僕の旅癖について

まえがき


初めまして。
数あるnoteの中で、僕の文章に目を通していただきありがとうございます。

いきなり語り始めても誰やねんとなりますので、最初に少し自己紹介をします。
僕はいわゆるバックパッカーの端くれで、大学生の時から長期休暇を活用して様々な国を旅行してきました。今も普通のサラリーマンとして働きながらお盆やGW等を活用し海外旅行を継続しております。

足掛け10年ちょいで訪れた国は25になります。初めて海外に行ったのが19歳の時なので、思えば遠くに来たもんだ、、と感慨深い気持ちでいっぱいです。


そんな僕ですが、色んな国を旅行をしているうちにだんだん自分の趣味嗜好というか、こういう場所に行ってこういう事をするとテンションぶち上がるんだな、というのがようやくわかってきましたので、僕の旅行遍歴を振り返りながらご紹介したいと思います。そしてここではそんな趣味嗜好を「性癖」になぞらえて「旅癖(たびへき)」と呼ばせていただきます。

先に言っておきますが、この文章は旅行の記録というより、僕が癖(へき)を獲得していく過程を記した旅エッセイって感じの内容です。年老いていくにつれ考えも変化していくと思いますが、ぼちぼち三十路も過ぎたことだしこの辺で一旦書き著しとくか、という気持ちになりましたのでこのnoteを書いた次第です。少し長くなりますがお付き合いください。



長すぎる長期休暇



初めて異国の地を踏んだのは19歳の時だった。

熊本で生まれ育った一人の青年は、一浪の末、合格最低点という奇跡をぶちかましつつ憧れの大学に入学。夢にまで見たキャンパスライフ初年度の夏学期は、授業、新歓、サークルなどとやっている間にあっという間に過ぎていった。

そして夏学期が終わり到来した2か月間の夏休み。初めて経験するアルバイトにサークルの夏合宿、僕と同じように大学付近に下宿している友人宅での宅飲みなど本当にありふれた普通の夏休みを過ごし、我ながらとても充実していた。浪人時代まで野球に勉強に(時々サボりつつ)いそしんできた僕には、これほどまでに何物にも縛られず自由に過ごせる時間は本当に久しぶりだったのだ。

一方で、もちろん非常に楽しかったのは間違いないのだが、テキトーな生活を送っている典型的大学生は2か月60日間を予定で埋め切れるはずもない。実のところ、夏休みのそれなりの時間は家で惰眠をむさぼるかyoutube鑑賞にふけるか、といったありさまだった。

惰眠をむさぼるようす


そんな中で夏休みも終わり、到来した冬学期もゼミやら学園祭やらとやっている間に一瞬で過ぎていった。半年ぶり2度目の長期休暇が近づいていた2013年の12月。再び同じような長期休暇を過ごすのか?何か意味のあることをしたほうがいいのではないか?と漫然とであるが思考を巡らせていた中ででひらめいた。

「とりあえず海外に行こう。ふらっと一人旅で。」


高校時代は世界史を履修しており、大学の二次試験にも使ったのでそれなりの知識は蓄えていた。教科書で学んだあれやこれやを実際に見てみたいという思いが心のどこかであったのだろう。とはいえ海外一人旅をサラッと決心するあたり、大学生特有のイキリムーブであった可能性も大いにあるが、とにかく長期休暇がよほど暇だと感じていたのだと思う。

初海外にビビり倒す


だいぶノリと勢いで決めた海外旅行だったが、行先はイギリスでほぼ即決だった。理由は以下の3つだ。

①大英博物館で大英帝国がいかに凄かったかを見てみたい。
②初めての海外だし英語通じないのは怖い。英語が通じる国は安心。
③短期留学している大学の友人を訪ねるつもりであり、本当に安心。

海外行き、しかも孤高の一人旅をチョイスしたにもかかわらず、実のところ内心はだいぶビビっていた。今まで海外に行ったことがないのだ。暇を持て余して意気込んだはいいものの、2か月も休みがあるのに1週間だけ、という中途半端な感じも臆病さ加減を物語っている。


そもそも熊本という閉鎖的な地方都市で19年間育てあげられた青年は、旅行というものに非常に疎かった。学生時代の主な交通手段はチャリ。雨の日も風の日も雪の日もチャリで市内を爆走していた。高校~浪人時代に乗ってたワインレッドの愛車(チャリ)は総走行距離が1万キロを軽く超えてた。バイクかな??


