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スローガン「自分の完成を急げ」
44歳初日。その数字に、またひとつ齢を重ねた事実に特に思うところなし。でも何となく、心境の変化はある気がして。
前提として人には「今」しかなく、1秒前の自分も1秒後の自分も存在しないのだけれど、人間は違う。人と人の間にはあらゆるものが棲む。誰かの記憶があなたを規定し、あなたの記憶が誰かを規定する。人は一人でも存在できるが、人間はそうではない。
10代後半か20代前半に漠然と掲げた「自分の完成を急げ」というスローガンは、至るところに綻びを生じさせながらも未だ額の中に留まり、壁に同化してひっそりとそこにある。30代になってしばらくした頃、それを忌々しく思うようになった。早く落ちてしまえ。割れてしまえ。消えてしまえ。そうしたら新しい、30代にふさわしい新たな目標を飾れるのにと。
随分と時間の過ぎた44歳の誕生日、それはもはや意味や意思を失い、惰性で何とか壁にへばりついているだけに見える。一日の仕事を終え、一人狭いオフィスに留まりながら、僕は今それをぼんやりと見上げている。
よくわからない気分だ。少しの力が加わるだけで、あれは簡単に落下するだろう。落下し、粉々に割れて、消えてしまうに違いない。だが、30代の頃のように、それを望む気持ちはもはやない。それにしても、自分の完成を急げ、そう書かれた上で存在を忘れられるとはどういう気持ちだろう。
だが、実際僕にはその気持ちがわかるのだ。なぜなら、それは僕自身だからだ。自ら掲げ、自ら忘れた。僕は掲げられ、忘れられた。そうしていれば、いつまでも完成されない自分を、いつまでも成就されない自分を、互いのせいにできたから。
立ち上がって、それのそばに立った。どこか照れ笑いをするように、それは視線を下げ、そのまま僕に倒れ込んできた。僕はそれを受け止めた。それは驚くほどくたびれていた。だが、意外な重さがあった。そして僕は気付いた。
「そうか、そうだったのか」
それは頷いた。
「そうさ。そいうことだったのさ」
そのどこか嘲るような言い方に、僕は笑った。それも笑った。馬鹿みたいだと思ったが、悪くない気分だった。掲げる必要のなくなったそれは、砕け散ることも消失することもなく、ただそのまま僕と同化した。すぐに境目がなくなり、見えなくなった。
……
人と人の間にはあらゆるものが棲む。
誰かの記憶があなたを規定し、あなたの記憶が誰かを規定する。人は一人でも存在できるが、人間はそうではない。
僕はこれからも人間として生きていかねばならぬだろう。だがそれは、人として存在することと矛盾しない。最初から僕は僕という人であり、様々な人にとっての人間でもあっただけだ。
自分の完成を急げ。今の僕にはそれが随分と違った言葉に聞こえる。20代に掲げ、30代で放置し、40代でそれと同化した。自分の完成を急げ、か。なるほどね。なんとも馬鹿らしく、なんとも素晴らしいスローガンじゃないか。まったく。
ということで、いろいろなことが一段落し、これから新しいことも始まるというこのタイミングで迎えた静かな誕生日。なんだか久々に自分と向き合ったような、俺が俺とサシで飲んでるような、不思議な気分でこれを書いています。
うん、やっぱ楽しいな。考えることも、書くことも、話をすることも。
そんなわけで(どんなわけだ)、行ったことない店にでも飲みに行こうかな。