「ただ、君に会いたい」#21【恋愛小説部門】
前話_【#20】
https://note.com/royal_serval8408/n/nd52c2459f0d0
第四章
1
気づけば声は、湿った風に乗っていた。
俺の鼓膜が震えたときにはもう遅く、本心として夏々花の元へ届いてしまう。「しばらく会うのやめよう」と。
わかっていた。抱える不安を伝えれば、崩壊を招くひびが入ってしまうこと。
ちゃんと、わかっていたのに。
夏々花が一人で帰っていく。その後ろ姿を一人、俺は呆然として見送る。
それから何とか気力を振り絞って駅へ歩いていると、メガネにスーツ姿の男がどこからか現れた。あの、と、いきなりパーソナルスペースに割り込んできたのだった。急にお声かけてすみません、言いながら名刺を差し出される。
「私、スカウトの者でして」
その男は俺がシカトをしてもお構い無しに、着いてきては横並びに歩き続けた。
「お兄さんかっこいいので声かけさせてもらったんですけど、何か芸能活動ってされてますか?」
「……」
「もし芸能の仕事に興味あったりしたら──」「結構です」
想定より、断る声が強くなった。俺の横柄さに、男の口が止まる。
失礼します、とだけ残し、足早に俺は立ち去る。
恥ずかしくなった。今のは見苦しすぎた。
でも、もううんざりなのだ。
昔から、外見ばかりが持て囃された。
かっこいい。イケメンだね。整ってる。
それらは褒め言葉として投げられたけれど、一ミリも嬉しくなかった。
転入したてのころはちやほやとされた。みんなが話しかけてくれた。でも俺が面白くない人間と知ったら、みんな離れていった。
──正直さ、正直よ? 見た目よかったらメリットだらけっしょ?
──美人は三千万得する、だっけ? 女の話だけど。
──街歩いてて、視線感じたりする?
大学生のころ、ゼミ仲間に冗談で言われたことがある。
そのときの俺は笑ってその場を凌いだ。辛かった。
まさか言えるわけなかったけれど、俺にとって、この容姿は邪魔ですらあった。
周りが褒めてくれた外見ほど、中身が伴っていないから。
本当の俺は弱い。優柔不断なのだ。
戻れるなら、さっきの全てをなかったことにしたい──ほんの数分前の発言を悔いている。
「兄ちゃんからもらったやつ、よく使ってるよ」
ありがとね。言いながら、駿はコーヒーメーカーの上部を擦った。
俺は仕事、向こうは大学生活にバイトとそれぞれ忙しく、弟の駿が暮らすアパートを訪れたのは八月中旬が初めてだった。俺が高校卒業後に実家を出たため、駿が自分の意志を持って生活する様子は想像つかなかったのだが、部屋を見る限りはちゃんと成立しているようで、ひとまず安心した。
せっかくだから飲んで帰ってよ。駿が言うから、俺はコーヒーの抽出を待っている。
「そうだ、前から聞きたかったんだけど」
「何?」
「付き合ってる人いるよね」
当たり? と聞かれ、疑問が浮かんだ。
「何でそう思うの?」
「このコーヒーメーカーくれるとき、紙袋に入れて持ってきてくれたじゃん? そこの雑貨屋って、女の子に人気の店なんだよね」
じゃん、と駿はキッチンの戸棚から紙袋を取り出す。それは確かに俺が渡したもの。
「そんなの捨てとけって。何で持ってるんだよ」
「もったいないじゃんか」
「はぁ」
「つるつるした素材の紙袋は家宝だって、お母さんが言ってた」
そんなことよりさ、と間髪挟まずに駿が言う。「別に隠さなくていいんじゃん?」
「隠す?」
「言ってくれたらお祝いくらいしたのに!」
「別に、隠してるわけじゃなかったよ」
意図があるのではなく、言える状況にないのだ。しかしそんなことを知るわけない駿はにこにこと、
「何か俺が嬉しいな」
「どうして?」
「んー? うちって親が仕事で忙しかったから、料理も掃除も、家のこと全部兄ちゃんがしてくれてたでしょ?」
「駿も手伝ってくれてたでしょ」
「そうだけど、基本的には兄ちゃんが負担してたよ」
駿は戸棚からマグカップを二つ取り出した。「覚えてる? 俺がお母さんのお気に入りの食器割っちゃったときのこと」
「覚えてない」
「嘘だね」
わかりやすいわ、と笑われた。
「俺が手伝いしたときに手滑らせて皿をバラバラに割っちゃったのに、母ちゃんには俺が割ったって言って、兄ちゃんは自分を悪者にしたんだ」「……そうだったっけ」
「そうだよ。手伝いした俺が怒られないように」
嘘、本当は覚えている。あれは駿が幼稚園のときだった。
「いつだって優しすぎるんだって、兄ちゃんは。自分は遠慮して一歩下がって見てるだけだったり、譲ったり、手を伸ばさずに何かを諦めたりしてる」
「そんなことない」
「そんなことあんの。兄ちゃんは優しい。そういう性格なんだよ。地でそれだから、自覚ないんだって」
