「ただ、君に会いたい」#20 【恋愛小説部門】
前話↓【#19】
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メイクの前に着替えを済ませる。ファンデやリップで服が汚れてしまうから。
ゆっくりしていたつもりはないけれど、いつの間にか出発の時間が迫っていて私は急いだ。
今日は、慧と展示会へ行く。有名な画家の展示会があるんだと話したら、一緒に行こうと言ってくれた。そのあとは街中を散策する予定だ。いいね、と慧も賛成してくれた。
机の上に置いてある透明の収納ケースを開ける。三段の造りになっているそれ。一番上の段にはネックレス類を入れているのだ。そこから細いチェーンのネックレスを取り出し、付けた。誕生日に慧がくれたものだ。
それからクローゼットを開ける。服装がまだ決まっていない。
休日が重なったデートだからって張り切るのは違うし、普段通りの組み合わせが無難か。白のTシャツ、インディゴのデニム──手に取ろうとして、直前でやめた。ボトムスはそのまま、白のTシャツを赤のブラウスに変更した。
慧とは駅で集合して、会場までは電車で向かった。館内はひんやりと涼しかった。冷房が効いているというのもあるし、来る人みんなが静かだから余計に。
慧が私に振り返ったのは、入口近くから展示を回っているときだ。
「ん? どうしたの?」
「いや……何か、見られてる気がして」
俺、と慧は自分を指さした。私は否定する。
「見てないよ?」
「じゃあ、気のせいか」
「私、ずっと絵見てたし。これすごいよね」
適当に近くの絵を指さすことで、私は慧の注意を逸らした。見て、と腕を引っ張る。
そして、こっそり慧を見上げる。
見てない、というのは嘘。さっきも今も、慧の姿を見つめては心でたずねていた。
──私といて、慧は楽しい?
今までそんな疑念を抱いたことなかったのに、最近はそう思わざるを得なかった。
隣にいても、その心は違うことを考えているようだったから。
ストロベリーか、それとも抹茶のフレーバーか。どっちにするか迷っていると、どっちも食べようと提案してくれた。俺もその二つで迷ってたんだ、と。
太陽の光に照らされながら、私たちは移動販売式のアイスクリーム店に並んでいる。展示会会場を出てからの道すがら、私が見つけ、目線で気にしていたのを慧が察してくれたのだった。
慧は優しい。私の意見を自分の意見だと言ってくれる。そして私が気を遣わないように配慮してくれる、そこまで含めて完璧に優しい。
完成したコーンカップ入りのアイスをそうっと受け取り、私たちはキッチンカーのそばにあった椅子に腰かける。
八月の日中は暑いというより熱い。あるいは痛い。
さっきの今もらったばかりだというのに、アイスの表面がすでに溶け始めているくらいだ。まるごと落下なんて悲劇が起きないように、小さいスプーンを遣って山肌を慎重に削っていく。抹茶の緑が、山の自然に見えないこともない。
「え、何?」
視線を感じてアイスから顔を上げると、慧が私を見ていた。それは、慈しむような表情で。
この顔をされると私は困ってしまう。前もそうだった。
「いや別に」
こういうときの慧は素っ気ない。いつかもそうだった。
「めちゃ集中してるなって思って」
「集中してたよ。溶けちゃうもん」
「ごめんって。あっ、こっちやばい」
私に見えない側でアイスが垂れかけていたらしい。慌ててスプーンですくった。
「美味しい?」
私がうなずくと、慧は切れ長の目をふっと緩めて笑みを浮かべた。
彼は人の顔がわからないという。偶然に独り言を聞いてしまったのだけれど、やはり私の顔もわからないという。だけど。
私は慧の恋人で、慧は私の恋人という事実。
たとえ慧が誰の顔も識別できないとしても、そのことを知らなかったころと変わらず、私は彼が好きだ。慧が私に向けてくれる想いというのも、十分に伝わっている。
顔がわかる、わからないなんて。
通じ合う想いを前にしては大した問題じゃない。
慧は綺麗な顔をしているけれど、私が惹かれたのはその外見ではなく内面だったように、大事なのは顔じゃない。そう思っているのに──
こうして微笑みかけれくれるうちは、このままの関係性でいられると。
慧の表情がいつも通りであることを、安心材料にしている自分がいる。
そうして知る。私の中で、あの日の花火が未だにくすぶり続けていること。
アイスを食べたあとは街中をぶらぶらと歩いた。北欧風の雑貨店や古着屋さんに立ち寄ったりして、ウィンドウショッピングでも楽しかった。
それから私たちは公園を散策する。都心の公園だったけれど中心にはボートで浮遊するほどの池があって敷地が広く、緑が多いので視覚的に涼しくなった。
脈絡ない質問が投げられたのは、陽を避けようと木陰を踏んで歩いているときだ。
