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これからの採用が学べる小説『HR』|【第1話】イタリアマフィアの爆弾

広告業界のHR業界(求人事業)で勤務する若き営業マン村本。自分を「やり手」と信じて疑わない彼の葛藤と成長を描くお仕事小説です。突然言い渡される異動辞令、その行き先「HR特別室」で彼を迎えたのは、個性的過ぎるメンバーたちだった。彼はここで一体何に気付き、何を学ぶのか――


【第1話】イタリアマフィアの爆弾

「は? 異動?」
 
新しい期が始まって間もない4月半ば。木曜朝9時のミーティングルームで、俺は敬語を使うのも忘れて聞き返した。
 
白い壁に囲まれたこの30畳程度の部屋には、俺と鬼頭部長の二人しかいない。
 
鬼頭部長は俺の言葉が聞こえなかったように、もはやトレードマークと化したスタバのコーヒーをゆっくり口に含み、目を閉じる。
 
50代前半のはずだが、サーファーにしか見えない黒い肌、きついパーマのかかったカールヘア、イタリアマフィアのような光沢あるストライプスーツのせいもあって、かなり若く見える。
 
3つの営業部を束ねる統括部長、創業メンバーというわけではないがそれに近い社歴があり、昨年期初の人事でついに取締役に名前を連ねることにもなった。
 
「あの……部長?」
 
俺が促すとやっと鬼頭部長は目を開け、俺に初めて気がついたみたいに「ん? どうした」などと言う。
 
どうした? じゃねえよ。
 
俺は心の中で舌打ちをする。
 
いつだってこの人はわけがわからない。突然おかしなことを言い放ち、現場をめちゃくちゃに混乱させる。天才肌というか気まぐれというか、本人的には「熟考した上」での話だそうだが、如何せんタイミングが突然なので、周りの人間は心が休まることがない。
 
もっとも、無理難題を押しつけられるのはマネージャークラスの管理職たちで、自分のような末端社員は直接話すことすら稀なのだが。
 
しかし今朝、珍しく朝からウチの部署に顔を出した鬼頭部長は、こともあろうにいきなり俺の名前を呼んだ。そして、鼻歌交じりにミーティングルームに呼び出すと、まるでファミレスでメニューを選ぶような気軽さで「ちょっとお前、別部署に異動させるから」などとのたまわったのだった。
 
「……ですから、その、異動の件です。というか、そもそもこんな時期に異動なんて」
 
鬼頭部長の発言に、俺も見事に混乱していた。
 
3ヶ月毎に決算するクォーター制を採用している当社では、組織変更があるとすればその変わり目だ。特に部署間・拠点間の異動といった大きな変更は年度末、もしくは半期折り返しのタイミングでしか行われないのが常だった。
 