。
「もっと自分本位に生きたらいいのにって思うけど、性格ってなかなか変えらんないじゃん? だから、兄ちゃんに似て優しくて、いい人がそばにいてくれたらって」
「何それ」
駿は真剣だが、俺には笑えた。
「兄ちゃんが無意識に落としちゃうものを、その人がさりげなく拾って渡してくれたらなって、俺は思ってたよ」
それだけ言って駿はすっと顔を背け、機械から保温ポットを外した。
相貌失認について夏々花に告白したのは、駿への引っ越し祝いを買った日のこと。
自分の深い部分を打ち明けたことで、夏々花の人となりをさらに知る。俺が顔を覚えられないと知っても、そばにいてくれた。
思えば、関係が進展するきっかけはあの日だったが──
「慧って料理上手なんだね」
「いや、撮るようなものじゃないから」
適当に作った冷しゃぶサラダにスマホカメラを構えたから、恥ずかしくなった。
苦笑して俺はテーブル前に座り、夏々花も九十度向かい合わせに座った。
いただきますと揃って手を合わせたのは花火大会から数日が経った日、俺の家でくつろいでいるときのこと。
「見てこれ」
食べ始めてから少し経ったとき、夏々花がスマホの画面を俺に見せた。
「展示会?」
「有名な画家の個展なんだけど一緒に行きたいなって」
「俺と?」
「うん。……あ、嫌なら、いいよ。無理しないで」
「ううん、行こう」
「よかった、ありがとう」
そう言って笑ったあと、それとね、と夏々花は息継ぎなしに続けた。
「ここのカフェも気になってて、そうだ、ここのイタリアンも有名らしくて、一緒に行こう」
夏々花はスクリーンショットの写真を次々にスライドした。
「行こうか」
「本当?」
「うん」
嬉しい、と言葉のままに夏々花は嬉しがった。それから再び箸を持って、俺の料理が美味いと言ってくれた。
無邪気な姿に俺は微笑みを返したが、自分の中に何とも言えない感情が広がるのを感じていた。それは、後ろめたさに似た心のくすみ。
行きたい場所を普段からリストアップしていて、すぐ見せられるように写真に保存して、そこへ行きたい相手が俺であること。
夏々花が描く日々に俺が存在することを、恋人である俺は喜ぶべきなのに。
そう遠くない将来を約束づけようとする態度。
そほ言動に蔓延るのが不安であろうこと。
しんどい、と思ってしまった。
人の嘘を見抜けるのは、自分もまた嘘つきであるからだろうか。
美術館の展示を巡ったとき。俺のことを見てないと言った夏々花が、俺の背中に何かを思っていたこと。俺には明らかだった。
実をいうと俺も、夏々花にわからないようにして、絵に見入るその横顔を盗み見ていた。
そのとき、どういう原理か脳内で再生される。
──あっメイク変えた? 目にキラキラ付いてる。
──キラキラじゃなくてグリッターね。
──似合ってる。
──うるさい。
先日の花火大会の待ち合わせの際、偶然耳にしたカップルのやりとり。
うるさいと口では言いながら、彼女の態度には嬉しさが見え隠れしていた。俺がわかるくらいだ。幸せ、という顔をしていたんだろう。
俺は、夏々花をそんな表情にできない。
些細な変化に気づけない。似合っているとか、かわいいとか、喜ばせる言葉を使えない。
特別に好きなのに、恋人なのに。
夏々花の姿はそこらへんですれ違う程度の、一切の感情が向かない他人と同じ容貌に見えてしまう。
気づける変化といったら、せいぜい服装くらいだった。
夏々花が赤い服を、派手な一色の服を着ているところを、初めて見た。
顔がわからないぶん、関わる相手を観察する癖がついているからわかる。恋人のことだから敏感にわかってしまう。
夏々花は変わった。おそらく、花火大会のあの日を起点として。
「付き合って、ほんで別れたって?」
「別れてはない」
「でもうまいこといってないんだろ?」
第三者に整理されると、ぐうの音も出なかった。日高はため息をついた。
「いつも俺にまとめて報告しすぎな?」
前も同じような会話したぞ、と指摘される。日高と会ったのは数ヶ月ぶりで、そういえば以前もこの居酒屋で近況報告をしたか。
「お前から距離置きたい、つったのに何でそんな落ち込んでんだよ」
しゃあねえなぁ、と日高は俺の皿に塩キャベツをよそった。出来ていく小さい丘を見つめながら俺は呟く。
「……考えれば考えるほど、よくわからなくて」
「よくわからない?」
「俺が言ったことは自己中心的すぎたし、でもどうしたら傷つけずに済んだんだろうって」
ぼりぼりと音を立ててキャベツを咀嚼しながら、日高は考える様子を見せた。
「どうしたって佐藤は傷つくだろうな」
「何で」
「だって好きな奴に拒否されてんだぜ?」
拒否。改めて言われると最悪の響きだが、俺が夏々花にとった態度はつまり、そういうことだった。