浪人してようやくバスや市電(いわゆる路面電車の熊本における通称)を解禁したものの、上京するまで九州からほぼ出たことがなく、JR的な電車にすらまともに乗ったことがなかった。初めて大学受験で東京に行き渋谷に泊まった際、鉄道会社ごとに改札が違うなんてつゆ知らず、東急東横線の日吉駅に行きたいのにJR改札前の路線図を眺めながら20分くらい「行き先がない、、」とアホみたいに立ち尽くしていたのもいい思い出である。


乗り物ですらこんな有り様なので、当然のようにパスポートなんて持っておらず、海外行きの飛行機や宿の取り方も全くわからない。気分は初めてのおつかいに出る5歳児。英語もいわゆる受験レベル程度で聞くのも喋るのもポンコツなので、入国審査で早口でまくしたてられたら怒りの緊急帰国も辞さない覚悟だった。

そういった海外経験の乏しさと育った環境が相まって、海外には危険がいっぱいで、夜道を歩けば酒場帰りの屈強な漢たちに秒で襲われるし、街中で気を抜くとあっという間に財布スられるかも、、、とギリ間違ってはいないが偏見に満ち満ちた目で世界を見ていた。


ぼくを狙う悪い人たち

スーツケースにはワイヤーロックをつけ、腹巻の中にパスポートといくらかのお金を入れる。金持ちにみられないように全身ユニクロをまとい、百均で買ったようなやっすい腕時計をつける。入国審査を潜り抜けるため、飛行機の中ではいくつかの想定問答集を読む、、、今となってはビビり過ぎでしょ、という感想しかないが、とにかくガチガチの準備をして未知なる世界へと乗り込むこととなった。


初めての海外で感じたこと


結論から言うとめちゃくちゃ楽しかった。


博物館はさすが世界の大英帝国だ、というレベルの文化的価値がある展示を楽しめたし、セブンシスターズではイギリスらしい丘陵地帯と白亜の崖の美しいコントラストを見ることができた。


ロゼッタストーン@大英博物館
セブンシスターズ

宿泊した「ピムリコハウス」も印象深かった。韓国人の方が経営しているゲストハウスで、2段ベッドの1つに寝泊まりする形式だ。ビールを飲みながらお互いの国やイギリスのことについて話したり、晩ごはんに韓国料理をおすそ分けしてもらったりでとても温かい宿だった。ただ観光するだけでなく、現地で暮らす人や他の旅人と合流する楽しさも味わうことができた。
※余談だが当時はまだ宿の予約サイトが発達しておらず、宿のHPに直接メールして空きを確認するというちょっとアナログなやり方だった。懐かしい、、


おすそ分けしてもらった韓国料理

そして懸念していた治安と英語も全く心配なかった。夜のロンドンは女性が一人で出歩けるくらいに安全だったのだ。拙いカタカナ英語(僕は「魂の英語」と呼んでいる)でもなんとか聞き取ろうとしてくれるし、たどたどしいが会話もできる。毎晩しっかり夜ご飯まで満喫して宿に帰ることができた。

5泊7日という短い旅ではあったものの、自然と歴史の両方を満喫できたし、なんならもっと時間をとってスコットランド方面の湖水地方にも足を延ばしたり、冬だったのでプレミアリーグ観戦したりもっと色々できたなあ、と後ろ髪をひかれる思いでロンドン・ヒースロー空港を後にした。旅は後ろ髪を引かれるくらいがちょうどいい。


こうしてはじめての海外一人旅は大成功に終わった。僕の脳裏に美しい景観と文化の重みを刻みこんだイギリスは、将来年老いたときにもう一度ゆっくり観光したい国の1つとなった。


沼へと誘う、とある気づき


イギリス旅行自体はとても満足のいくものだったのだが、この旅を振り返ってある1つの仮説が生まれた。それは僕の旅行に対する価値観をバグらせるきっかけになったと言っても過言ではない気づきだ。



それは




「海外旅行という行為、思ってたよりだいぶハードル低そうだなあ、、、せっかくお金と時間をかかるんだから、もっと訳わからんところ行っても大丈夫なんじゃね?」というものだ。

