千年ババア
入口の崩れかけた木戸をくぐると、正面に母屋が見える。
母屋の周囲をぐるりと取り囲むように背の高い雑草が生い茂っていて、まるで来るものを拒んでいるようだ。
肩のあたりにまで届きそうな草を手で押し分けながら、カズヒコは今くぐった木戸の方を振り返る。
「おい、早く来いよ」
見ればユウタは「やっぱりやめようよぉ」と、木戸の前で泣きべそをかいている。
ふうっと鼻から大きく息を吐くと、「いいから行くぞ!」とカズヒコは引き返し、ユウタの腕を引っ張った。
前々からみんなの間で話題になっていた。10分休みも昼休みも、放課後の帰り道でも。
『誰が最初にあの家を探検するか』
みんな口には出さないけれど、その機会をうかがっていた。
「『千年ババア』なんていないよ、絶対」
恐る恐る草を押し分けながらユウタが言うと「何でそんなこと分かるんだよ」とカズヒコは口を尖らせた。
「人間の身体はそんなに長く生きるように出来てないって」
「誰が言ったんだよ」
「兄ちゃん」ユウタの答えにカズヒコは「けっ」と顔をしかめた。
半年前の真冬の夜、「UFOに会わせてやる」と言うユウタの兄ちゃんに連れられ、公民館の駐車場に延々と2時間以上、三人で立ち続けた。
夜空に両手を広げて「ベントラー、ベントラー、聞こえたらここに来てください。ベントラー、ベントラー……」
寒くて何度もくしゃみが出て、しまいには雪がちらつき始めた。
結局UFOは現れず軽トラが現れ、運転する庭木屋のおじさんが「お前ら、何時と思ってんだ!」とゲンコツの後に家に戻された。風邪も引いた。
「すぐそこまで来てたけど、雪が降りだしたから引き返したみたいだな」
まるでUFOと電話で話したようにけろりと言うユウタの兄ちゃんが、カズヒコは嫌いだった。
「お前の兄ちゃんの言うことなんてアテになるかよ」カズヒコは言い、目の前の玄関の引き戸に手をかけた。鍵がかかってるかとも思ったが、所々でぎしぎしと引っ掛かりながらも引き戸はするすると開いた。
室内は薄暗く埃っぽい。おまけに何だか饐えた臭いが鼻に飛び込んできて、カズヒコは少し怖気づいた。
それでも、玄関の先に見える廊下や壁は、汚れれてはいるが床板が抜けたり壁が剥がれたりしていることもなく、雨戸をあけてきちんと掃除すれば、普通に住めるようにも見える。
「カッちゃん、もう帰ろうよぉ」
「うるさいなぁ。そんな怖がりだから、ユウタは太ってるんだよ」
「僕が怖がりなのと太ってるのに因果関係はないよ」ユウタが頬を膨らませボソボソと言う。
「なんだよ……インガカンケーって。ファミコンか?」
「兄ちゃんが言ってた。よく分からないときに使う言葉だって」
「またかよ」カズヒコは顔をしかめると、「行くぞ」とユウタを引っ張り沓脱で靴を脱いだ。
「お邪魔しまぁす」と二人で声をそろえる。
玄関の脇、二階への階段の先は薄暗く、今にも『千年ババア』が階段を駆け下りてきそうな雰囲気が漂っている。
両目をギョロリと見開いて、頬骨辺りまで裂けた口で「見ぃたぁなぁ」と叫びながら追いかけられる場面を想像し、カズヒコはごくりと唾を飲み込んだ。
ぎしぎしと不穏な音を立てる階段を上りきると、雨戸が閉めきられた短い廊下の脇に襖が並んでいる。手前の襖を開けると、畳が敷かれたこじんまりとした部屋には、小さな箪笥と鏡台が置かれていた。
「カッちゃん、あれ。写真だよ」カズヒコのシャツの端っこをしっかりと握って、消え入りそうな声でユウタが言った。
ユウタの指差した箪笥の上には写真立てが置かれていて、近づいて見てみると、白黒の写真には兵隊の格好をした若い男の人が写っている。
「この家の人かなあ……」
「もう帰ろうよぉ」
ガタッと音がして、二人は襖の方を振り返った。
「正太郎、ここかい?」
襖から顔を覗かせた白髪頭の老婆に、「ぎゃあ」とも「うわぁ」ともつかない奇声を上げて、カズヒコとユウタは部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。階段の途中でどたどたとユウタが尻もちをつき「嫌だあぁ」と泣き声を上げ、「ばかっ! 急げ」とカズヒコが手を引っ張る。
