“としより”からの手紙
先日亡くなった祖父が母に宛てた手紙を読ませてもらった。母が、「読んでおきなさい」と送ってくれたのだ。以下、抜粋する。
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あの日 達郎が ”としより”の話を 真面(まとも)に聞いてくれて うれしかった
何を話したかは もう記憶にないが 不思議と ”話をした” ”対話をした” という充実感があった
達郎の人柄なのか 聞き上手なのか 素晴らしい天性だと思います
これからの人生を 積み重ねていく毎に きっと 役立つに違いない
これは 大切にするよう 機会があったら 話してやって下さい 聞き上手よし とね
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俺は昔から、祖父のことが大好きだった。いや、それは好きというより、憧れに近かったのかもしれない。有名企業に勤めながら、出世や金よりも、「自分の本当に好きなこと」を追求する人生を選んだ。
絵を描き、書を書き、庭師をし、コラムを寄稿し、模型を作り、野菜を育て、アユ釣りに行く。
ある時は、朝の4時とか5時に幼い俺たちを起こし、近所の雑木林に連れて行った。真っ暗な林。言われるがままについていけば、そこにはたくさんのクワガタやカブトムシがいた。前の日に祖父がワナをしかけていたのだ。
そういう人だった。だから、好きだった。憧れていた。
大人になり、会う機会はどんどん減った。それでも、年に1回の餅つきで集まったときなどは、必ず祖父のいる「離れ」に行って、彼の話を聞いた。手紙に書いてあるのは、そういう機会のいずれかのことを、あるいはその習慣を、示しているのだろう。
今回の祖父の言葉は、(彼が死んだということも相まって)心の奥の方にしっかり仕舞われた。今後、なにか辛いことがあったとき、物事がうまくいかないとき、あるいは道に迷ったとき、そっと出てきて俺を慰めてくれるだろう。
ただ、一つだけ反論するならば。
俺があなたの話を何十分でも何時間でも楽しく聞けたのは、俺の天性ではなく、あなたのおかげなのです。
あなたの話はいつだって面白く、そして、俺を勇気づけるものでした。そしてきっとあなたにとって俺は、孫の中で一番、「自分に近い感覚」を持った人間だったのでしょう。
つまり、俺が聞き上手なのではなく、あるいはあなたが話し上手なのでもなく、俺とあなたは、関係性それ自体が「充実」していたのです。
奇妙なことに、あなたが死んでしまったことを、俺は寂しいと思わない。むしろ、今までよりもずっと、身近に感じるようになりました。
俺はいつでも、頭の中であなたに話しかけることができる。そして、その返事を想像することができる。
以前、あなたが母にこう言ったことを俺は知っている。
「達郎はどうして、俺の考えてることがああも分かるんだろうなあ」
それは、似ているからだ。
あるいは、似ようとしたからだ。
二郎さん、あなたの人生は終わったが、あなたから一字をもらい、見事にそのフォロワーとなった達「郎」として、続いていく。
これからも時々は、話をしよう。