4月頭、新たな組織体制のもとで今期をスタートさせたばかりの今、この人は一体何を言い出すのか。
 
「ああ、まあ、そういう異動じゃねぇんだ。どっちかというと、研修だな、研修。とりあえず1週間でいいから、行って勉強してこい」
 
なんだよそれ、また心の中で悪態をつく。
 
異動だと言っていたのに、今度は研修? いよいよ意味がわからない。一体どこへ、いつから、何を学びにいくのか。

確かめたいことは山ほどあったが、変につっこむと、話がおかしな方向にねじれることも考えられた。
 
どれだけ変人だろうが、この人が統括部長で、しかも取締役だという事実は変わらない。下手に機嫌を損ねれば今後にも関わる。
 
「わかりました」
 
できるだけ感情を込めずに言った。鬼頭部長の中で決まったことならもう仕方がない。そもそも拒否権のない話なら、異動より1週間の研修のほうがずっとマシだ。
 
「そうか。じゃあ詳細はあとで送っておくから」
 
「はい、よろしくお願いします」
 
俺が頭を下げると、鬼頭部長はコーヒーを手に立ち上がった。話は終わり。頭はもう次の考え事に移っているのだろう。
 
俺の横を通り抜ける時、大人の男を感じさせるスパイシーなコロンが香った。175cmある俺より背が高い。あらためてその迫力に気圧される。
 
「あ、そうだ」
 
扉の前で鬼頭部長は立ち止まり、振り返った。
 
「お前の志望動機、なんだっけ」
 
「……は?」
 
「だから、なんでウチに入ったんだっけ」
 
「それは……」
 
どうしてそんなことを今聞くのだ。面接の場で何と話したのか必死で思い出そうとするが、突然のことでうまくいかない。
 
「あの……ですから」
 
口ごもる俺を鬼頭部長はなぜか眩しそうに見つめた。無精髭の生えた口元が笑っている。女だったら一発で落ちそうな、自信と余裕の溢れた笑みだった。
 
「もう忘れちまったか」
 
鬼頭部長は独り言のように言い、「じゃあな」とまるで外人の挨拶のように手を上げ、颯爽とミーティングルームを出ていった。

俺が勤めているのは、求人広告をメインで扱う広告代理店だ。社名は株式会社アドテック・アドバンス。業界ではAAで通っている。
 
大型求人メディアを複数運営する某大手企業とパートナー契約を結んでおり、その企業の求人メディアを営業・販売することでマージン(手数料)を得、即ちそれが売上となる。
 
都内だけで数十社あるパートナー企業の中でもAAは1位・2位の売上規模を誇り、クォーター毎に開催されるパートナー会議では、毎回様々な部門で表彰を受ける。
 
現在版元(求人メディアの運営元)には営業組織がなく、各パートナー企業に販売を委託している状態だ。だからその中でトップを走るAAは、言わば版元が最も頼りにする“営業チーム”なのだ。
 
「ああ、村本くん。朝から大変だったね」
 
ミーティングルームを出て自分のデスクに戻ると、隣の席の島田が声をかけてきた。背が小さく小太り。オタクっぽい風貌ではあるが、同期の中でもっとも人懐っこくお喋りで、社内ではちょっとした有名人になっている男だ。
 
「まあな」
 
「鬼頭部長が来るなんて珍しいよね。相変わらず芸能人みたいでカッコよかったなあ」
 
アイドルに憧れる女のように言う島田を見て、力が抜ける。呑気というか、無邪気というか、これで意外と営業成績もいいのだからよくわからない。
 
「バカなこと言ってないで仕事しろよ」
 
黙々と仕事を進めている営業一部の先輩たちを横目に言った。
 
俺は3年前の4月にこの会社に新卒で入社し、同期の中では島田と俺だけが営業一部に配属された。見るからに「できるメンバー」が揃った営業一部で、島田は明らかに浮いている。
 
営業部は一部から三部まであり、求人広告の営業という意味ではすべて職務は同じだが、クライアントの会社規模は三部から一部に向かって大きくなっていく。
 
三部が個人店や従業員数十人の企業を担当するのに対し、二部は地域に複数店舗を展開する小規模チェーンや従業員百名程度までの中小企業、そして一部はいわゆる全国チェーンや大手企業が担当だ。
 
三部が足で稼ぐ泥臭い営業だとするなら、一部は頭を使って大きな会社を落とす頭脳型の営業だ。会社の中でも花形と言われる所以である。
 
「それで、何の用だったの? また爆弾を落とされるんじゃないかって、リーダーたちが青い顔してたけど」
 
俺の忠告を完全に無視して島田は言う。こいつはいつでもこの調子だ。“爆弾”というのは、先月半ば、鬼頭部長が突然強化商品の変更を指示してきた件を言っているのだろう。
 
期末に差し掛かった土壇場のタイミングだったので、現場はひどく混乱した。だが結果的にはそれが功を奏し、未達に終わるだろうという諦めムードの中にあった年間経営目標も、3日営業日を残した段階で達成することができたのだった。
 
「別に営業方針の話じゃない。だいたいそんな重要なこと、俺に話してどうすんだ」
 
「そっか。そう言われればそうだね。じゃあ、何の話?」
 
今度は俺が島田を無視し、デスクの上のノートPCを開いた。パスワードを打って自動ロックを解除し、惰性的にメーラーを起動する。ボックスには差出人名に取引先の名前が入ったメッセージが十数通届いていた。
 
その文字列を前に、自分の頭が仕事モードに切り替わっていくのがわかる。とりあえず、鬼頭部長が“俺に落とした爆弾”の件は保留だ。今の俺にはそれより前に考えるべきことがたくさんある。
 