「美容師って、髪の毛自分で切るの?」
「急にどうしたの?」
聞かれたことへの回答より先に、思わず笑いが出てしまう。何か気になって、と慧は言った。
「自分で切るのは無理だよ。難しすぎる。相当器用な人だったらできるかもしれないけど」
「そうなんだ」
「たいていの人は、働いてる店のスタッフに切ってもらってるよ」
「染めるのも?」
「うん。美容師同士で染め合うところが多いんじゃないかな」
「へぇ」
「うちのところはそうだよ。カラーリングの練習になるし」
そうなんだ、と返事。私は意外に思った。
お互いの仕事については再会したタイミングでさらりと話したことがあるけれど、こういうふうに裏話的なことを彼が聞きたがるのは珍しいことだった。
だけどそのあとも、慧は輪をかけて彼らしくない疑問を私にぶつけてくる。
「何で染めたの?」
「え?」
「髪の毛」
慧は隣を歩く私を見下ろした。
「この前まで黒かったのに」
どうしてそんなことを言うんだろう。少し不審に思いながら私は、
「それは気分だよ。前に言わなかったっけ? 何となく染めたくなったの」
前髪を整える仕草で髪に触れた。
「ずっと暗い髪色にしてたから、地毛くらいの色に戻したくなって」
今の私はワンカラ―で染めた、オリーブベージュの髪色。寺田くんにカラーを頼んだのは七月の暮れだったか。
通常のカラーリングだと、あと二週ほどで髪の根元が気になってくるだろうけれど、今回は黒染めの感覚で染めたので、順調にいけば色味の段差を気にせずにいられるだろうと思っている。
「地毛は嫌いって言ってなかった?」
「え?」
いつそんなこと? たずねる直前で思い当たる。
「もしかして、高校生のときのこと言ってる?」
うなずく彼に、私の中である種の感嘆が込み上げた。
「よく覚えてるね?」
髪に関する不満を慧にぶつけたのは高校一年生のとき、たった一度で、その一度というのもまだ関係値がゼロに等しいときのことだ。
「髪色が嫌だったのは、あのとき私が学生だったからだよ」
高校卒業後、髪色を春めかせる同級生に逆行するように私は髪を黒くした。かねてからの憧れだったのだ。
薬剤を塗り、シャンプーを流し、ブローをし、そうして鏡に映る自分と対面するとき。大げさじゃなく、生まれ変われたと思った。
髪が茶色くて、そのせいで人から妙な目で見られるのが自分だと思っていたけれど、そうじゃない。私の主体は髪じゃなくて自分自身で、私は私を変えられた。
長年髪色には悩んできたぶん、その喜びというのはひとしおだった。
だけど時間が経過し、何かのタイミングで地毛の色に髪を戻したときの呆気なさというのも同じくらいに覚えている。
それが本来であるべきだけれど、誰も私を変な目で見たりしない。街を歩けば私の地毛のトーンと同程度の人はざらにいて、美容専門学校に通っていたという環境でいうと、地毛の私は目立たない側の人間だった。
私は髪色が嫌いだったんじゃなく、私を周囲から浮かせる要素だった髪色を嫌っていたということ。大人になってから、ようやく気づいたのだった。
「今はもう何も思ってない。たしかに慧と出会ったころは自分の髪が嫌いだったけど、だんだん受け入れられたよ。慧が私の髪色好きって言ってくれたの、嬉しかったし」
「じゃあ、俺が好きって言ったから、髪茶色く戻したの?」
とんでもない角度からの球に頭を殴られた。「違う違う、私がしたいようにしてるだけ」
否定する声は笑いに震えた。
今のは人によっては自意識過剰に聞こえかねない発言だった。だけどそれを大真面目に言われるとおもしろかった。
「わかってないなぁ。私、付き合ってる人に合わせるタイプじゃないよ?」
「服も?」
うっかり立ち止まった。
そのとき慧はすでに立ち止まっていて、私は彼に振り返る。
そこにはいつも通りの穏やかな慧がいて、私の動揺は焦りへとすり替わっていく。
「最近服の系統変わったけど、それって自分がそうしたくて?」
「……そうだよ」
どうしてか、返事の前に半角スペースくらいの間ができた。
そんな私に対し、慧は全角スペースほどの時間を置いて再び口を開く。
「それ本当?」
私は答えられなくて、
「俺が人の顔わかってないからじゃなくて?」
慧に嫌なことを言わせてしまう。
「一緒に出かけたとき、俺が夏々花のこと判断できるようにじゃなくて?」
濃紺のデニムに合わせた、赤のブラウス。
だんまりを決め込んでいても、この身なりが私の思考を物語っていた。
今日のデートの準備をするとき、昨夏のいつかに着たようなモノトーンコーデを組みかけたけれど、袖を通す直前で変更していた。そのとき頭によぎったのは慧の姿だ。
「ごめん、嫌だった?」
言い訳をしても事態はややこしくなるばかりだ。そう思ってすぐさま謝ったけれど、慧は私を見つめ返すばかりで心情はわからなかった。
