がない」と、時間が経てば、折り合いがつけやすくなります。「あなたは結婚よりも子どもが欲しかったのね」と。これがある意味、悟りの境地なのです。
4 思わぬ所に羅刹がいるものである
これだけでも天に仰ぎ地に伏すレベルですが、せっかく悟る方向に思考が傾きかけているときに、さらに追い打ちをかけてくるのが当事者2人の他、親兄弟と友人です。自分が実家暮らしで、親兄弟が男性の事を知っていたり、男性との間に共通の友人がいて配慮ができないタイプであれば、悪気がなくても男性と相手の女性の事について情報を耳に入れてくるものです。自分の中で、「どんな状況になっても相手の幸せを願うのが本当の愛である」/「所詮、この世には限りがあるので、いつかあの世に行けば、こういった執着から逃れてつきあえるだろう」/「来世では一緒になれるように願おう」と、宇宙レベルで自分を律する方向に考えがかたまりつつある時に、傷口に塩どころか硫酸を塗るような事をされるのはたまらないものです。個人的なイメージからすると、皮下組織をもう二度と皮膚が再生できないレベルまでほじくられるような感覚でしょうか。
とはいっても本人を苦しめるのは、やはり男性と相手の女性だろうと思います。子どもを産むと女性が決意した以上、その女性が安楽に妊産婦生活をおくることが望ましいものですが、あまりに渦中の男性や相手の女性が、幸せアピールなどをSNSを通じて行ったり、直に行ったりすれば、本人にとっては心中穏やかではありません。流産・死産・妊産婦の死を願ってしまったり、それは人間として思ってはいけないことであるとして自分で自分を罰する事になります。
5 最後に笑うのは往生際が悪く慣れ親しんだものか
そしてもっときついのは、彼女どころか、友人以上恋人未満の関係で、ずるずると年月を重ねたあげく、片方が結婚→離婚をして、手元に戻ってきたケースではないでしょうか。この場合は、男性が離婚して1人になったところに、友人以上恋人未満で独身であった女性が看病目的で入り込み、弱っているところにうまくはまったのです。女性が特に他の男性と浮き名を流していたわけではないので、どこかで粘っていたのかもしれません。諦めなかった者が最後に笑うのかもしれません。
これと似たケースに、女性にモてる男性がそこら中の女性を渡り歩いたあげく、結局、幼馴染で姉・妹ポジションの女性と一緒になるというものもあります。例えれば、世界各国のグルメを食べ散らかしたあげく、やっぱりおにぎりと緑茶が一番であると食レポに書いてしまう人のようにです。
人の縁とは不思議なもので、到底一緒にならないであろう2人(男性と伏兵的女性)が一緒になることがあります。スピリチュアル的な考え方では、結婚の場合、するかしないかも相手も決まっているそうですので、そういった考えに立てば、全ては起こるべくして起こったということなのでしょう。補足にも書いていますが・・・・・・。
しかし、人の縁はその結果生じた幸福(電撃結婚+できちゃった婚・授かり婚)が、新たな生命の誕生という喜ばしいものである反面で、他人の不幸と隣り合わせであるという、哀しさも持ち合わせているものであると痛感します。結婚と妊娠(先にある出産)という2つの事項が1つになる事で、片方を天上界に上げ、片方を地獄の底に突き落とすのですから。
通常のケースの結婚では、子どもが出てくるまでに時間的猶予があり、場合によっては、結婚後に離婚という大どんでん返しがある場合がありますが、電撃結婚+妊娠22週を過ぎたできちゃった婚・授かり婚ケースはまったなしなのです。
6 まとめー爪はいつでも研いでおくこと
法律婚が全てを凌駕するわけではありませんが、好きな人とどうしても一緒になりたいのであれば、彼女枠・友人以上恋人未満枠問わず、「私と彼は仲が良いし、彼は結婚しないと言っているから大丈夫」と安心しない方がよいでしょう。婚姻届を役所に出して受理されるまでは、何があっても動けるように、いつでも爪は研いでおく必要があると言えます。
章の名前は、1970年代の大河ドラマ『新平家物語』で、平清盛がいまわの際に「(後白河法皇の事に対して)いつでも爪は研いでおけ」と一族に遺言していたことによっています。「絶対」などという事は、この世には1つしかありません。それは、「命あるものは必ず肉体的な終わりを迎える(この世界における死)」だけだと思います。
自分が好きな人と共に歩む-そして結婚という目標が達成できたら、それをいかに維持していくかという別の戦いが始まります。結婚はゴールではなくスタートですし、好きな人と一緒になれたと喜んだ翌日から、無明長夜のような日々が始まる事も十分ありえます。これは私の持論ですが、大なり小なり、生きるという事は戦いであると思うのです。
(注)思うところがあり、厄除けのために書いた記事です。