メールを一通ずつ開いて必要なものには返信し、それが終わると昨晩途中まで作っていた企画書のファイルを開いた。2時間後のアポイントまでに仕上げてしまわねばならない。
 
パワーポイントが立ち上がり、有効求人倍率のグラフと業界別求人掲載数のデータが画面に表示される。担当人事からは既に契約の意思を聞いているが、上役の首を縦に振らせるためにはこういう書類が必要なのだ。
 
一時間ほどで企画書を仕上げ、早めにオフィスを出た。一人暮らしの部屋ほどもある大型エレベーターで一階に降り、エントランスを抜ける。

俺が働くAAの本社は、東京駅八重洲口から徒歩一分のオフィスビルに入っている。外に出ると、4月の晴れた空の下、たくさんの観光客グループの姿が目に入った。
 
レンガの駅舎で有名な丸の内側ほどではないものの、春先という季節感もあってか、こちらの八重洲口でも旅行者たちの姿が目立つようになった。
 
ダサい絵柄のTシャツに短パン、大きなキャリーバッグ、サンダル。明らかにリラックスムードの彼らに微かな苛立ちを覚えつつ、俺は足早に改札を抜け、駅構内に入っていく。
 
旅行、観光。そんな無駄なことに金を使う人間の気がしれない。もっと生産的なことをすればいいのにと思う。見たところで1円にもならない観光名所を回るなら、自分の評価につながる接待ゴルフにでも行った方がずっとましだ。
 
小さな頃から「器用」「要領がいい」と言われ続けてきた。
 
勉強も運動も、工作や絵も、少し頑張れば人並み以上にできた。文科省が主催する作文コンテストで賞を取り、表彰されたこともある。
 
俺にとって世の中は、「少し頑張ればだいたいなんとかなるところ」だった。だからこそ、頑張ることすらしない奴が嫌いだった。
 
作文で賞を取れたのは、どう書けば評価されるか考えて書いたからだ。俺ですら努力しているというのに、俺より能力の低い人間が努力しないでどうするんだ。つまらない観光などしている暇があるなら、ビジネス書の一冊でも読みやがれ。
 
JR横須賀線で品川まで行き、港南口を出ると、渋谷や新宿に比べると明らかに広く感じる空と、そこにゆったりした間隔を保って建つ近代的な高層ビルが見える。
 
かつてこのあたりには大きな食肉市場があり、どちらかと言えば暗い雰囲気だったのだと古株の先輩が言っていたが、とてもそんな風には見えない。
 
アポイントまで少し時間があったので、俺は半地下にあるカフェに入り、コーヒーを飲みながら企画書の最終チェックをした。
 
これから向かうのは、環境事業を手広く展開するM社である。資本金50億円、従業員数3000名。ここ数年は発電事業にも注力しており、目覚ましい成長を遂げている。
 
事業が大きくなればそれだけ多くの人間が必要になる。結果、俺のような求人広告の営業に声がかかる。M社は俺のコアクライアントの一つだ。いや、売上規模や出稿頻度を考えれば、最重要クライアントと言ってもいい。
 
だからこそ、他のどの企業よりもパワーを割いてきた。頻繁に情報提供のメールを送り、人事だけでなくその上の部長陣にもお伺いの挨拶をし、時には版元に交渉して特別な割引施策を打ってもらったりもした。お歳暮や年賀状といった、今ではいささか古めかしく感じる習慣も大事にした。
 
その甲斐あって信頼関係は盤石。「M社は村本じゃなきゃ担当できない」などという声が、社内だけでなくM社側からも聞こえ始めていた。
 
「よし」
 
俺は書類を見ながら呟いた。今日の企画書にも抜かりはない。今回の250万円の契約もスムーズに交わされることになるだろう。
 
俺は安心して書類をバッグにしまい、コーヒーを口に含んだ。目を閉じてその苦味を味わったが、まるで鬼頭部長のようだと気づき、思わず苦笑いが浮かんだ。

「え? キャンセル?」
 
片側に10脚以上のチェアが並んだ広い会議室。俺と向かい合って座る女性人事は、かけていた黒ぶちメガネをゆっくりはずしながら、「そうです」と言った。
 
「全部……ですか?」
 
「そうです」
 
既にOKをもらっていたはずの約250万円の契約。あとは俺が作ってきたこの企画書を上司に上げてもらえば終わりのはずだった。この女はそれを突然キャンセルすると言い出したのだ。
 