沓脱に脱いだ靴を手に、二人は近所の公園まで裸足で走った。
ハアハアと息を吐きながら公園の砂場に飛び込むように転がると、真夏の太陽がじりじりと身体を射してくる。いつもなら鬱陶しいぐらいの日差しが、『千年ババア』から助かったことの証明のように思えて、カズヒコは大きく深呼吸をする。しばらく呼吸を整えてから、「あし……足、あったか?」カズヒコはユウタの顔を見た。
「な、何が?」
「足だよ! 足。オバケだったら足ないだろ!」
カズヒコの剣幕に「分かんないよ……そんなの。足がなくっても幽霊じゃなくても、妖怪だよ、『千年ババア』だよ!」とユウタは泣きべそをかいた。
ひとしきりユウタが泣き終えるとカズヒコは頭を搔き、「もういいよ、キャンデー買いに行こう」と立ち上がり、ユウタに手を差し出した。
「キャンデー! 行こう、行こう」
いつもの駄菓子屋できな粉棒を当て、意気揚々とアイスキャンデーを大事に舐めているとユウタが青白い顔で「……どうしよう」と言った。
「シール、落としてきちゃった」
「シールって、何のだよ」
ユウタは今にも泣きだしそうに、顔をくしゃくしゃにして「高島名人の連射シールだよ! あれを手に貼ったら18連射出来るんだよ」と言うと、溶けて落ちそうなアイスキャンディーを慌てて咥えた。
カズヒコたちがいつも読んでいるファミコン雑誌の懸賞で、何日か前に「高島名人の連射シールが当たった!」とユウタが見せびらかしていたやつだ。
『これを貼れば、今日からキミも名人だ』
家にファミコンがなく、専らユウタの家でしかファミコンが出来ないカズヒコも、羨望のまなざしを向けていたあのシール。
「なんでそんなの持ってくるんだよ!」
「だって……」
「どこで落としたんだよ!」
「多分……あそこ」
一時間前に逃げ出したその家は特に変わった様子もなく、崩れかけた木戸をくぐると雑草がさっきと変わらず生い茂っている。
玄関の引き戸を前に、カズヒコはごくりと唾を飲み込んだ。シャツの端っこを掴むユウタはもう泣きべそをかいていて「行くぞ」とカズヒコは振り返らずに言った。
恐る恐る引き戸を引くと「ひっ」とカズヒコは声を上げた。
玄関の上がり框にさっきの老婆が静かに座っている。
「あ、あ、あ」と声にならない声を上げて動けない二人に、老婆は「ああ、いらっしゃい」とにっこり笑った。
少し陰った夏の陽射しが、夕方の準備を始めだしている。幽霊でも妖怪でもなかった老婆は、にこにことその空を眺めていた。
「ばあちゃんは、誰か待ってるの?」
草が伸びきった縁側に三人並んで座ると、カズヒコは老婆に尋ねた。
老婆はこの家に今も住んでいるのだと言い、カズヒコとユウタが『千年ババア』の話をすると愉快そうに笑った。
「正太郎がね、帰ってくるから」
「その人は、いつ帰ってくるの?」
「もうすぐね。だから、おやつ用意しないと」
「ふうん」カズヒコは相槌をうちながら、おやつと言うぐらいだから自分たちと同じぐらいの子がこの家にもいるんだろう、とぼんやり考え腰かけた縁側から家の中をきょろきょろと見まわした。
縁側の障子の影から、口許に人差し指を当て「しぃっ」と合図を送ってくるお兄さんを見つけたのはその時だった。
びくっと身体を強張らせながら、カズヒコがお兄さんの顔を見つめていると、お兄さんは手招きをしてくる。小声でユウタに「おい」と声をかけお兄さんの方を指し示すと、ユウタは「うわぁ」と声を上げそうになり、カズヒコは慌ててその口を塞いだ。
「ばあちゃん、正太郎が家の近くまで来てるよ。迎えに行こう」
お兄さんに言われたとおり老婆を家の外まで連れ出すと、通りの向こうにいた何人かの大人が「ああ!」とか「いたわよぉ」とか騒いでいるのが見える。
駆け寄ってきた大人たちに抱きかかえられるようにして老婆は車に乗せられ「大丈夫か」「よかったぁ」と口々に言われながら去っていった。
ばあちゃんを乗せた車が遠くに見えなくなると「ありがとうね」とお兄さんが頭を下げてきた。
カズヒコは不思議な気持ちで、「ばあちゃん、どこに連れていかれたの?」とお兄さんに尋ねる。
「おばあさんは病気でね、あんまり今のことが分からなくなってるんだ」お兄さんが悲しそうに笑った。
