エビフライ
『お父……さん』
『……まだ、俺の事、お父さんって呼んでくれるのか?』
『どこに行っても、どんな風になっても、私にとってのお父さんは……お父さんだけだよ』
『な、夏美……』
くっ、と声が漏れそうになり押し殺すが、滲んでくる涙と鼻水は抑えようがない。
良いドラマだ。実に良い。親子の絆とはかくありたいものだ。
この役者もしばらく見なかったが、こんな自然で哀愁漂う芝居をするようになったとは。人間、歳を重ねるというのも悪い事ばかりではない。
「なにこのドラマ。ちょっとヤバくない? 」
「あの親父の演技、クッセェな。昭和みてえ、知らんけど」
背後から聞こえる若いカップルの声に、思わず睨みつけるように振り返ると、「なに? オジさん」とピンク色の髪をした男がニヤニヤと笑った。見れば女の方は両耳と唇に所狭しとピアスを付けていて、さながら歩くピアス展示場の様相だ。知らんけど。
「おい、オッサン。なんだって聞いてるじゃん」ピンク髪が口を尖らせ、隣のピアス展示場が、そうだそうだと言うように箸を振りながら笑っている。こういう手合いは苦手だ。苦手というよりは怖いというのが正しいのだろうが。
「……すいません、勘弁してください」
振り返ったまま深々と頭を下げ、身体を戻す。
「おい、ちょっと――」まだ何か言いたげなピンク髪の方に若い店主がすたすたと歩み寄り、何事かを呟いている。
「あぁ、もういいよ。はいはい」投げやりにピンク髪が声をあげ「ごちそうさん、まずかったよ」と乱暴に椅子を引き、店を出ていった。
レジではピアス展示場が「はあ? 現金のみって、江戸時代かよ」と文句を言っている。
確かに江戸時代は現金払いが主流だろうと聞きながら思ったが、店主は顔色一つ変えず「警察、呼びましょうか?」とあしらった。
ちらちらとその様子を横目で眺めながら、最後まで残していたエビフライをよく嚙みもせずに味噌汁で流し込むと、尻ポケットの財布から小銭を数える。札入れの部分に折り畳んで入れた一万円札が目に入り、銀行に行かなければいけないことを思い出した。
「ごちそうさまでした……あの、すみませんでした。さっきの」
「あぁ」店主は今思い出したというように口をぽかりと開け、「別に。慣れてますから」と言い残すと、カウンターの食器をかちゃかちゃと片付け始めた。
小さく頭を下げ食堂の引き戸を引いた。
昔に比べると銀行に来る人も少ないのか、たいして待つこともなく振り込みを終えると、車のエンジンをかけた。待ち構えていたように会社員二人組が「運転手さん、良いですか?」と手を挙げてくる。それなりの距離が稼げそうで幸先が良い。「どうぞ!」と笑顔で応え、後部席のドアを開けた。
二人組は書類やタブレットのようなものを見ながら、よくわからない横文字を織り交ぜて熱心に話し込んでいる。ついに車を降りるまで、こちらには一言も声をかけてこなかった。
気楽に仕事ができると思い、逃げるように会社を辞めて、タクシー運転手を選んだ。煩わしい人間関係やら、夢の中でまで苦しめられるような営業ノルマ、憐れむような視線や恫喝のような小言に悩まされない仕事であれば何でも良かった。
二人組の会社員を降ろして以降、客足はさっぱりだった。幸先が良い、などと思ったところで一寸先は闇だ。
夜が来てもほとんど客は捕まらず、目についた公園の横に停車して、座席のリクライニング倒すと目を閉じた。うとうととまどろみ始めた頃、ポケットのスマートフォンがぶるぶると震え、静寂を打ち破る。横になったままポケットを探ると、スマートフォンの表示は十数年ぶりに目にする番号だった。
妻だ。いや、『元』妻か。
頭の中で考えを様々に巡らしていると、表示は消え、電話の呼び出しが止まる。元妻からの非難や𠮟責といった嫌な考えが次々と浮かんでは消えていく中に、ほんの少しだけ希望的な観測が混じっていたことが我ながら情けない。