いや、厳密に言えば契約前の話なのだから、キャンセルというより「契約を見送る」ということなのだが、延期でもリスケジュールでもなく、女性人事は明確に「キャンセル」という言葉を使った。
 
「ちょ、ちょっと待ってください。どうして急に――」
 
女性人事は閉じたままのノートパソコンの上にメガネを置くと、微かに眉間にしわを寄せ、言った。
 
「そうですね。他の会社から、いい提案があったものですから」
 
殴られたような衝撃があった。他の会社?
 
「そんな……どこですか……どこがどんな提案を?」
 
このAAが他社に“抜かれる”なんて、あっていいことではない。それも、こんなビッグクライアントを。思わず強い口調で言い返すと、女性人事は一瞬怯えたような表情を浮かべたが、やがて何かを決心したように俺の顔を見つめ、はっきりと言った。
 
「そこまで村本さんにお伝えする必要はないと思いますが」
 
「え……いや……」
 
違う。いつもと全く違う。一体何が起こったというのか。
 
思えば会議室に入ってきた時からおかしかった。この女性人事は、俺のことを気に入っているはずだった。だが今日は、最初から妙に強張った表情をしていた。

席につく足取りもどこか重く、企画書を取り出して説明を始めても、心ここにあらずといった雰囲気だった。いま思えば、あの時点で既に契約キャンセルの件は決まっていたのだろう。
 
あの時点で……そうか。
 
そして俺は今更のように気付いた。
 
……上の判断か。
 
総務課長か、人事部長か、大企業のイチ担当者に過ぎないこの女性人事の権限などたかが知れている。彼女の判断がどうであれ、自分の頭越しに物事が決まってしまうこともあるのだろう。
 
「……なるほど」
 
俺は独り言のように呟いた。上が決めたことなら、このテーブルで状況を覆すのは不可能だ。課長や部長と面識がないわけではないが、こちらの影響力を行使できるほどの間柄にはない。
 
いや、そもそもキャンセルを決めたのが彼らなのだとしたら、俺がどれだけアポイントを求めても応じてくれないだろう。「他の会社がいい提案をしてきた」という先ほどの言葉も、上司からそう言えと指示されただけなのかもしれない。
 
実際、そんな状況は当たり前にある。むしろ俺たちの方が、こういった政治的なやり方で他の代理店の契約を奪ってきた。
 
人事担当ではなくその上役をピンポイントで狙い撃ち、現場が知らぬ間に契約を上書きする。文句が出ようが後の祭り。日本の一般的な会社組織では、上役の判断を真っ向から批判できる部下などいるはずがない。そして、上役の判断だからこそ、その部下が誰かに責められることもない。
 
そう考えて、俺は微かな安堵を覚えた。
 
250万円の契約がポシャる事実は変わらないにしても、それが俺と女性人事のあずかり知らぬ所で決まったことなのだとすれば、俺への責任追及はそこまで強く行われないだろうと考えたからだ。
 
頭越しに行われた取引をひっくり返すには、その高さに手が届く立場の人間が出ていくしかない。末端営業マンの俺の手に負える話じゃない、と言い訳も立つ。
 
「上の判断なんですね」
 
女性人事に決定権がない以上、彼女に文句を言っても無駄だ。俺にしても、今回のキャンセルを不可抗力として既成事実化してしまった方がダメージが少なくてすむ。
 
「じゃあ、仕方がないですね。今日はおとなしく引き下がります」
 
聞き分けの良さをアピールした。それで人事はホッとするはずだ。契約を破棄したのは上司なのに、それを直接伝える役割を押し付けられた。嫌な役回りが無事に終わったことに安心するだろう。
 
