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【掌編小説】傘
エレベーターホールは人が少なくて、そのせいなのか、さーというかすれたノイズと、熟れすぎたフルーツのようなむっとしたにおいが、すぐに感じられた。
雨だ。
ぼくのからだは自動的に、肩からリュックをおろす。ジッパーを開けて、手を突っ込む。指さきは迷わずすすみ、かさついた棒状のものにふれる。
天気アプリには、雨の予報はなかった。でもぼくは、雨がふると、知っていた。いや、それは正確ではない。いつ雨がふってもいいように、つねに、リュックのなかに折りたたみ傘をいれてあるのだ。
こんなときなのに、ぼくは満足をおぼえた。用意のいい自分を、イケてると思う。ホールを大股でよこぎり、自動ドアに近づくと、透明のガラスごしに、思った以上に強い雨あしがみえた。急に降ってきたのか、何人かが慌てた様子で走っている。
バカだな。
ぼくは思い、いよいよ満足を深くする。どうして傘をもっておかないのだろう。簡単なことなのに、どうして準備しておかないのだろう。
自動ドアをぬけながら、手のなかの傘のボタンを、はじく。それから軽くスナップをきかせて、ふる。そうすればすぐに傘は傘のかたちにひろがり、ぼくはそっと反対の手を添え、骨を張るだけでいい。
バカな人たちが走りまわる、雨の世界へ、ぼくはゆったりした気持ちで、足をふみだしかけた。ふと、自動ドアの外側を、濡れたコンクリート色のぞうきんで拭く、そうじのおばちゃんと目があった。派手な黄色いポロシャツに、むかしの事務員のような紺色のズボン。おばちゃんはなんとなく、不審げな目でぼくを見ていた。
気づいたときには、おばちゃんは視界から消えていて、ぼくは、さー、ではなく、どざさざざざ、というすごい音のする雨のなかにいた。風景は、頭のうえにある傘のかたちに切り取られ、厚さが何メートルもある磨りガラスのような壁に、まわりを囲まれていた。
ぼくは歩いていた。雨は風景をかくしつづけた。足元だけが見えた。白いタイル床が、いつのまにかアスファルトに変わっている。
僕は息ぐるしさをおぼえた。雨が風景をかくしているのではなかった。ぼくがうつむいているのだった。
さきほどのそうじのおばちゃんは、こんな時間に帰るぼくを、きっと変に思ったのだろう。そうだ。エレベーターホールがすいていたのも、こんな中途半端な時間に、外出する人がいないからだ。
おまえは、自分を、利口だと思っているんだろうな。
さっき上司にいわれた言葉が思いだされた。
お前は自分を、仕事ができる人間だ、と思っているんだろう。たしかにお前は、学歴もあるし、知識も豊富だ。失敗もしない。だがな、いいか、学歴があり、知識があり、失敗しないこと、を、仕事ができる、と考えてはいけない。むしろ、いいか、なにがなんだかわからないってその顔を見たら、なおさら言わねばならないが、いいか、むしろお前は同期の誰よりも、仕事ができない。お前が日頃からバカにしている、見下している同期たちな、あいつらの方が、お前よりよっぽど、仕事、をしているよ。そのことを少し考えてみろ。少し早いが、今日はもう、帰りなさい。
たちどまった。足元は石畳に変わっていた。すこしだけ視線をあげた。公園だった。磨りガラスのようだった風景が、ほんの数分で、解像度をとりもどしていた。雨が、やみかけていた。
やまないでくれ。
折りたたみ傘は、雨がふらないからこそ意味がある。実際に雨がふり、傘としてつかわれてしまえば、それはその他の傘とかわらない。そして、雨がやみ、傘がたたまれるときには、なぜなのだろう、折りたたみ傘のほうが、何倍もみじめなのだ。
やまないでくれ。
奥歯をかみしめた。
視界のはしを、ひとの足が過ぎていく。子どもの笑い声。思わず目をやると、濡れた芝生のうえで、何人かの子どもが、走り回っていた。あのはげしい雨のなか、遊び続けていたのだろう、全身がびしょ濡れだった。母親たちが、タオルを持って追いかける。笑いながら。子どもたちはうれしそうに逃げる。
雨よ、やまないでくれ。
僕は傘をたたみたくない。
ふたたびうつむいた。傘の柄を、いちばん短くもった。傘のなかにかおをうずめた。歩ける気がしなかった。