やり直すなんて、夢物語にも冗談の一つにもならない。
別れてから過ぎた年数はもう数えてもない。それでも、娘の歳だけはずっと数えている。
また目を閉じる気にもなれず、車を降りると小さく伸びをして、公園のトイレに目をやる。
「ふざけんなよ!」
男の怒鳴り声に咄嗟に身体が縮こまった。声の方に目をやると、着崩したスーツ姿の男が女を睨みつけている。女の横顔に見覚えがあった。食堂の店主だ。
「わかったよ。もう来ねえよ!」
男は店主に言い背を向けたが、もう一度振り返ると店主の顔をバチンと平手で殴り、走り去っていった。店主は、微動だにしなかった。
「だ、大丈夫ですか」
慌てて店主に駆け寄ると、こちらの顔を一瞥し「あぁ」と、思い出したように口をぽかりと開けた。
手渡した缶コーヒーを頬に当てながら店主は「ありがとう、ございます」と小さく頭を下げた。
「知り合い……ですか?」恐る恐る尋ねると、「元ダンナです」飄々と店主は言った。
「元ダンナが何であんなこと……」少々立ち入ったことかと思ったが、思わず聞いてしまう。店主はさして気にする様子もなく、プルタブを開けコーヒーを一息に飲み干した。
「やり直そうって、ずっと言ってきてて」
「ああ……」
「浮気にギャンブルに借金までするような人間は、まず自分の人生をやり直せよ、って言いました」店主は言い、飲み干した缶をまた頬に当てた。
「うちの子の教育上も良くないからね」
店ではおよそ見たことがないはにかんだような店主の笑顔に、一瞬目を奪われた。
「お子さんがいるんですね……」
「シングルマザーです。うちの母と一緒。親子って似るんですかね」
普段からは想像できない饒舌な店主にどこか気後れしながらも、『シングルマザー』という言葉に我が身を振り返り申し訳なく感じてしまう。
遠い昔、二歳の頃に別れた娘は、元気に育っていれば今年で三十歳になる。ちょうどこの店主と同じぐらいだろうか。
「お父さんとは……?」
「会ったことないです。母から話を聞くぐらい」
「そう……ですか」
「でも多分、悪い人じゃないかもなあ」
「それは、どうして?」
「いまだにね、私の口座に毎月一万円、入金されるんです。多分それ、父なんだろうなって。その口座、昔、私が生まれた頃に父が作った口座だって。母が」
胸が詰まった。次の言葉が出てこない。思わず顔を伏せて、袖口で鼻を擦ってから「そう……ですか」と声を振り絞る。
「そろそろ帰らないと」店主が立ち上がる。
慌てて立ち上がり、「送ります。今日の昼の……お詫びです」と言うと、店主は今思い出したというように「あぁ」と口をぽかりと開けた。「お願いします」
フロントガラスから見上げる月は三日月で、まるで妻が、いや元妻が作ったエビフライに見える。
エビフライが好きで、どこで飯を食ってもエビフライを頼んだ。
それでも、あんなふうに丸まったエビフライは多分もう、食べられないんだろう。
「エビフライみたいだ」
無意識にひとりごちたら、「三日月をそんな表現する人、初めて見た」と店主が声を出して笑った。
『……これは、母さんの、母さんの味』
『そうだよ。お父さん、母さんの肉じゃが、好きだったって』
『な、夏美……』
うぅっ、と声が漏れ、急いでおしぼりで口を塞いだ。
なんと素晴らしいドラマだ。実に素晴らしい。
あのアイドルは一時期、SNSだかで大炎上だとかなんとか言われていたが、こんなにも慈愛に満ち溢れた演技が出来るとは。
やはり世間の評価など、あてにならないものだ。
おしぼりで顔を拭い箸を手に取ると、カタッと目の前に小皿が置かれた。
見れば、アルファベットの『C』のように身を丸めたエビフライが一尾、ちょこんと載せられている。
「サービスです」
ハッと顔を上げると、にこりともせず店主が言った。
箸でつかもうとして二度落とし、彼女がまた声を出して笑った。