見出し画像

青紅葉の美を全身で感じてー東福寺(南区)ー


JRと京阪東福寺の駅から徒歩で数分。
京都の紅葉の名所としても名高い東福寺は、秋の燃えるような紅葉だけでなく、青紅葉もまた格別です。

電車や駐車場からやって来るとまずこの橋に出会うことができる

今回は東福寺の青紅葉風景をご覧いただきます✨😌✨

駐車場から歩き、臥雲橋を渡る。向こうには通天橋が見える

◎四季に彩られる東福寺
東福寺は鎌倉時代に創建された場所。
南禅寺などと並ぶ京都五山に数えられる臨済宗大本山の寺院の一つで、特に秋には紅葉の名所として知られています。

特別拝観期間には、普段見ることができない紅葉の絶景を巡り、四季折々の庭園美を堪能できます。その神秘的な雰囲気は、訪れる人々の心を癒し、忘れられない思い出となることと思います。

本堂は昭和初期のもの

境内は季節を外すと静かで落ち着いた雰囲気が流れています。
本堂では堂本印象の天井図が描かれています。

三門からの眺めも美しい

大仏(天竺)様を思わせる、室町初期の再建。扁額「玅雲閣」は足利義持筆。楼上内部には諸仏が並び、天井や柱には明兆と弟子による極彩画が描かれている。

東福寺HP
国宝に指定されている現存最古の木造三門

どっしりと建てられた柱が美しい三門の芸術性を高めています。

昭和期に設計・作られた方丈庭園は「八相の庭」と呼ばれ、その四方に庭園を持つつくりになっています。

重森三玲が設計した方丈庭園は、枯山水と植栽が見事に調和した美しい庭園

◎青紅葉が迎える通天橋を歩く
東福寺は一ヶ所一ヶ所拝観料の支払いがいる場所であり、通天橋も600円で入場ができます。

季節には多くの人々が訪れ、橋がいっぱいになる

多くの人々が橋の両側で織り成す緑に包まれた光景に目を奪われます。

先程の臥雲橋を見る
下に降りて歩ける場所がある。まるでアーチのように美しい

通天橋を渡り、紅葉の庭へと降りて散策することができます。上を見上げると一面の紅葉のアーチ。地上に生える苔とあいまって全体が緑一色の世界に包まれています。

上も下も一面の緑色に染まる景色は見事というほかない


若々しく艶のある紅葉の歯は人間をも生き生きとした気持ちにさせてくれる

東福寺は塔中を含めて多くの見所があるとともに、紅葉シーズン以外は本堂と通天橋のセット拝観券もあり、広々とした境内をゆっくりお参りすることができます。

新緑の季節になったら、この場所で目の保養をするのはいかがでしょうか。

《追記》

なお、東福寺には重文に指定されている『元亨釈書』が保管されています。

もちろんこれは虎関師錬が東福寺僧だったことからの縁で、九条道家により創建された東福寺との関連もさることながら、日本仏教史、仏教文学にも大きく影響を与えている書物です。
私が以前研究していた泣不動縁起でも関連して読んだものでした。公開しているときに見てみたいものですね。

(以下は本書の説明引用です。)

鎌倉時代末期に虎関師錬が著わした仏教史書。三十巻。仏教の伝来から元亨二年(一三二二)までの約七百余年間にわたる諸宗僧侶の伝記や評論、および仏教関係の諸事蹟などを漢文体で記した日本仏教の略史である。『史記』『漢書』、または『仏祖統記』などの体裁にならって、全体の構成を伝・表・志の三部に分けている。そのうち、第一巻から第十九巻までが伝の部で、これには推古朝の達磨渡来説をはじめ、高僧・仏教信者・尼僧・神仙など四百余名の伝記が、伝智・慧解・浄禅・感進・忍行・明戒・檀興・方応・力遊・願雑の十科に分かれて収められている。この分類は、虎関がみずから施・戒・忍・進・定・慧・方便・願・力・智の十波羅蜜によったものであると述べているが、おそらく『梁高僧伝』や『続高僧伝』『宋高僧伝』などの十科の分類法を参照したものであろう。次に、第二十巻から第二十六巻までは資治表である。これには欽明天皇から順徳天皇の承久三年(一二二一)までの皇室関係の仏教記事が年代順に配列されている。さらに第二十七巻から第三十巻までが志である。ここには仏教の制度、大寺の歴史、仏教音楽、仏教教団における抗争などを、学修・度受・諸宗・会儀・封職・寺像・音芸・拾異・黜争・序説の十志に分けて記し、巻末に略例と智通論が付せられている。このように、本書は鎌倉時代末期の五山学芸界を代表する虎関の畢生の大作で、したがってその内容は仏教史だけでなく日本思想史などの分野からも大いに注目されている。虎関がその第三稿を東福寺海蔵院で脱稿したのは元亨二年八月であるが、虎関の弟子竜泉令淬が作った『海蔵和尚紀年録』によると、虎関はかつて一山一寧から本朝の高僧の事蹟を詳しく知らない点を指摘され、発憤して本書を著述したとみえている。しかし、『碧山日録』によると、凝然が本朝の高僧の事蹟を和文で記したものがあり、虎関の門人の固山一鞏がこれを入手し、それを剽窃して漢訳し、それを虎関に呈したので、虎関がそれに補修を加え、さらに資治表・志・賛などを付けたのが本書である、と述べている。なるほど『三国仏法伝通縁起』などの凝然の著作が虎関の著述に刺激を与え、参考にされたようなことはあったかも知れないが、このような『元亨釈書』に対する疑義は東福寺派内における各門派の感情的対立などによるものとみるべきであろう。本書が成るや、虎関は再度入蔵の上表文を付して朝廷に献じ、大蔵経に加えられることを請い、ついに寂後の延文五年(一三六〇)六月七日、入蔵の勅許が実現した。ついで永和三年(一三七七)無比単況によって初版本が完成された。しかし、永徳二年(一三八二)二月十六日海蔵院の書庫とともに版木が焼失したので、明徳二年(一三九一)十一月性海霊見によって重刊された。そののち慶長四年(一五九九)、同十年、元和三年(一六一七)、寛永元年(一六二四)三月、寛文元年(一六六一)などに刊行され、近くは『(新訂増補)国史大系』三一のほか『大日本仏教全書』にも収められている。現在東福寺には第二・三・十・二十二巻を虎関が浄書した大道一以手沢本(重要文化財)が所蔵されているが、大系本の底本である宮内庁書陵部の貞治槧本との間には多少の異同がみられる。

[参考文献]
今枝愛真「元亨釈書―その成立と原本及び貞治槧本をめぐって―」(坂本太郎・黒板昌夫編『国史大系書目解題』上所収)

『国史大辞典』より「元亨釈書」項

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集