「ボク、知ってるよ。老人ボケっていうんだ」ユウタが自慢げに言い、「なんだよ、それ」とカズヒコが口を尖らせる。
「おばあさんはきっと、昔々の時間の中にいるのかもしれないね」
「むかしむかし……?」言いながら、日本昔ばなしをカズヒコは思い浮かべている。
「ずうっと待ってたんだ。一人ぼっちで、この家で。帰ってくるはずのない息子さんが帰ってくるのを」
「なんで、帰ってこないの?」
「……学校で習ったかな、戦争って」
「ボク、知ってるよ。第二次世界大戦だよね」
お兄さんは頷くとゆっくりと優しく話してくれる。
おばあさんの息子は戦争で亡くなってしまったこと、病気になったおばあさんが山の向こうの老人ホームに入ったこと、時々ホームをぬけ出して、この家まで来てしまうこと。
「さあ、僕ももう行かなくちゃ」
お兄さんはカズヒコとユウタの頭を撫でると「ありがとう。僕一人じゃ、どうしようもなかった」とにっこり笑った。
背を向けたお兄さんに「お兄さん」とカズヒコが声をかける。
「これ、ばあちゃんに」
小さなビニール袋に入れられた二本のきな粉棒を、カズヒコは差し出した。
「ばあちゃん、『おやつ用意しなきゃ』って言ってたから」
驚いたような表情をしたお兄さんは、一瞬泣きそうに顔を歪め、すぐににこやかにほほ笑んだ。
「ありがとう」とお兄さんが袋を受け取ると、カズヒコとユウタは「じゃあバイバイ」と歩き出した。
カズヒコが振り向くと、お兄さんの姿はもうどこにもなく「なあ、あのお兄さん、多分、すげえ足が速いぞ」とユウタに言った。
「あ、本当だ。いないね」
「ここ、けっこう先までいかないと曲がり道ないからな」
「やっぱり、よっぽどきな粉棒、気になったんだよ」
「そうかな」
「だってあんな美味しいもの、他にないもん」
「まあ……そうだよな」
夏の夕焼けを浴びて、二人は無事に見つけたシールを眺めながら歩いた。
「もうやめようよぉ……」
校庭の鉄棒の脇にしゃがみ込み、ユウタが今にも泣きそうな声を上げる。
「なんだよ、お前悔しくないのかよ。カマキリにあんなこと言われて」
今日の体育の時間、組体操の練習でピラミッドの一番下だったユウタが「も、もう無理だよぉ」と二段目が乗ったところで早々に力尽き、担任の岩切先生から「こら、ユウタ。お前、そんなブクブク太ってるんだからピラミッドぐらいシャンとやれ!」と怒られた。
「だって……本当のことだし」
「お前がブクブク太ってるのは本当だけど、ピラミッドの一番下が出来るかどうかはインガカンケーないだろ」
「カッちゃあん……」ユウタは嬉しそうに声を上げたが、カズヒコは気にせず用務員室から拝借したスコップを手に黙々と穴を掘った。
カマキリには、カズヒコもことあるごとにゲンコツをされたり、物差しで頭をぺしぺしとやられていたから良い機会だ。
たかだか宿題を忘れたり、友達を泣かしたり、女子のカバンに蛙を入れたぐらいであんな目にあわせるカマキリに、痛い目を見せてやる。
「でも……」ボソボソとユウタが何事かを言ってくる。
「なんだよ、もっとおっきい声で言えよ」
「だから、『人を呪わば穴二つ』なんだって」
「なんだよ、それ……落とし穴、二ついるってことか?」
「多分、そうだと思う」
「面倒くせえなあ。一つ作るのだって結構大変なんだぞ」
「一個だけじゃ失敗するぞ、っていう意味だと思うけど……」
「誰が言ったんだよ、そんなの」
「兄ちゃん」
「けっ」カズヒコはスコップで再び穴を掘り始めた。「お前も手伝えよ!」と振り返ると、ユウタが尻ポケットから大事そうに何かを取り出して、カズヒコの腕に触ってくる。何か貼り付けられたようで、カズヒコは怪訝な表情で腕を覗きこんだ。
「なんだよ」
「18連射シール」
「ファミコンじゃねえぞ」
「でも、多分、手の動きが速くなるはずだって」
「誰が言ったんだよ、そんなの」
「高島名人」
「……ふぅん」
午後の太陽がじりじりと照りつける。
夏休みが明けてもまだまだ昼間は暑くって、もう少し夏休みは長くするべきだと思いながら、カズヒコは穴を掘り続けた。
この数分後、用務員さんと連れ立って背後に立つであろう岩切先生の事など、知る由もなく。