「ただ、君に会いたい」#25【創作大賞2024・恋愛小説部門】
前話↓【#24】
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高校一年生を過ごした街。
戻ってきた。帰ってきた。記憶のままに流れる車窓の景色に、そんな所感が浮かぶ。
ここへ来たらまた会えるかもしれない。友達に、クラスメイトに。ひょっとしたら佐藤にも──
転校してから初めての夏、暑さでおかしくなった十六歳の頭はそんなことを考えた。
だが実行はしなかった。別れの挨拶なしに街から離れた俺を、誰が歓迎するという。だいたい、誰の顔もわかっていないくせに、誰に会いにゆくという。
来てはいけない。そう決心してからは、踏み入らないようにしていた街。
だけど、俺が戻るべき場所はここだった。帰ってくるべき原点はここだった。
毎年八月の最終土曜日、早坂神社の祭りはこの辺りの風物詩だという。
その早坂神社は、駅から徒歩で行ける距離にあった。
たった一年ではこの辺りの土地に詳しくなれず、アクセスをよく知らないままに来てしまったが、浴衣を着た人の流れが頼りになった。下駄の鳴る音に付いて歩くと、古びた鳥居に出迎えられる。
十年前、夏々花が言った通りの景色がそこにはあった。たこ焼き、ベビーカステラ、金魚すくいに射的。全国どこの夏祭りでも出店されているような、ありきたりな屋台ラインナップ。
もう子供心なんて擦り減ってしまったから、参道を歩いていてもそれらに高揚はしない。
しかしなぜだろう。熱の通ったソースの匂い。こんがり焼かれたイカの香ばしさ。卵と小麦粉が生地になって膨らむ香りに、どこかから漂うジュースの香料の甘ったるさ。
夕刻の風に乗ったそれらに、つんと鼻が痛んだ。
突き当たりの社殿まで出てくると、俺は物陰に立ち止まる。
すっきりとしたロック画面に気落ちしつつ、アプリを起動させる。
[早坂神社の祭り、一緒に行かない?]
一週間前、夏々花へ送ったメッセージには既読だけが静かについていた。
返事がなくても、それは当然の反応だといえた。会いたくないと俺が突き放したのだ。なのに今度は、会いたいと婉曲に呼びつけている。
多分、彼女は来ない。でもこの祭りが終わるまでは。一縷の望みをかけていたい。
ぼうっと突っ立っているのはしんどいから目を閉じる。
遠くの喧騒。どこかから聞こえてくる祭り囃子のBGM。笛と太鼓の明るい響き。
CDを準備して、流して、終わりゆく夏をせめて盛り上げようとしているのだ。
それはかえって、ひぐらしが鳴くより物悲しさを連れてきた。
夏祭りは楽しいものとばかり思っていたが、実際は切なかった。
だからみんな、誰かと来たがるんだろうか。誰かと一緒なら、寂しさも憂いも不安も分け合えるから、次の季節に進めるんだろうか。
俺にとってのその誰かは、夏々花がよかった。
しかしその望みは叶いそうにないまま、もうすぐ八月が、夏がめくれようと──
重たく、まぶたを開けた。電子音が着信を知らせたのだ。期待もせずに画面を確認する。
夢かと思った。
だが、現実だった。電話が鳴り続けている。ディスプレイには夏々花の名前。
『……慧?』
急いで通話開始ボタンを押した。第一声。
『聞こえてる?』
「あぁ……うん」
驚くあまりに返事を忘れた。
『元気?』
「元気だよ」
『ひさしぶり』
「ひさしぶり」
挨拶を交わして会話が一段落したところで、ふと疑問が湧く。
「……夏々花、今どこにいるの?」
通話口の奥が騒がしく、声が少し聞こえづらい。
「夏々花?」
どこに対する返答がなく、がやがやとした音だけ耳に注がれる。
『……慧に、会いに行っていい?』
躊躇いがちに言われた。
『地元の駅にいるの。早川神社に行こうと思って』
「……本当に?」
『本当。慧は今どこにいる?』
信じられなかった。長く焦がれるがゆえに、幻聴でも聞こえ始めたのかとさえ思った。
「神社の、境内」
『わかった』
