「ただ、君に会いたい」#22【恋愛小説部門】
前話↓【#21】
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慧と距離を置いたと伝えても、紗月は何も動じなかった。詮索もしなければ、中途半端に励まそうともしなかった。ただ唯一、
「ごめん夏々花、よそいすぎたわ」
カウンターに置かれるチャーハンがいつもの二割増し。
「何だこれ。米粒潰れてんじゃねぇか」
お椀形に盛られた黄金色を南雲は笑った。
「手が滑った」
「嘘つけよ」
──黙れ!
くっきり二重をがっと見開いて紗月は南雲を制圧した。目が口ほどに物を……いや、口以上に物を言っていた。
でも南雲は空気が読める人だ。
「いっぱい食って元気出せってことだろ?」
南雲も、紗月の態度を私と同じように解釈していたと知る。
「それにしても米多かったけど」
「あれは漫画の量だった」
「よく食ったな?」
「ちょっと今やばいかも」
ウエストがきつくなったジーンズで、私は駅までの道を南雲と歩いている。
「なぁ、瀬名と喧嘩してんの?」
それは昨晩のテレビの話題をするみたいな、切り出し方だった。びっくりして見上げると、前を向いたまま南雲は、やっぱり、と呟いた。
「あ、俺知ってるんだよ。瀬名から聞いた。お前ら付き合ってるよな」
「……」
「無言はやめてくれ。気まずいから」
沈黙に南雲は笑い声をもたらした。
「喧嘩してるって、何で知ってるの?」
「あぁ、それは。この前、瀬名を飲みに誘って、そっからやり取り続いてたんだよ。今日、俺が田村の店入ったらお前が先にいただろ? だから『今、田村の店に佐藤いるけど、来る?』ってメッセージ送ったんだよ。でも『いや、いい』って」
「そうなんだ」
苦い気持ちになった。
「飲み誘ったときも気乗りしてなさそうで結局おじゃんになったし、喧嘩してるのかって聞いたらそんなところだと」
慧はこれを喧嘩となぞらえたのか。果たしてこれは喧嘩だろうか。少し違う気がするけれど、当てはまる例えもわからない。
考えていると、南雲がしみじみ言う。
「似た者同士なのに喧嘩するんだな」
「え?」
「逆か、似た者同士だから喧嘩するのか」
「いや、私と慧は似てないって」
は? と南雲が私を凝視する。
「似てるよ」
「どこがよ」
指を折って南雲は数えだす。
「インドア派、メールの返信速い、どっちも歳の離れた弟妹がいる」
「それだけじゃん」
笑った。
「慎重な性格で気を遣いがち。一見、物腰柔らかそうに見える。でも繊細って自己分析できてるぶん、傷つかないように殻が厚い」
笑えなかった。
「南雲は観察眼があるね」
「偉そうだったらすまない」
そういうわけじゃないよ、とフォローする。
次の言葉を発するには、時間がかかってしまった。だけどその間、南雲は決して急かそうとはしなかった。
「最近の私はずっとぼうっとしてる」
「うん」
「それは慧のことで思うことがあるからなんだけど、もっとこう、根本的な原因は何なんだろうって考えてた」
「うん」
「高校生のとき、初めは慧のこと遠い存在に感じてたんだけど、話せば話すほど気さくな人だってわかってさ」
「あいつはいい奴だよ」
「本当そう。悩みも聞いてくれたし、美容師になりたいって夢打ち明けたら、私ならなれるよって励ましてくれた」
「うん」
「だからさ、何か……鞄落としちゃった気分」
「鞄?」
「貴重品が入った鞄無くした、みたいな。友達も相談相手も、ほしい言葉をくれる人も彼氏も、全部一気に失いかけてるから」
「……それは辛いな」
慧は一人しかいないのに、私におけるあらゆる必要の、そのどれもに慧がいた。今さら気づいているところだ。遅すぎる。
「南雲のおかげでよくわかったよ。慧と私は意外と似てるんだね。だから一緒にいて心地よかったんだ」
「かもな」
「でも、似た者同士はうまくいかないって言うよね」
皮肉が口をついて出た。これが南雲が言う、殻、なんだろうか。
「俺はそう思わない」
「……ありがとう、慰めてくれて」
「慰めじゃない」
南雲を見上げて、私はぱちぱちと瞬いた。 「さっき自分でも言ってたよな? 瀬名はほしい言葉をくれたって。それは逆も然りにもなり得るのに」
「逆?」
