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無題小説
本を読むとき、頭のなかに声が聞こえる人間がいるらしい。そんなことは考えたこともなかった。さっき試してみたが、頭のなかは無音だった。架空の語り手を想像して、彼に朗読してもらおうとした。彼の口は動いたが、声は聞こえなかった。
「本を読んでるとき、声がする? 頭の中で」
座っていたチェアをくるっと回し、言った。
大きなテーブルに、何十本ものペットボトルが並んでいる。コカ・コーラ、カロリーあり。天井に向かってまっすぐに立つそれらは、ミニチュアの都市のように見えなくもない。
その都市の真ん中が、盛り上がった。灰色の球体のようなもの。球体は周囲のビルをなぎ倒す。なぎ倒されたビルは隣のビルをなぎ倒し、それはやがてテーブルの縁まで達し、落下する。象の鼻の脇をかすめ、亀の甲羅を滑り落ちーー。
「もう、せっかく並べたのに」
文句を言うと、その球体はビクリと震え、動きを止めた。
「ご、ごめん」
球体はそう言って、またテーブルの上で縮こまった。
「謝られたら僕が悪者になる」
さっきコンビニで買ってきたゴミ袋を開く。そしてテーブルに近づき、さっき落ちた何本かを拾って入れる。
「ほら、手伝えよ」
そう言うと球体はまたビクリと震え、盛り上がる。そしてまたビルをなぎ倒し、落下させる。
僕は笑う。笑いながら、ポコポコと床で跳ねるそれらを手に取り、袋に入れていく。やがて都市は消滅し、そこには、頭と腕の生えた巨大な球体だけが残っている。
「さっきの話だけど、どう?」
「声?」
「うん」
「聞こえない。本を読んでいる時、頭の中は無音」
「うん」
「でも、8割の人間は違う。本を読めば、声が聞こえる。頭の中で」
「なんでそんなの知ってんだよ」
「さっき調べた」
球体のように太った男は、その分厚い肉で埋もれそうな、小さなパソコンを指差した。
「一定の声だと言う人もいれば、いろいろな声だという人もいる。読む本のタイプによって決まる、という人も」
「タイプってなんだ」
「それは書いていない」
球体はカチャカチャとキーボードを打つ。きっと「本のタイプ」などと検索しているのだろう。背伸びをしてその手元を覗き込む。指先が昆虫の歯のように動いている。昆虫に歯があるのかは知らない。
椅子に戻って、今度は何をしようと考える。ペットボトルで閉じ込めるのは、大変な割に、楽しみの時間が短かった。もっと長く、楽しめること。
そうか、と僕は思い、チェアをまた半回転させる。そしてそこにあった本を持って、渡す。
「指差すからさ、読んでみて」
「わかった」
男は本を覗き込む。指を滑らせていくと、声がした。指を止めると、声も止まった。もう一度滑らすと、声がした。
「うーん、ちょっと違うな」
球体の座る椅子を、苦労して後ろに滑らせた。テーブルと球体の座る椅子との間に入り込み、男の口が後頭部あたりに来るように、調節した。そして、自分にも男にも見えるように本を掲げる。
「いくぞ」
指を滑らせる。
声がする。
頭の後ろから。
いや、これは頭の中だ。
言い聞かせる。
指を滑らせる。
声は続く。
声が頭の中に入る。
ページを捲る間、声が出ていってしまいそうになる。
急いで指を滑らせる。声が追いかける。
頭の中で、声がしている。その代わりに。
僕の声はいま、失われている。
僕の頭の中の声に、僕の声は奪われる。
指を止める。声は止まる。
突然、恐ろしくなる。
僕は声を失ってしまう。
口の中にツバが溢れる。飲み込もうとして、躊躇する。ツバと一緒に、声も飲み込んでしまう。本を投げ出し、立ち上がると、巨大な球体に抱きついた。
「! ! !」
「! ! !」
叫んでも声は出ない。僕は声を失った。頭の中の、架空の語り手のように。
男の汗ばんだシャツから、コーラの匂いがする。都市を作るために、何十本も飲ませたコーラ。球体はコーラの匂いで僕を包む。コーラと、汗と、垢のにおい。
「… … …」
球体が何かを言う。本は閉じたのに、指さしてもいないのに。
「… … …」
僕は笑いそうになる。こいつまで声を失ってしまったのだろうか。僕の声を奪って、そして自分も奪われた。そして僕たちはいま、一つになっている。球体の手が僕の肩に乗り、そして。
……
「おかしくなったかと思った。君が、おかしくなったかと」
球体は目を見開いた。球体のような目だ。
「! ! !」
僕は、架空の語り手のように、口をパクパクしてみせる。彼の口は動いたが、声は聞こえない。
「! ! !」
「ちょっと、怖い。怖くなる」
「! ! !」
「やめてくれ。調べようがない」
「! ! !」
何度か続けて、飽きた。僕はチェアをまたくるっとさせ、視界から球体を追い出す。そして、こっそり別の本を手に取ると、ページを開き、そして、ゆっくりと指でなぞった。
頭の中で、声がした。
驚いて振り向くと、球体がそこに迫っていた。
「だって、まだ」
球体は不貞腐れたように言った。僕は笑った。声を出して笑った。