夏々花の後ろに聞こえる音響信号の音が、この状況が現実であることを証明する。
『このまま繋いでていい?』
「いいよ」
『その間、喋っててもいい?』
夏々花が聞く。
『会っちゃったら思ってること言えなくなりそうで……これからはちゃんと伝えるから、今だけ電話で話したい』
「うん、いいよ」
少しの時間が流れたあと、夏々花が、
『最後に会った日。ごめんね。慧が出した結論なのに聞きたくなくて、すぐに跳ね除けようとした。慧が何かを考えてたことは、花火大会のときから何となく気づいてた。それが現実になっちゃったらどうしようって考えたら不安だった』
「……うん」
『十年かかってもまた会えたんだから、どんなことも乗り越えられるって信じてた。だから離れたくないって、慧に言った。でもね』
「うん?」
『私、慧に謝らないといけない』
心を整理する間のあと、夏々花が切り出す。『何日か前、急に雨が降ってきたでしょ?』
切実な声色のわけを、何となく察した。
『慧、コンビニで傘買ったよね。そのとき慧が出口で話した、その人ね』
「夏々花だった?」
俺が言うと、驚き混じりに夏々花は息を吸った。
『……私だって、気づいてたの?』
「ううん、わからなかった。あとになって、何となくそうだったのかもって」
夏々花は黙ってしまい、マイクは賑わう街の音だけを拾う。交通整理をする拡声器の声が聞こえる。もう近くまで来ているのかもしれない。
『あのとき、私は慧だって気づいて会話してた』「うん」
『でも、赤の他人のふりしてた』
「うん」
『何で怒らないの?』
「……何でだろうね」
客観的に考えれば、嘘をつかれた状況だ。しかしどうしてか責める気になれない。
『ずるいことしたんだよ? 私』
顔がわからない疾患であると、わかっていながら正体を隠していた。それはたしかに卑怯だが──
「ずるくてもいいよ。会いたい」
短く、だがこれ以上はない四文字。
出会えた春からの一年。再会したこの春から夏までの期間。日々を彩った希望。
街を離れてからの十年間。彼女と距離を取ったこの一ヶ月間。毎日から色を奪った絶望。
「会いたいんだ」
口にするほどに実感する。
その簡潔さは何だか説明足らずのようで、夏々花を早坂神社へ誘うメッセージには書けなかった。
しかし、この思いこそ全てだと言える。会いたい。
『……私もずっと』
夏々花が言い切らないのに、音が途切れた。
俺は名前を呼んだ。しかし反応はない。誤タップかと思い、耳からスマホを離して確認したが、通話時間は刻まれ続ける。
心配になって見上げた先、俺は息を飲んだ。『……慧』
声が聞こえた。俺の名前を呼ぶ声が。
端末から。もっと鮮明に、あと数歩のところから、聞こえた。
それは大したことのない日常の一幕。
でも、俺にとっては初めてだった。
声に、向けられる視線に、彼女が彼女であると確信が持てた。そんな経験は、人生で初めてだったのだ。
「私」
「……知ってる」
笑いながら、涙が出そうになった。
それから夏々花は通話を切り、俺がいる境内へと歩んでくる。一歩二歩、と間隔が詰まる。
話すには近すぎる距離まで夏々花は来て、「髪、伸びたね」
いきなり俺の頭上に手を伸ばした。何をされるのかと思って反射的にまぶたを閉じた。そんな俺の髪を、夏々花がくしゃくしゃと撫でる。
「私も美容師だ。最初に目がいくパーツは髪みたい」
かかとを落として元の背丈に戻った夏々花が、うんうんと首を縦に振る。
「今まで一ヶ月に一回は髪切りに来てくれてたのに、避けてたでしょ? わかるんだよ? 美容師って顧客のカルテ持ってるんだから。他の美容室に変えられてたら怒ろうって思ってたんだけど、こんな伸びてるなら許すよ」
安心安心、と面白半分に言う。
次は何を取り繕わせてしまうのか。
思った瞬間、夏々花のことを抱きしめていた
「……会いたくないなんて、言ってごめん」
埋まる俺の胸元で、用意した笑みが彼女から消えた気がした。
「ありのままの自分でいてほしかったんだ。俺が見つけやすい服装じゃなくて着たい服を、身につけたい色を、選んでほしかったんだ」