「似た者同士はしてほしいことも似てるんじゃないのか? だったらここは、佐藤が一枚上手に出たらどうだ」
「……できないよ、そんなの」
私が言うと、何でだよ、と南雲は目を細めた。
「過去問あるみたいなもんなのに」
南雲は真っ直ぐ前を向いて歩く。その横顔は昔から変わらずに、よく言えば寡黙、悪く言えば無愛想だ。
でも知っている。口数が多くないのは、言葉をよく選別した上で話すから。一番適した解だけを渡してくれるから。
「頑張れよ」
南雲と別れて家に帰り、リビングのソファに座る。スマホを手に取り、
開いたのはメッセージアプリ。
助走をつけるように文字を打ち始め、そのまま文末まで駆け足で書ききってから、ふと足踏みをする。全体を読んだのち、後ずさるように一文字ずつ消していく。書いては消し、消しては書く。数分間に何度繰り返しただろう。
一枚上手に出たらどうだ。過去問あるみたいなもんだろう。
南雲にはそう叱咤されたけれど、いざ伝えるとなると、そもそも一言目が思いつかなかった。まるで知らない言語に直面したみたいだった。
サイドボタンで画面を閉じ、スマホを放り出し、ソファにだらんと寝転んだ。
そのとき──どうしてか。自分でもよくわからないけど、どうしてか、正面のテレビ台が目に入った。
のそりと腰を上げて近づく。収納してあるカゴを引っ張って、しまってあったフォトアルバムを取り出した。
そしてぱらぱらとめくっていき、目的のページで手を止める。高校一年生のクラス写真。
以前探した際に自室へ持って帰ろうとしたのだけど、お母さんにやっかみを言われたせいで、すっかり忘れてしまっていたのだった。
「早く入っちゃいなさいね」
噂をすれば影。お母さんがキッチンとリビングの境にいた。
首にはバスタオルが引っ掛けられていて、お風呂を済ませたらしい。うん、と返事をする。
「何か探してるの?」
「え?」
それ、とお母さんはフォトアルバムを顎で指した。水を口に含んでいるから喋れないらしい。ごくりと飲み込んだあと、
「前もアルバム出して見てたじゃない。探し物?」
「あ、ううん。何も」
これはやばそう。危険を察知した私は、透明のポケットから写真をこっそり一枚抜き取った。
「あんなに写真嫌がってたのにね」
レーダーが予測した通り。お母さんは言い、片付けをする私の手は止まる。
「昔からずっと。写真は撮られるのも見るのも嫌っていうから本当、お父さんもお母さんも困ってたのよ?」
「ごめんって」
「せっかく記録に残してあげようとしてたのに、あんたったら……」
言い淀む語尾のニュアンスに、息が詰まった。
あぁ、今日も。今日もお母さんは、私をわかってくれていない。
いつものことではあるけれど──
「それは」
声を上げた。
お母さんが私を見たのが、背中でわかった。「写真が嫌だったのは、自分の髪が嫌いだったからだよ」
アルバムを床に置いて立ち上がり、振り返ると、きょとんとした顔のお母さんと目が合った。
あぁ、やっぱり。お母さんは何もわかってない。
それは私が、抱える不満を口にできた経験がないから。
「髪色くらいでって思うでしょ? でも私は嫌だった。私はお母さんと、全然違うから」
無意識なのか、お母さんの口角が引きつる。イの形に薄く開いた唇から、いらだちを鎮めるようにお母さんは息を吐き、それから言う。
「あからさまにそんな言い方しなくたって──」
「違うって、何も悪い意味じゃないよ? 単純に違う、ってだけで、別に」
言葉が継げず、間を繋ぐように唾を飲み込むと喉が痛かった。
「お母さんは気にしてなかったのかもしれないけど、この髪色は、私にとっては悩みだった」
「悩み?」
「一番の悩み。小学生、ううん、もっと前からかもしれない」
「そんなに悩んでたなら、言ってくれたらよかったじゃない。お母さん、夏々花から悩んでるなんて──」
「言ったよ。私、言った。ちゃんと言った」
食い気味に反論する声は、こらえる涙に震えた。患いを理解してほしいと願う幼いころからの自分が、やっとそれを伝えられた二十五歳の自分が、心の中で泣いている。
「学校生活で困ったことあったら何でも相談してねって言うから、髪の色が──って相談したけど、お母さんはまともに取り合ってくれなかった」
