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映画評|『PERFECT DAYS』 畳の上に布団を敷いて寝る男の物語

 これは畳の上に布団を敷いて寝る男の物語である。トイレ掃除の仕事をしている口数の少ない勤勉な男の物語とも言える。読書と野草の盆栽が趣味の男の物語であり、哲学者のカントのようにストイックに日々のルーティンを守る男の物語であり、毎朝アパートの扉を開けて空を見上げて(晴れの日も雨の日も)微笑む男の物語である。

 誤解を恐れずに言えば、男なら誰しも、このような生活をしたいという願望をどこかに持っているはずだ。つまり、古いアパートに住んで、畳の上で布団を敷いて寝るような生活のことだ。行きつけの飲み屋で夕飯を食べ、銭湯に通う。洗濯はコインランドリー。古本屋で一冊100円の文庫本を買う。音楽はカセットテープ。几帳面に掃除をしているおかげで、部屋は清潔だ。言葉を変えれば、(意識高い系ではない)ミニマリストの生活なのだ。

 役所広司が演じる主人公の過去はわからない。なぜどのような経緯でトイレ掃除をするようになったのか。なぜ古いアパートに住んで、畳の上で布団を敷いて寝ているのか。なぜ公園の木洩れ日に異常なまでの執着をもっているのか。とても口数が少ないので、感情が読み取れず、もしかしたらこれは「ヤバい」男の物語ではないかと思う。

 ある意味で「ヤバい」男なのだろう。得体の知れない男が、自分だけにわかる「PERFECT DAYS」を送っているように見える。物語は半分を過ぎても、とりたてて何も起こらない。このまま終わってしまうのではないかと不安に駆られるころ、ある出来事が起こる。でもそれは、森の奥の静かな湖水の表面に広がる小さな波紋のようなものにすぎない。そして私たちは、満々と黒い水を湛える、その湖水の深さに思いを巡らせることになる。

 過去を封印するために、人間は笑顔になる。ある特定の人にとって、過去はやっかいなものだ。ではなぜ、そうまでして生きていなかければならないのか? 朝がくれば目がさめる。起き上がって布団を畳む。歯を磨いて、身支度をして、玄関のドアを開ける。日々のルーティンは、やっかいな過去と向きあって正気を保つための唯一の方法なのかもしれない。だからなのだろう、役所広司の表情は、穏やかでありながら、正気と狂気のあいだを行き来しているように見える。印象に残るエンディングショットが、その象徴だ。

 これまでヴィム・ヴェンダースの映画を見続けてきたが、東京を舞台にした映画はもちろん初めてだ。身近な風景が、ヴィム・ヴェンダースによって切り取られることで、彼がどのような視点で映画をつくってきたのかが、なんとなく理解できるような気がした。小料理屋のママとして登場する石川さゆりが、森の奥でひっそり咲いている牡丹の花のようで美しい。

 第76回カンヌ国際映画祭・主演男優賞(役所広司)

(2023年 日本・ドイツ映画 監督:ヴィム・ヴェンダース U-NEXTで視聴可能)

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