当時のぼく



前半の、海外旅行に対するハードルについて。これはとてもいい気づきだと思う。海外とはいってもそこで普通に生活している人はたくさんいるわけだし、文化は違えど劇的にヤバいものが待ち受けているわけではない。本質的には何も変わらない日常があるだけ。出国前の僕は海外をリスペクトし過ぎていたのだ。

しかもロンドンは世界でも指折りの観光都市であり、滞在中にも多くの日本人の姿を見かけた。僕と同じくらいの年齢の人もいた。海外旅行はものすごいことだと思っていた僕にはこれも衝撃的だった。

なにより驚いたのが、修学旅行生らしき日本人の団体に遭遇した時だ。田舎の公立中高出身、東京進出するのも勇気要りました!みたいな僕とは全く違う人生を歩んでいる人たちが、高校生にして、しかも修学旅行とかいうハイパーボーナスお楽しみ学校行事でイギリスに存在しているという事実にカルチャーショックを受けたのを鮮明に覚えている。


そして一方で後半の「訳わからんところに行く」という部分。普通は「イギリス行けたから次は近場で東南アジアのタイかな」とか「英語圏繋がりでアメリカ行ってみるか」とか「英語圏ではないけど同じヨーロッパでドイツとかスペインとかもありだな」みたいな感じで、それなりによく知っている国々をターゲットとし、徐々にギアを上げていくものだと思う。

ところがどっこい。初の海外旅行を何とか成功させたことで舞い上がったのだろう。自分が知っているところから一番遠そうな場所に行って、全く未知の世界を経験する旅を成し遂げてやろうと思い立ってしまったのだ。

イギリスはハードルが低すぎたらしい

「物理的に行ける」ことと「行って大丈夫か」は全く別の議論である。飛行機なんて乗り継げば世界のどこにでも行けるが、それは安全性や旅行の楽しさを保証している訳ではない。そんなことは当時の僕も百も承知だった気がするが、とにかく未知の世界を見てみたいという謎の好奇心が心を支配していたことは間違いない。

初めて海外一人旅を決めた時もそうだが、変なとこでスイッチが入る癖(くせ)があるようだ。。。

そして次なる旅へ


そんなわけで次なる旅行先が「訳わからんところ」であるには決まったのだが、東京とイギリスしか行ったことない人間がそう簡単に訳わからんものを見つけられるはずがない。禅問答ではないが、何がどうなれば「訳わからん」状態なのかも理解できていなかったのだ。

当時は今ほどSNSが発達しておらず、旅先を探す手段は先達が書き残した旅ブログを読む位しかなかった。とにかく「世界 秘境 ブログ」みたいなワードで検索しまくり、膨大な数の旅行記を読んだと思う。写真の数はインスタほど多くないが、魅力的な経験を記した文章により想像力がいっそう掻き立てられた。

余談だが、この時の影響で今でも旅行に関するあれこれを調べるときはブログを読み漁ることが多い。日本のガイドブックはどうしても写真過多な傾向があるため、目的地についても「あ、写真と同じだね、以上」という悲しいスタンプラリーになりかねない。文字により想像力が掻き立てられる分、現地に着いた時の感動もひとしおである。読者の皆さんもぜひ真似してみてほしい。


何はともあれそうやって調べているうちに、「どうやら中央アジアが訳わからんくてしかもめっちゃいいらしい」という情報に辿り着いた。しかも想定していた2週間程度で楽しめそうなルートもある。我ながらよくそこに辿り着いたとは今になっても思うのだが、当時得られた情報はこんな感じだ。

・旅人向けの王道ガイドブックである地球の歩き方「中央アジア編」、5カ国も載ってるくせに薄くてほぼ役に立たないから当てにしない方がいい
・旧ソ連のため共産圏の風を感じることができる
・ロシア語圏なので英語が全然通じない
・キルギスは山岳地帯の美しさから「中央アジアのスイス」と呼ばれている
・最強の男ティムールが建てた、ウズベキスタンのサマルカンドという街がめちゃくちゃ美しい
・イスラーム圏であり、挨拶は「アッサラームアライクム」
・キルギス人は日本人と見た目がそっくり

ざっと挙げた大きめのポイントだけでも我々の日常とかけ離れており、なんだか「訳わからなそう」だ。言葉にしても想像つくようなつかないような概念が並んでいる。そもそもガイドブックが役に立たない場所って何やねん。