「とはいえ、好きな奴を拒否する側も傷つくわな」
「え?」
「お前が根っからの自己中心的な人間だったら相手のことなんか一つも考えないで、平気な顔して佐藤のそばにいるだろうよ」
でもそうじゃなかった、と日高は箸先で空中をつつき、俺を指した。
「これ初めて言うけど、高二になってしばらく経ったころ、佐藤が俺んとこに来たんよ」
俺もびっくりした、と日高が言う。
「同じクラスだったけど、全く交流がなかったからな。でも佐藤が俺に聞いてきたのは、瀬名がどこにいるかって内容で、あぁなるほどねって思った」
「……そうだったんだ」
「んで、お前とひさしぶりに会ったときだよ。佐藤が今何してるのかそれとなく聞いてきただろ?」
日高と数年ぶりに会った日は、酒を頼んだためにあまり記憶がない。
でも、そうだったかもしれない。転校してからも、大学に入ってからも、社会人になってからも。
跡形残さずいなくなったのは自分なくせに、俺は佐藤のことを、何だかんだで忘れられないでいたから。
「あんとき……俺がむしゃくしゃしたわ! 何をお前らすれ違ってんのって。コントかよって」
日高はおちゃらけて言ったが、
「お前らにはうまくいってほしい、俺は」
次の瞬間に真剣なトーンになる。
「俺もそう思ってるよ」
「お前は当事者、他人事みたいに言うな」
笑い混じりに言い合ったあと、
「うまくいきたいって思ってるけど」
「けど?」
俺は黙り込む。この胸にあるもどかしさは、簡単に一言で例えられやしない。
「お互いに納得できるような答えが出てきたらいいんだけど、そうならないから俺は困って──」
「何かが変わるの待ってんの?」
日高が割り込んで入った。
「だったらやめとけ。受け身はろくなことしかねぇんだって」
近くで注文がかかったのか、接客用の甲高い声を上げ、早足でテーブル横を通る店員。カチャカチャと食器類の音。突沸するようなどこかの笑い声。
そんな中、俺と日高は牽制するみたいにお互いを見つめ合った。先に折れたのは俺だ。
「……怖いんだ」
「怖いって?」
「変装したりしない限り、顔ってずっと出てるでしょ?」
「おん」
「顔って一番の個人情報で、結構な感情の手がかりなんだよ。知らず知らずのうちに、みんな頼りにしてるよ」
ポテトサラダの中から玉ねぎだけを器用に取り除きながら、日高は小さく一度首をかしげたが、間髪入れずにコクコクとうなずいた。ここで引っかかると話が進まない、そう思ったのだろう。「でも俺はわからないから……。毎日の瞬間、瞬間で困る場面に出くわす」
「ほんで?」
「俺が困るとき、相手のことは困らせてるのかもしれない。夏々花は俺がこんなんだって知ってるから、気も遣わせててさ。可哀想だなって」
これが自分なりに整理した考えだった。しかし日高は、玉ねぎ抜きのポテサラをもにょもにょと噛みながら俺を一蹴する。
「死ぬのか? それで」
面食らってしまう。
「お前も佐藤も、別に死なないよな?」
いつの間にか、俺の悩みは死ぬこと以外かすり傷理論で解決されようとしている。なんと荒っぽい。
だが軌道修正する気力もなく、俺も乗っかってしまう。
「そうだよ、死なない。悩んでも生きてる。でも俺が言いたいのは、その間にどれだけ……」
「生きてるんだから、早くどうにかしろよ」
日高は早く帰りたがっているのかと思った。「しばらく会いたくないって、言い出したのは俺なのにそれはないよ」
「あのなぁ……」
日高がイラついたように箸を置いた。雑な手先だったから、箸の片割れが皿から転がり落ちる。
俺はそれを拾ってやろうとした。しかし日高はすばやく箸をつまみ、俺の行動を阻んだ。
話を聞けと、言外に言われる。
「ぐちぐち悩んでる時間だけ、お前は佐藤のこと考えてるってわけ。そんだけ言いたいことがあるなら、そう思った瞬間に伝えとけって」
日高がここまで真剣になるのを、俺は初めて見た。
「言葉には鮮度がある。くすぶって、自分の中で腐らせるな」
目の前で俺を鼓舞するのは高校時代の友人だ。数年を隔てて向かい合っている。
それはひとえに日高のおかげであり、俺には勇気がなく──
今まで俺は、希薄な人間関係しか築いてこなかった。
環境がすぐ変わるために、 顔が覚えられないために、長期的な関係を築いても意味がないと。築いたところでその姿は覚えられないから呆気ないと、そう思い込んでいたが──
誰かに誠実でありたいと思うなら、まず向き合うべきは自分自身だ。
そのとき、きっと気づくだろう。いかに自分がムラだらけであるか。あらゆる矛盾にも気づくだろう。
夏々花に会いたくないと言った。でも夏々花にだけは嫌われたくない。そう思う気持ちすら大きな矛盾なのだ。
【#22】