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【掌編小説】皮むき
眠りにつくなら、つよい雨の日がいい、とムルーはいった。わたしは、そろそろ新しいピーラーを買ってもらわなくちゃ、とおもいながら、どうして? と聞いた。
それはね、わたしにとっては、天候というのは、つよい雨か、それ以外か、しかないからさ。
そっか、そうだろうなと思いながら、縞模様になったムルーの背中の、縞のひとつに、ピーラーの刃をあてる。そして、適度なちからをかける。
基本的には、野菜やフルーツの皮をむくのと、変わりはない。だけれどムルーは、人間だ。にんじんの皮をむいていて、うっかり手をすべらし、指の皮をずるりとやってしまったことがある。あのときは、ほんとうに痛いおもいをした。血もでた。だから、どうしても、慎重になってしまう。こんなくたびれたピーラーでは、なおさらだ。
わたしが黙っているのを、話の意味がわからなかったのだと、ムルーはとったらしい。
きみはまだ新人だから、わたしの暮らしが想像できないのだろうね。なに、単純な話だ。ご覧のとおり、ここは窓ひとつない穴ぐらだ。もっとも、窓をつくったところで、ここは地下なのだから、四角形の土が見えるばかりだろう。ここではつまり、外の様子を知るすべがない。唯一わかるのは――とムルーはそこまで言って、手を動かそうとしない私をふり返った。
どうしたね、まだおそろしいかね。
わたしは首をふった。別におそろしいわけではない。ただ、痛くないといったって、あまりふかく削ってしまえば、すこしは痛いだろうと思うと、多少のためらいは感じる。
そのようなことをわたしが言うと、ムルーはなにかしらの表情をうかべた。でも、背中とちがって、顔の皮はけずらないから、ムルーの顔はほとんど土壁と同じ色で、泥を分厚く塗りたくったような感じで、どんな表情を浮かべているのか、よくわからない。
まあ、いいさ、とムルーは前を向きなおった。時間はたっぷりあるのだし、きみが嫌でなければ、いつまでだっていてくれてかまわない。きみの言うとおり、あまりにふかく削られれば、さすがのわたしも、痛みは感じるだろうしね。
私はうなずいて、それから、注意ぶかく、皮膚に刃をあてた。できるだけあさく、できるだけうすく、そう頭のなかでつぶやきながら、ピーラーをおろしていく。その隙間から、似ているものでいえば里芋の皮のような、ムルーの皮が、むりむりと押し出される。
うん、うん、と満足気にムルーはうなずき、それから、唯一わかるのは――と、先ほどの話の続きを始めた。
唯一わかるのは、雨の音なんだ。しかし、しとしと降るような、やわな雨ではダメだ。もう、とてもつよい、滝のような雨でなければ、ここまでは聞こえない。だから私にとって、天候というのは、つよい雨か、それ以外か、しかないということなのだね。
うん、とわたしは言いながら、ゆっくりとピーラーをおろしていく。むりむりと押し出される皮。いまのところ、ちぎれていない。
ムルーは何十年も、この窓のない部屋に閉じ込められたままらしい。どうして閉じ込められているのか、その理由はとてもとても複雑だから、聞いてはいけないよ、と社長は言っていた。きみはただ、彼の背中をキレイにしてあげればいい。
わたしはムルーに、ここにいる理由を聞いたことはない。ムルーもわたしに、それを話そうとはしない。興味がないわけではないけれど、そんなことよりも、私はじょうずに皮をむくことに、精一杯なのだ。
雨にうたれることを想像するんだ。つよい雨に、わたしの体が。ムルーは言った。
雨にうたれて、わたしは溶けていく。砂のように溶けていって、やがてわたしはいなくなる。そんな眠りをもとめている。
もとめてはいるが、とムルーは、前を向いたまま言った。
もとめてはいるが、それは、もとめているということ自体が、ある種のなぐさめなのさ。わかるかね、だから、わたしがほんとうに、雨にうたれることはない。かすかに聞こえる、つよい雨の音をききながら、ただわたしは眠りにつきたい、と、そう願うのさ。
わたしは返事をしなかった。皮はじょうずにむけた。肩のところから腰のところまで、いちどもとぎれずにむけた。
わたしはそのかわをつまんで、肩越しに、ムルーに見せた。ムルーはふり返って、またよくわからない表情をして、それでも、やあ、腕を上げたじゃないか、と言ってくれた。私はうれしくて、思わず、ありがとう、といった。