イギリスの刺激にはすっかり慣れてしまい、新たな刺激を求めていた当時の僕は「これは訳分からんぞ!なんか凄そうだ!これしかない!何とかなるっしょ!」とビビッときてしまった。こうなったらもうやめられないとまらない。直感に従い、中央アジア行きを即決したのである。

※僕が中央アジア行きを決めた後、クレイジーな友人が乗っかってきて実は2人旅となったというエピソードもあるのだが、長くなるので割愛する。

やめられないとまらない

周囲の反応

さて、中央アジア行きを高らかに宣言したものの、僕の思惑通り(?)周囲の理解は全く得られなかった。
「中央アジアってどこ?」
「よく分からないけど治安大丈夫?行かない方がいいんじゃない?」
「そんなところ行って何が楽しいの?」

今でこそSNSや直行便就航の効果もあってかウズベキスタンの知名度が少しずつ上がってきたが、当時は比べものにならないくらい未知の場所扱いをされていた。

しかしこちらは訳わからん事こそが至高という理念の元で邁進していたため、それらのありがたいお言葉たちは僕のモチベという火に油を注ぎまくることとなる。ついに見つけた俺だけの旅行先、この目で確かめてやろうじゃないかと決意は固くなるばかり。聞いてくれた人には一応場所と面白そうポイントを説明するのだが、すればするほど「なんだこいつは」みたいな顔になっていったのを覚えている。

だいたいこんな顔をされる

中央アジア旅の感想

そんな日本とかけ離れた中央アジアの国々であったが、こちらも本当に素晴らしい旅だった。キルギスが楽しすぎてゴリっと旅程を変更したため実質キルギス旅行だったのだが、とにかく目に入るもの全てが新鮮で感動的だった。

キルギスの3000mを超える山岳地帯を馬で歩くホーストレッキングは最高だったし、そこで見たチャタルクル湖と星空は一生忘れられない。湖の近くでは家畜を放牧して生計を立てる遊牧民が住んでおり、伝統的なユルタ(モンゴルでいうゲル)に泊まったのもいい思い出だ。また、琵琶湖の何倍も大きく、フビライハンが避暑地にしていたとされるイシククル湖を訪れた際は、日本では見られない規模の自然に圧倒された。加えて湖の近くには旧ソ連時代に使われていた廃飛行場があり、誰もいない滑走路と湖の組み合わせはロマンを感じさせた。


ホーストレッキング 
標高3,500mにあるチャタルクル湖
ユルタ
滑走路とイシククル湖


一方、非常に良いとは言いながら、正直なところ旅行中は困ったことばかりであった。先述の通りキリル文字圏であるため、バス乗り場も「автобус」と書いてある場所にしかなく当然自力では見つけられない。ようやくバス乗り場に辿りついても、どれに乗れば次の町に辿り着けるのかすらわからないような状況が頻発した。

だが、そんな状況でもキルギスの人たちは親切だった。道がわからずにあたふたしていると、通りすがりの人が声をかけてくれる。どのバスに乗ればいいかわからず右往左往していると、運転手たちがみんなで助けてくれる。言葉もろくに通じないが、トレッキングのキャンプ地ではホスト家族が手招きしてダンスに混ぜてくれる。ある時乗った乗り合いの白タクでは、僕らのことを日本人と知るや否や歓迎?のウォッカパーティーが始まってしまい、移動するだけなのにベロベロになったのもいい思い出だ。なにはともあれ、人に助けられたからこそ心温まる時間を過ごすことができた。

キャンプ地でパリピの片鱗を見せつけるキッズ
ウォッカ飲まされて隣のおっちゃんも撃沈


当時、帰国直後にFacebookに投稿した文章からキルギスの感想を抜粋してみる。

キルギス…非常に良い。思わず滞在期間を伸ばしたくらい。また旅行したい。経済的な面では前の2カ国(注:カザフスタンとウズベキスタン)より劣っている感は否めないが、一般人がみんな優しい。言葉がわからないジャパニーズ2人を、どうにかして助けたいという思いが伝わってくる。自然も綺麗で、チャタルクルは本当に絶景。イシククル湖も良かった。物価も安いのでたくさん遊んでも大丈夫。

