おまけ・メタ世界線問題(ミュージカル「SIX」)
〈 LIVEを演じているミュージカル?〉
本作品は、一見すると、キャストさんたちが、生き返った6人の役になり切って、LIVEをやっているというミュージカルに思えます(そのため、観客は、ミュージカルを見に来たのだけれど、作品序盤から、ミュージカルの観客であると同時に、LIVEの観客になる、という体験をするわけです)。
作品の世界の中では、生き返った6人がLIVEをやる、というわけですね。
しかし、実は、作品の世界の中では、あの6人は、生き返った上で、それぞれの役として、LIVEツアーを模したミュージカル(ミュージカルの中の架空のLIVE)を演じているのではないかと思うのです。
というのも、こんなシーンがあります。
6人の「I Don’t Need Your Love」のremix前のやり取りの中で、自分たちがヘンリー8世の妻だから知られていることを自覚し、行き詰まってしまうシーンの後。
6人は口々に
「こんなことになると分かっていたら、『競争するフリをして、みんなにいかに比べるのが無意味か伝えた』のに」
「『何かかっこいい方法で、私たち自身の物語を取り戻して、そうしたらみんながリードボーカルになれた』のに」
などと、たられば話として、『 』内のことを語ります。
しかし、この『 』内のことって、まさに、SIXというミュージカルで、この場面までに実現してきたことでは?
ここまで見てきた観客は、競争が飽くまでフリにすぎないこと(ミュージカルですから、実際にLIVEをやっているとは誰も思っていませんよね)は分かっていますし、6人を比べるのがいかに無意味かということにも、ここまでの展開で(Catherine Parrがトラウマと虐待を比べる虚しさを口にしていました)、もう十分分かっています。
また、ここまで、6人は、それぞれの口で自分の歴史を語り、みんながリードボーカルになって、輝きを放ってきました。
つまり、『 』内のことは、あたかも実現できなかったことのように語られますが、実際には、この場面までに実現されています。
そして、先ほどのセリフの後に、
「あらかじめ分かっていればねぇ…」
というAnna of Clevesのセリフがあり、6人が一斉に意味深にニヤリと笑ってremixが始まります。
…これって、6人は「あらかじめ行き詰まると分かっていた」からこそ、remixができるのでは?
…そして、ここまでの展開が、「競争のフリをして、比べるのが無意味だと伝える」、「かっこいい方法で、皆が自分の歴史を語り、リードボーカルになる」というものに既になっていたのは、とっくに比べるのが無意味だと気付いており、比べずにみんながリードボーカルになれる筋書きの下で、ここまで進めてきたからでは?
つまり、6人は、作品世界の中で、LIVEをやり、それに伴って本当に行き詰まってジタバタしているわけではなく、作品世界の中でも、あらかじめ書かれた台本に沿って、自分の役になって、架空のLIVEをやるというミュージカルを演じている、ということなのでは?と思うのです。
改めて、①現実世界と②台本に描かれた、作品世界、③さらにその作品世界で演じられる、作品内作品の世界とを区別しながら説明すると、
①現実世界の観客である私たちが見ているのは、
①キャストさんが6人の役を演じているミュージカルです。
しかし、その作品世界は、
❷6人がLIVEをやっているという作品世界ではなく、
②「6人がそれぞれ自分の役になって、ミュージカルを演じる」
というものであり、そこで演じられているミュージカル(作品内作品の世界)は、
③6人がLIVEをやり、行き詰まってジタバタするというストーリー
ということなのでは?と思うのです。
こう考えると、本作品中のKatherine HowardやAnne Boleynの講釈めいた長ゼリフも、台本を覚えただけ、と見れば、整合的に思えます(もちろん私は6人たちは知的なので講釈の内容も当然理解していると思っていますが!)。
皆さん役者…!と思ってしまいます。
〈誰が台本を書いたのか?〉
そうすると、誰がこのミュージカルの台本を書いたのでしょうか?
もちろん、実際に台本を書いたのは、Toby MarlowとLucy Mossです。
これは先ほどの区別で言えば、①の現実世界で、キャストさんたちに渡されている台本を書いた人です。
しかし、②作品世界で演じられている③LIVEをして、行き詰まってジタバタするというミュージカルにも、②作品世界の中で台本を書いた人がいるはず(現実世界から見ると、そういう設定があるはず)です。
私は、①実際に台本を書いた2人は、②作品世界の中で台本を書いた人はCatherine Parrだという設定にしているのではないかと思っています。
そもそも、イギリスで初めて女性として書籍を発表したCatherine Parrは、ミュージカルの台本を書いた人物として、うってつけです。
しかも、前回書いたように、「SIX」で、彼女は、他の5人の歌を集めて6人でアルバムを作ったと言っており、それらの曲を基に、ミュージカルの台本を書いたとして不自然さはありません。
また、これは後付けの話になりますが、原作者のToby Marlowは、キャストが複数病欠したときにSIXに代役として出演したことがあり、その時の役は「Catherine Parr」だったとのこと!
複数のキャストから①現実世界で台本を書いた人が選んだのは、②作品世界の中でも台本を書いた人の役なのでは?と、偶然以上の意味合い(原作者が隠した意味合い)を読み込んでしまいたくなります。
〈6人は生き続けている?!〉
この解釈(妄想)に夢があるなと思うのは、②作品世界の中では、生き返った6人が幸せに生き続けているのを感じられる、ということです。
単に、キャストが生き返った6人を演じた、とだけ考えると、その6人は、現実には悲惨な思いをし、SIXで歌われた別の人生というのは、ただの空想に過ぎないことになります。
しかし、②作品世界の中で、生き返った6人が③Catherine Parrが書いたミュージカルを上演していたと考えると、(飽くまで作品世界の中で、ではありますが)6人が、楽曲「SIX」で歌われた、別の人生を生きているという救いを感じられます(実際に、「今は⚪︎⚪︎してる(now)」という歌詞が繰り返されていますよね)。
②作品世界の中で、Catherine Parrが台本を書き上げ、みんなで集まって練習し、あーでもないこーでもないと意見を出し合い、ミュージカルを上演して、その後も、楽屋で反省会とかしたりしてね…などと考えると、救われる思いがします。
そして、こう考えると、最後のカーテンコールは、6人が③作品世界の中のミュージカルの役を離れて、②作品世界の中で、ありのままの6人として、挨拶しているように見えてくるのです。
なんか俄然、品格を感じてしまう…。
カーテンコール後にAnne Boleynが舞台上で写真を撮るのも、まだ彼女はキャストさんではなく、作品世界の中のAnne Boleynだから(①現実世界から見ると、正確にはまだキャストさんはAnne Boleynを演じ続けている)と考えると、なんだか納得してしまいます。
また、日本版キャストの鈴木愛理さんが2025年1月に来場するファンの方に向けて
「"愛理"は最後までステージにいませんので!
『ハワード』って呼んでね」
というメッセージを発したようなのですが(伝聞ですみません)、このメッセージも、「最後まで」が「カーテンコールの時も」と考えると、辻褄が合うような気がしてしまうのです。
(もしかすると、別の趣旨の”お決まり”なのかもしれず、それでしたらファンの方に怒られてしまいそうですが、妄想ですのでお許しください)
この世界線の6人は、世界中で、このミュージカルが上演され続ける限り、様々なキャストの姿を借りて生き続けます。
これもまた、現実世界で亡くなった6人への祈りの形の一つ。
私は、これからもこの世界線の6人を応援していこうと思います。
2025.1.31
日本で日本キャスト版のミュージカル「SIX」が上演される日に