「ただ、君に会いたい」#23【恋愛小説部門】
前話↓【#22】
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あの日の公園から日が浅ければ。あれこれと悩むこともなくメッセージの一つくらい、たやすく紙飛行機に乗せて送れただろうか。
南雲からアドバイスをもらって数日。お母さんと和解して数日。
いまだテキストボックスは空欄のままだ。
仕事からの帰り道。空に向かって顎先を上げた。自然とため息がこぼれた。
届け先はよく知った相手のスマホの中。メッセージを送るなんて難しいことじゃないのに。
何てことのないこんな夜に紛れて、夏は静かに幕を降ろそうとしているのに。
蒸し暑さにうだる心地で歩いていると、数メートル先の横断歩道で信号が点滅し始める。間に合うように走り始めたけれど、間に合わずに足止めを食らった。
ついていない。もう一度ついたため息が車道の走行音に紛れる。
──と、頬に点状の刺激を感じた。
その冷たさを手で拭う。指先が濡れる。
雨マークなんてあったっけ? 天気予報は思い出せなかったけれど、アスファルトの色が降水確率百パーセントであることを教えてくれた。
雨は瞬く間に本格的になり、歩道の信号が青に灯ると、たまらず私は走り出す。
今日も傘を持っていない。前にもこんなことがあって、前は慧も一緒だった。いきなり雨の中に飛び込む突拍子のなさに、あのときの私はびっくりした。もしかして変わり者? とも思った。
店舗看板の光に寄せられるみたいにしてコンビニの軒下に入ると、全力で走った足が痛かった。呼吸を整える。涙袋の筋肉を使いながら空模様を確認する。ありったけ高く掲げたシャワーみたいに注がれる雨。スマホを出してニュースアプリで一時間ごとの天気を調べた。これなら三時間にわたって雨は止まないらしい。
私は記憶通りにビニール傘コーナーへ進んだ。慧はいくらでビニール傘を買っていたっけ。
──平気。駅から家、近いし。
あの日、傘を返したがった私に慧はそう言い通した。だけど、付き合ってから訪れた慧の家は駅からしばらく歩いたところにあった。
あの夜、時計の短針が右回転するにつれて雨は大きな足音を立てたというのに……。
慧は優しい。昔から変わらない。自分が損をするような嘘さえつける。
でも、慧は優しくない。くれた優しさはなかなか記憶から消えてくれないから優しくない。九年前は急にいなくなるし、九年後は何でもない顔の裏で関係を見直していたから優しくない。
ずらりと円形に引っ掛けて売られる傘を前に、慧への不満が募った。
そんな私のそばに誰かが立ち止まり、傘を一本持ち上げた。ここへ来た目的を思い出し、私もプラスチック製の持ち手に手を伸ばす。そして唖然とする。
それは隣で傘を選ぶ人が、くるりとその体の向きを変えた瞬間。
手の中で、傘がするりと抜けそうになった。息を忘れた。心が呼んだ。
私が一番会いたい人の名前。
早くなる脈拍がポンプのように色々な疑問を押し出しては、代わりに確信を持たせていく。
全ての行動が停止する私のそばを、慧が通り過ぎていなくなる。
しばらく立ち尽くしたのち、地面からバウンドさせたボールのように私は慌てて動き出した。
私がレジカウンターへ抜けたとき、慧は今にも自動ドアをくぐろうとしていた。
支払いを済ませて傘を受け取り、出口を飛び出す。視界の悪い前方に目を細め、右、左とアングルを切り替える。
いた。
傘を揺すってほどきながら、雨空を見上げる慧がそこにいた。
堂々巡りの感情と、偶然にも会えた喜びが入れ替わっては、私を埋め尽くしていく。
慧が優しくても、優しくなくても、もうどうだっていい。
胸を震わせる私の視線が拾われる。追いかけたその人がこちらを向いたのだ。
やっぱり慧だった。間違いなかった。
雨音の中に、私はふさわしい一言目を探す。少しの距離を開けてそばにいる慧は──
会釈した。他人行儀な会釈を、私に。
「急に降ってきましたよね」
雨、と困ったように笑う。眉尻を下げるそれは、何気に好きだった表情。
「困りますよね」
整えた調子で言う。よそ行きの少し高い声。
目線を天から戻した慧はポケットからスマホを取り出した。画面に目を落とす、その横顔を私は見つめる。
「夜中も降り続くみたいです」
スマホを光らせたのは天気予報を確認するためだったらしい。
「明日は晴れるらしいんですけど」
画面を指でスクロールさせながら、慧は言った。
唇が動いたのは、無意識のことだった。
「……じゃあ明日は」
顔の向きだけで慧は私を見た。目が合う。
私は下を向いた。アスファルトのくぼみにできた小さな水たまり。コンビニの照明がその水面に当たり、降る雨によって魚の鱗のように反射している。
ぼんやり見ながら、慧に告げる。
「明日は、空が綺麗ですね」
間違いだったと、言った瞬間に気づいた。
声が雨音に消されたことを願った。しかし間に合っていなかった。
慧はずっと視線を構えたままでいたんだろう。私がおそるおそる顔を上げると、収まるようにまた目が合った。
すると、その黒目が微細に動く。それから慧はふっと息を抜くようにして笑った。
「あー……、すみません」
私というより、地面に垂直に立てた自分のビニール傘に話しかけているみたいだった。持ち手を握る甲を見つめて、慧は呟いた。
「前に似たような会話したことがあったから、ちょっとびっくりしちゃって」
本当に気づいていないのだと悟る。その会話相手が今ここにいることを、慧は一つも──
「ごめんなさい」
慧は困惑したことだろう。
謝罪を押し付けるようにして、私が雨の中へ飛び出したから。
ワンタッチ式の傘で雨を遮る。六十センチの透明で、罪悪感に歪む顔を隠す。
最低だ、私。
見知らぬ人のふりをした。
つっかえることもなく出た敬語が、私を最低な人間に仕上げた。
慧が人の顔を認識できないこと。名乗らなければ、それまでのどんな関係値も彼にとってはゼロ同然なこと。知っているのに。
──好きだけじゃだめなの?
最後に会った日、私は駄々をこねる子どものように慧へたずねた。
何にも私はわかっていなかった。
だめなのは、真正面から慧に向き合えやしない私が、慧を好きでいることだった。
もう会えない。合わせる顔がない。
買ったばかりの新品だけど、この傘は壊れている。
傘は雨水を防ぐための道具なのに、視界が不良だ。
頬が生暖かく濡れる。表面に穴でも空いているのだろうか。水分が止まらずに顎まで流れ、大きな水滴になって滴る。コンビニの敷地を出て誰も周りにいないことを確認すると、嗚咽が漏れた。
手遅れな状況になってようやく、自分の本心を知る。
私は、私のままで慧に会いたかった。
【#24】↓