僕のFacebook 2014年9月9日の投稿より

中央アジア旅で得られた気づきは、この文章に尽きると思う。

海外初心者の僕が勇気と不安のはざまで選んだ中央アジアという地で、非日常を体感しながらたくさんの親切心により旅行を成し遂げたという経験が何よりも大きかった。言い換えると、中央アジアを選ぶ時の基準であった「もっと訳わからんところ行っても大丈夫じゃね?」という問いに対して

「うん、大丈夫。何とかなったしめっちゃ楽しかったわ。

と一発回答できたことが最大の収穫だったのである。

確立されつつある旅癖(たびへき)


冒頭の話に戻るが、旅行に対する興味関心は性癖のようなものだと思っている。誰もが一度は行ったことあるような王道観光地もあれば、そんなの誰も行かないでしょ、というようなマニアック(性癖チックに言えばアブノーマル)観光地もある。あなたの心が何に動かされるか(興奮するか)という違いである。

例えば「趣味は旅行です!」という話題でひと盛り上がりしたとしよう。

その瞬間は趣味が合った!という高揚感に包まれるかもしれない。だが、それが王道vsマニアの邂逅であった場合、地獄を見る可能性がある。綺麗な海が見えるインスタ映えリゾートホテル旅が好きな人に「ネパールの少数民族がアツくてですね」と真剣な眼差しで語りかけても響きそうにない。僕が中央アジア旅を高らかに宣言した時のように白い目を向けられるのがオチだ。恋人イチャイチャプレイが好きな人をムチでシバこうとするのと一緒なのだから。

一方でその癖ががっちり噛み合ったときはまるで旧知の友であるかのような高揚感を覚えるし、その癖と旅遍歴の話だけで一晩中語り尽くせるだろう。中央アジア旅でも、キルギスのとあるゲストハウスで出会った日本人の旅人たちとは初対面にも関わらず意気投合しまくって一晩中飲み明かし、その後日本に戻った後も何度か飲みにいくほど仲良くなった経験がある。

旧知の友

また、誤解の無いように付け加えると、この旅癖は行く国によって定義されないと考えている。例えば僕が選んだイギリス一つとっても、自然、歴史、サッカー、ロック、食事(そんな人がいるか知らないが)など、さまざまに楽しむ要素があるからだ。どこに行ったかではなく、何をしたくてその場所に行くかが重要である。僕含めてマイナーな国・場所に行くことに付加価値を見出す場合も多々あるが、すべての国を制覇したい、という願望含めて、興味関心を突き詰めた結果論でしかないと思う。

よくよく考えてみると、僕のイギリス→中央アジアという旅遍歴も国だけ見ると突拍子もない思い付きに見えるが、「未知のものを経験してみたい」というモチベーションは共通しており、旅癖としてそれなりに筋は通っているのだ。飛躍の仕方はどうかと思う部分もあるが、東京しか知らない僕と、イギリスを経験して海外というものにふわっと触れた僕が、その時々で無い知恵を絞って考えた結果である。

そういう意味では、海外2か国目で中央アジアに辿り着かなかった未来も十分にあり得、その場合僕の旅遍歴は大きく変わっていた可能性があると思う。また、興味関心がここまで膨らまず、円安と物価上昇のプレッシャーに負け旅を辞めていた未来だってあったかもしれない。今振り返っても思うが中央アジア行きを決めたのは間違いなく英断であり、その決定が旅行という趣味、ひいては人生において今の僕を形づくっていること間違いない。


当時の自分をこんな感じで褒めてあげたい

まとめと後編について


中央アジア旅までを振り返ると、僕は「未知との遭遇」に心が動かされているということが分かった。ただしこの時点では、どういうタイプの未知であればより心が動かされるかまでは明確になっていなかったように思う。そしてその旅癖は、中央アジア以降に訪れた国々によってよりはっきりと輪郭が浮かび上がることとなる。

長々と書いてしまったが、これはまだ前編である。後半は中央アジア以降に旅した場所を振り返りながら、その場所を選んだ動機と感想を振り返りつつ、それらを踏まえた現在の旅癖、つまりどういった場所であれば心動かされるかについて述べたいと思う。駄文を読ませてしまって非常に申し訳ないと思っているが、もう少しだけお付き合い願いたい。

※後編を書くモチベになりますので、いいねやら何やらで反応いただけると大変嬉しいです、、、







いいなと思ったら応援しよう!