だが、彼女の顔は変わらなかった。すっと息を吸い、そして言った。
 
「いえ、私の判断です」
 
絶句する俺を見て、彼女はやっと表情を変えた。だがそれは、俺に対する後ろめたさでも申し訳なさでもなく、まるで呆れたような、俺を見下すような冷たい表情だった。
 
彼女は小さく溜息をついて、言った。
 
「実は数か月前から、人事部内で今年度の採用計画について、複数社の提案を比較検討していました。それで今回、最も真剣に弊社のことを考えてくれている一社に全面的にお任せすることにしたんです」
 
「え……全面的に……一社に?」
 
「そうです。……正直に申しまして、御社からの提案にはあまり熱意を感じられませんでした。村本さんからすれば唐突に感じられる話かもしれませんが、こちらとしては何ヶ月にも渡り、御社の、いえ、あなたの対応を注視していたんですよ」
 
「私の対応? ……と言うことは、原因は私にあると?」
 
「そう取っていただいて構いません」
 
「そんな……御社へのフォローはどの会社よりも時間をかけて……」
 
女性人事が笑ったように見えた。視線を落とし、小さく首を振る。
 
「村本さん、私たちが求めているのは、必要な人材が採用できる提案です。ご機嫌取りやお伺いではないんです」
 
頭がクラクラした。
 
こいつは一体何を言い出すのか。そもそもあの250万円がなくなることで俺の営業成績はガタガタだ。もしかしたらあのバカ島田にすら負けるようなことになるかもしれない。
 
ただでさえここ最近の俺は新規顧客が得られずに苦しんでいた。だから既存顧客のフォローを手厚くして単価を上げる戦略を選んでいたのだ。
 
しかも、今回の件を「俺の責任」だと上が認識すれば、今後の出世にも響いてしまうかもしれない。
 
「こ、困ります……あの、もう一度チャンスをください、もう一度提案させてください」
 
そう言うしかなかった。だが、返事はあまりにそっけなかった。
 
「弊社の採用状況はいま非常に厳しい状態にあります。残念ながら、本気の提案を行うことができない会社とつきあう余裕はないんです」

M社の自社ビルを出ると、ランチに出てきたサラリーマンやOLで街は慌ただしかった。
 
有名な牛カツ屋の前には既に10人以上の行列ができている。並んでいる俺と同年代のサラリーマングループが、何がおかしいのか馬鹿笑いしているのを見て、殴りつけたいほどの怒りを覚える。
 
俺は仕事を真面目にやってきた。1日3件も4件もアポが入り、あんな風に呑気にランチする時間などなかった。文句一つ言わず、会社の為に頑張ってきたのだ。
 
社内研修や行事にも欠かさず参加したし、嫌いな上司の的はずれな説教にも夜遅くまでつきあった。それらのモチベーションが愛社精神でなく自身の評価の為だとして誰が責められるだろう。実際俺は、20人以上いる同期の中でも常に上位の営業成績を上げてきたのだ。
 
それなのに、なんだ。
 
M社の女人事の言葉に、俺は結局何も言い返すことができなかった。あの冷たい表情が頭に蘇り、思わず悪態をつきそうになる。
 
提案? 提案だって?
 
何を寝ぼけたことを言ってやがる。
 
営業の仕事は提案なんかじゃない。
 
多くの大手取引先を抱える営業一部において、営業とはつまり「関係構築」だった。
 
相手の機嫌を損ねないよう気をつけながら、出過ぎたまねはせず、無難な提案と土産を持って馳せ参じる。
 
土産、つまり人事が欲しがる採用関連のデータは会社の共有データベースに山ほどあった。俺は無難な提案書にそういった“土産”を添えて、人事担当に献上する。一方人事は俺たちから受け取ったデータをうまく編集し、さも自分が苦労して見つけ出したもののように上の人間に提出する。
 
「この営業マンは自分の出世に役立つ人間だ」人事担当にそう思わせたら、勝ちだ。
 
名の知られた企業なら、どんな内容の原稿を出そうがある程度の応募数は見込める。人事の仕事は、応募者を集めて履歴書をチェックし、上に面接の依頼をあげる所まで。結果採用に結びつかなかろうが、それは面接を担当した上司の判断で、誰に責められるわけでもないのだ。
 