夏々花の肩元ではらりと毛先が流れる。その色は茶色。だが、身にまとった服の色はモノトーン。
髪色が茶でも黒でも、着るのがどんな服でも夏々花は夏々花だ。
だったら夏々花が好きだと思える自分であってほしい。そう思ってきたが──
「大事に想ってるつもりだったけど、肝心な夏々花の気持ちを無視してた。傷つけるくらいなら自分から離れたほうがよっぽどいいって、それが最善だって、勘違いもしてた。その行動自体が夏々花を傷つけてることだとも、気づく余裕がなかった。顔がわからないトラウマも、悲しさも、辛さも、全部夏々花に押し付けるようにして困らせたよね」
大事なのは顔ではなく内面。
俺こそ知っていただろう。そうして夏々花を好きになったのだ。
しかし俺は、顔がわかるわからないの観点だけに囚われ、いつしか心さえ見えなくなっていた。
「これも独りよがりかもしれないけど、夏々花の気持ちを知りたい」
両肩をそれぞれ持って夏々花を離し、目を合わせる。
向き合いたいのだ。今の彼女に。
夏々花は髪を耳にかけ、ゆっくりと話し始めた。
「……慧と再会したとき、最初はショックだった。相貌失認のこと知らなかったから、あぁ私のことなんて覚えてないよねって。同じクラスだったのも一年生のときだけだったし。自分の都合がいいように、記憶書き換えてたのかなって」
「……うん」
「でも慧は私が知ってる慧のままで、だからまた好きになった。……なった、じゃないな。好きなままだって、自覚した」
俺も同じだった。
「慧が慧のままだったからかな? 高校生のとき好きだったって聞いて嬉しくて、じゃあ私も昔のまま変わらないでいようって。髪を茶色くしたのも、その表れなんだと思う」
「髪色は……ただのきっかけだよ」
言うと、そうだよねと夏々花は頼りなく笑った。
「顔が認識できないのは仕方ないことだって、理解してる。一緒にいたら悲しませるって慧は言ったけど、私にとって慧と一緒にいることは悲しさじゃない。もし何か問題が起きても、悲しさとは違う」
それだけは……わかってほしい。夏々花はそう俺に伝え、視線を足元の影に落とした。
まだ、今なら間に合うだろうか。
「一緒にいたい」
夏々花が顔を上げた。
「あんなふうに遠ざけたのにごめん。でも……好きだよ」
夏々花の頬に手を添えた。その手に、夏々花は自分の手を重ねた。
「ごめんはいらない」
「……ごめん」
「あ!」
からかうように笑う、屈託ないその姿
たった今、気づいたことがある。
俺は夏々花のどんな顔も表情もわからないけれど、唯一笑顔だけはわかる。夏々花は声を出して大きな笑うから。
夏々花を引き寄せ、もう一度抱きしめた。
もう少しで、俺は彼女を失うところだった。それは 本当に怖いのは会ったときに顔がわからずに傷つけることではなく、会うことすら叶わないことだというのに──
背中に回した手に力を込めた。
もう放したくない。離れたくない。
「お祭りっていうけど、やっぱ縁日だよね。花火も上がらないし」
並ぶ屋台を横目に夏々花が苦笑する。せっかくだから屋台を見て帰ろうと、二人、参道をだらだら歩いている。
「子供のころは夏祭りっていったら早坂神社のお祭りだったけど、ひさしぶりに来てみたら……」
「来てみたら?」
「……小規模だなぁって」
小規模という声まで小さくて笑えた。
毎年八月の最終土曜日、早坂神社の祭りは、どこでも開催されているような、平凡な夏祭りだ。珍しい屋台もなければ、特設のイベントブースもない。だけど、
「俺はこの祭りに来たかったよ」
言うと、夏々花が俺を見上げた。
「夏々花と来たかった」
彼女の手を取った。
行きたいところはないのかと、いつかのデート中、夏々花に聞かれたことがあった。しかし、そのときの俺は思いつかなくて、冗談で誤魔化した。
だけどこの祭りこそ、俺が行きたい場所だった。
夏々花がいる場所が、俺がいたい場所だと、本心で思っているから。
【#26】↓