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魔女

 僕の前には魔女が座っている。

 別に知り合いではない。友達というわけでも、ましてや無二の親友でもない。それでも魔女はにやにやと口許に不気味な笑みをたたえて、アイスティーをストローで吸い上げた。
 「私、魔法が使えるの。信じる?」
 ごくりと喉を鳴らしてから、さっきからもう何度目かになるそのセリフを、再び魔女は僕に投げかけてくる。
 癖っ毛の、そのおびただしいボリュームの髪で隠された目をじっとりと向けられているような気がして、僕はテーブルに目を伏せた。
 「あのう、僕、そろそろ行かないと」
 「行くってどこに」
 「それ、言う必要あります?」

 ――さて、次は『地元大好き!』のコーナーです。今日は、吉川町にお住いの佐藤さんのご紹介です――

 店内はどこか殺風景で、今どきのカフェでは絶対に見られないヤニに煤けた壁や筐体のゲーム機が昭和の時代を思わせる。
 店内に流れるBGMを打ち消すかのように、カウンターの上に置かれた大音量のテレビが鬱陶しい。
 「そのアイスティーは奢りますから」言いながら、テーブルの端に無造作に置かれた伝票に伸ばした手を、魔女がグイっと掴んだ。
 「ひっ」手首に走る冷たい感触と電気が走ったような痛みに、思いがけず高い声をあげてしまう。カウンターで暇そうに新聞を広げるマスターが怪訝な顔を向けてくる。
 「まだ、信じるか信じないのか聞いてない」
 「信じます。信じますから離してくださいよ。手首、痛めてるんだから」
 魔女が掌をパッと広げ、慌てて僕は手を引っ込める。
 「じゃあ、アイスティーのお礼。あなたに魔法をかけてあげましょう、アイスティー一杯分だけ」

 ――佐藤さんは私設のミニ動物園を営んでおられて、犬や猫などの身近なペットから蛇やトカゲなどの爬虫類にフクロウやカナリア、インコなどまで。中でも人気なのがあちらの――

 「……豚だ」新聞をカウンターに放りテレビ画面に食い入るように見入りながら、マスターがにやけ顔で呟いた。
 店選びを失敗した。
 暗澹たる思いに溜息が漏れるが、画面いっぱいに映し出された豚の顔を見ると、僕の顔も思わずほころんでしまう。
 「ねえ、知ってる? 豚って、あの鼻で地面を滅茶苦茶に掘り返すんだって」
 「ああ……たしかトリュフとか探すって」
 「そう、トリュフの匂いが豚のフェロモンと似た匂いを出すんだって」

 ――素敵なミニ動物園でしたね。実は佐藤さん、ご夫婦お二人で管理をしているそうで、先日は豚ちゃんが一頭逃げ出すというハプニングもあったとか。幸いすぐに見つかったそうですけど、元気な豚ちゃん達ですね――

 「さっき、また逃げたんだって」口の端でストローを嚙みながら、悪戯っぽく魔女が笑う。
 「さっきって、豚が?」
 「今頃、フェロモンの匂い、探してるかも」
 黒く艶光る長い爪でグラスの水滴を擦りながら、魔女は顔を歪ませるように押し殺した笑い声をあげた。

 ――次は、今日の地元トピックです。またもクマが吉川町の市街地に出没しました。二週間前にも高齢男性が襲われる事件があったばかりですが――

 「ねえ、知ってる?」
 うんざりとした気分で、「何を」と半ば投げやりに僕は魔女に言った。
 「熊ってね、穴を掘ってとりあえず埋めるんだって」
 「埋めるって……何を」
 「殺した、獲物」
 口の端から、ふふふっと甲高い笑い声を漏らしながら、魔女はもう面白くて仕方がないという風に言った。

 ――付近には警察も出動して、厳戒態勢がとられています。外出をされている方などは十分に気をつけて下さい。不要不急の外出は出来るだけ――

 ほとんど氷が溶けたアイスコーヒーを飲み干すと、僕は伝票を掴んだ。ポケットから千円札を一枚カウンターに置くと、新聞に目を落としたまま「毎度ぉ」とマスターが言った。
 入り口のドアに手をかけた僕の背中に向けて、「ねえ、知ってる?」と魔女が声をかけてくる。
 「豚のフェロモンの匂いと似てるんだって」
 「……似てるって、何が?」
 外に踏み出した僕の背中に、ほとんど閉まりかけたドアの内側から、まるで耳元で囁くような声が聞こえた。
 「人間の死体」

 途中の道で、何度も警察車両とすれ違った。
 まだ熊は捕まってないのかな。ラジオのチューニングを合わせながら、アクセルを緩める。

 お金が好きで、セックスが好きで、それ以外に何もない彼女だった。
 些細な口論がきっかけで、頭をしたたかに壁にぶつけた彼女は、お金もセックスもそれきり求めてこなくなった。
 良い場所が見つかるまでの、とりあえず。

 トランクから出したスコップを手に、地面を掘り起こす。
 ああ、やっぱり目印をしておいてよかった。でも、もう少し浅くても良かったかな。
 見慣れた白い足が見えて、僕は嬉しくなる。ずりずりと引き出すと、愛おしい腕や首が見える。
 やっぱり君は、美しい。

 ガタっと背後で音がする。振り返る。
 この人、見覚えがあるな。
 ああ、佐藤さん。ミニ動物園の。
 赤いランプが遠くで揺れている。

 ああ、アイスティー一杯分なら、この程度か。






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