気にしたら負けよ。別に悪いことしてないんだから堂々としてればいいのに、何を悩むことがあるの。言われたのは、あくまで一般論。
お母さんもそのやりとり自体は思い出したみたいだ。しかし、その解釈は私と異なるものだった。
「夏々花が受け取り方変える以外に、どんな方法があるっていうのよ」
「そうかもしれないけど」
「それに、そのときお母さん言わなかったっけ? 大人になったら自由なんだから、そのうち気にしないでよくなるわよって」
お母さんが私の髪を一瞥する。
「実際、今は髪色なんて気にしてないんでしょう? 自分から茶髪にしてるじゃない。悩んでたのも、時間の問題だったのよ」
「違う」
「じゃあ何?」
「話を聞いてくれた人がいた。高校生のとき」
手の中の写真に目を落とす。これは高一の体育祭。一緒に撮ってくれないかと、慧に頼んだ写真。
「話をちゃんと聞いてくれて、勇気をくれた。自信をくれた」
それは高校時代の慧のこと。
「今も、その人のおかげでお母さんに本音が言えてる」
それは大人になって再会したの慧のこと。
人が抱える痛みは見えない。その代わりに言葉がある。慧が教えてくれたのだ。
「……思ってることを言い出しにくい環境は、お母さんが作ったのかな」
しばらくの沈黙のあと、お母さんがぽつりとこぼした。
「夏々花はしっかりしてるから、お母さんが手を貸さなくても大丈夫って、どこか安心してんだと思う」
「……そんなことは、なかったよ」
そうだね、お母さんが言う。
「あのころの夏々花にどう寄り添えばよかったか、今考えても正解がわからない。だけど、話聞くくらいはできたね」
ごめん、と言われ、私は少し困ってしまう。お母さんが、謝ることへのプライドを崩せる人だとは、思っていなかった。
「そんなつもりはないんどけど、育て方も、穂乃花に比べると夏々花には厳しかったかもしれない。この前もそう」
「この前?」
「三人でお昼食べに行ったとき。帰りの車で、穂乃花が永井先生の話をしたじゃない?」
「うん」
「あのとき穂乃花のこと注意してくれたのは夏々花だったけど、本当はお母さんが叱るべきだった」
「別に……いいよ。あのときお母さんが怒ってたとして、私もイライラしてたから、どちらにせよ穂乃花には口挟んでただろうし」
腑に落ちなかった点は、言い争いはやめなさいという言葉の対象に私も含まれていたこと。一言注意したあとにバックミラーを通じてお母さんが私を見たこと。
だから、別にいいよは本心だったのだけど、
「夏々花には、そんな役割させちゃいけなかった」
「私が穂乃花に注意するの、珍しくないじゃん」「だって、いるんでしょう?」
「いるって?」
「永井先生みたいに、わざとじゃなく相手に気づけない人。夏々花の周りにも」
えっと声が出た。
「やっぱりそうなのね」
「何でそう思ったの?」
「言い方でわかった。その人のことが大事で、悪口言われたくないんだろうなって言い方だったから」
お母さんは人の気持ちに鈍感な人なんだと、私はラベルを貼っていたけれど、それは違ったのかもしれない。そう思うと、申し訳なさが募っていく。
夏々花。名前を呼ばれ、私は視線のピントを上げた。
「何も思ったりしないから、お母さん」
「……うん、ありがとう」
「今はあんなだけど、穂乃花もいつかは視野を広げられるはず」
私はうなずいて応じた。
階段を上って二階の自室へ戻る。ドアノブに手をかけると、ちょうどそのタイミングで、隣の部屋から穂乃花が顔を覗かせた。
「どうしたの?」
穂乃花が後ろ手でドアを閉める。
「ごめん」
「何が?」
「お姉ちゃんの知り合いのこと、遠回しに悪く言って……」
穂乃花はTシャツの裾をくしゃくしゃと握り、カンペを見るみたいに、フローリングに向かって俯いてしまう。お母さんとの会話が聞こえていたのだろう。
「もう気にしてないよ。あのときは私も、きつく言ってごめんね」
表情を柔らかくして言ったけれど、穂乃花は唇を噛んだまま私を見つめ、
「もしその人に会うことがあっても、穂乃花、何も思わないから!」
曖昧な返事を残し、私は部屋へ入る。背中で押してドアを閉めると、そのまま体をずずずと滑らせ、座り込んだ。
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