「でも私は、慧のこと色眼鏡かけて見てるわけじゃなくて──」
「わかってる」
遮られた。
「わかってる。夏々花はいつだって、俺に対する態度変えないでいてくれるよね」
確かめるように、慧はうんうんと小さく首を縦に振った。
「そういうところも好きだよ。でも、俺に対して変わらないでいてくれる代わりに、夏々花は自分を変えちゃってる」
ぱちぱちと私は瞬く。
「俺が夏々花を変えさせちゃってる」
理解に苦しみ、眉間にしわが寄る。
「私、何も変わってないよ?」
「変わったよ」
「変わってない」
断言してみせた。
私が変わるなんてありえない。むしろ、慧こそ変わってしまうのではないかと、私は恐れていたのだ。
「高校生のときも今も、私は慧のことが好きなまま」
「俺もそう」
「だったら、それでいいじゃん」
何が不都合なのかわからなくて笑えてきた。
「相貌失認のこと、慧から聞いたときはびっくりしたけど、でもそれが何って今は思って──」「それは」
反射的に肩が跳ねた。慧が大きな声を出した。「夏々花が理解してくれるなら関係ないだろうって、俺も思ってた。そう思ってたかった」
「思ってたかったって、何? 過去形?」
「顔がわからないのは日常だった。でも今は怖い」
「怖い?」
「自分は悲しくなくても、顔がわかってないせいで夏々花を悲しませたり、迷惑かけたり」
「そんなの──」
「俺、夏々花に駆けつけられなかった」
花火大会の日。 慧は補足したけれど、わざわざ言われなくたってわかっていた。いずれは身をもって体験するだろう、こんな展開の訪れも。「夏々花の前では笑ってたけど、あの日から、俺はずっと考えてたよ」
顔がわからないせいで体調不良に気づけなかったんじゃないかとか、倒れているところを目を前にしても、それが私だと確信が持てなかったとか、慧は悲痛に色々と訴えた。
「俺じゃなかったらすぐに夏々花のところに行けただろうし──」
「やめてよ」
今度は私が声を張った。
「今さらそんなこと言って、私に……」
──どうしろって言うの?
音にする寸前のところで、言葉をぐっと飲み込んだ。
ここで私が怒れば、最後になってしまう。
言葉に詰まるのか、それとも私に思うことがありすぎて躊躇するのか、慧は口の端に力を込めていた。
砂時計で測ったみたいにじりじりと時間は過ぎていき、やがて慧は私に告げる。
「しばらく会うのやめよう」
私が頼りにしていた優しい表情のまま、立ち去ろうとするから、慌てて私は慧の手首を掴んだ。
「私はわかるから!」
すがる思いで続けた。
「慧はわからないかもしれないけど……私は慧の顔がわかってる」
嫌な言い方してごめん。勢いで出てしまった失礼な発言を謝った。
「気づいてもらえなくてもいいから、私が気づくから」
「そんなの無理させることになる」
「無理なんかじゃない」
「最初はよくても、きっと嫌になる」
「ならない」
「そう思ってても、みんな、うんざりするんだよ。俺に関わった周りの人みんな。表面上は気遣ってくれてたけど、内心イラついてるんだろうなって、わかってたし」
「みんなみんなって、その人たちと私は違う。全部わかってて付き合ってるんだから。ただ会いたいだけなの」
「……俺は、今、夏々花に会うのが辛い」
言葉が怯えて引っ込んだ。
「自分の気持ちが整理できてなくて、どう夏々花に接したらいいのかわからない。今日だって、こんなふうに喧嘩したいわけじゃなかったのに、夏々花のこと怒らせてる。だからしばらくは──」
「しばらくって、いつまで?」
その問いかけに対する返事はなく、無言で首を横に振られてしまう。
懇願しても懇願しても、壁打ちしているみたいに全て却下された。
「好きだけじゃだめなの?」
これを否定されたら、最後にしようか。そう思って、たずねた。
私の希望が自分の意見だと言ってくれる、そんな彼が導いた結論を──
「……だめだよ」
「どうして?」
「いつかは、うまくいかなくなるから」
最後にする。
「……そっか。わかった」
私は慧から手を離した。
「しばらく会うのやめよう」
それだけ言って、背を向けた。来た道を一人で歩いて帰る。
笑顔とまではいかなかったけれど、気丈に振る舞えたからよかった。泣きそうになるのを我慢できたから──
心の中に潜んでいた、もう一人の冷静な自分が私を嗤い、そして慧に言う。
表情なんて、何の参考にもならない。
花火大会の夜から今日まで。慧は穏やかな表情で、私は鈍感なふりで、お互いに、感じていた終焉を隠していた。 手を取って始まった恋が、手を離すことで終わっていく。
言葉を奪う形になったけれど。かっこ悪い去り際だったけれど。
終止符は自分が打ったという事実が、かろうじて私を慰めていた。
【#21】↓