M社の人事が言ったことの意味が、俺にはわからなかった。「提案」なんて、どの求人メディアにいつ掲載するか、どんなオプションを付けるか、そして値段はいくらか、その程度のものでしかない。
 
俺の250万円を攫っていったどこぞの会社は、一体どんな提案をしたというのか。安かったのか、掲載期間が長かったのか、特別なオプションでもつけたのか。
 
だが、あの女人事の言葉からはそういうニュアンスは感じられなかった。そうだ、彼女はこんなことを言っていた。そう、確か……
 
本気の提案。
 
「はあ? 何言ってんだよ」
 
思わず口から出た。聞こえたのだろう、前を歩いていたOLがぎょっとした顔で振り返った。

社に戻ると営業一部はガランとしていた。全員揃えば30人以上になるオフィスに、営業数名と事務員しか残っていない。皆アポイントに出ているのだろう。
 
「ただいま戻りました」
 
口の中で噛み潰すように言い、自分のデスクに向かう。隣の島田の席が空いているのを確認し、密かにホッとする。こんな気分のときに会いたい男ではない。
 
自席についてパソコンを開いたが、何もする気にならなかった。
 
M社の件は、品川で電車に乗る前に直属の上司に伝えていた。上司と言っても自分と二期しか違わない20代の中間管理職だ。リーダーという役職名がついてはいるが、個人でも営業目標を持たされている完全なプレイヤーで、部下のミスにじっくり対応している暇などない。
 
250万円の契約が落ちたと正直に報告すると、リーダーは電話口で絶句した。その数秒間の沈黙にすら耐えられず、詳しいことはまたあらためて話しますと一方的に言って電話を切った。
 
PCのデスクトップに並んだWordやExcelのアイコンを見ているだけで気分が沈んでくる。思わずそらした視線の先に、壁にずらりと貼られた営業成績のボードが見えた。1人1枚大判の紙が掲示され、名前と今週の売上が大きく書かれている。
 
俺は自分のボードの数字の横につけられた青色の造花を見て、嫌な気分になった。
 
青色の花は「ヨミ達成」を意味する。毎週毎日のように原稿の締め切りがあるこの業界では、口約束で掲載依頼をもらい、実際の申込書は締め切り当日にやりとりすることも珍しくない。
 
「ヨミ達成」というのは、そういった口頭ベースでの申込みを含んだ金額での達成のことだ。たとえ口頭にしろ申込み意思を確認できた売上だから、「ヨミ達成」はニアリーイコール「達成」であり、あの青い花がついた時点で周囲から賞賛の言葉がかけられることになる。
 
しかし、俺は今週、目標を達成できない。
 
いや、俺はそもそもM社の250万円を来週再来週分にも分割して計上するつもりだった。このままでは、今月の月間目標にすら届かない可能性が高い。
 
どう考えても、あの250万は致命傷だ。
 
いや、それ以上に、M社からの信頼に傷をつけてしまったらしいことが大きい。仮にM社との取引がすべてなくなった場合、年間の損失額は2000万円をくだらないだろう。
 
とにかく、M社の件は後でリーダーと相談するとして、この損失を埋めなければならない。
 
PCに向き直りメーラーを立ち上げる。もしかしたらM社から何らかのメッセージが届いているかと思ったが、ボックスに溜まっていたのは商材や施策についての一斉送信メールばかりだった。
 
「クソ……」
 
俺は苛立ちを覚えつつもそれらのメールに目を通していった。割引施策、掲載延長、無料転載、といった文字がいくつも過ぎていく。
 
今や求人メディアはディスカウントストアの様相だ。安価で掲載期間の長いものがもてはやされる。俺たち販社も、そしてクライアントも、もはや求人メディアで簡単に採用成功などしないことを内心ではわかっているからだ。
 
かといって求人情報の露出をなくすわけにもいかない。そういうジレンマの中で、できるだけ安く、できるだけ長く、という心理になるのは当然だ。
 
そんな後ろ向きな状況の中、「本気の提案」だって? 掲載時期と掲載料以外に、一体何を提案しろというのか。
 
うんざりしながら1通1通を確認していった俺は、次に表示されたメールを見て思わず手を止めた。
 
差出人は鬼頭部長。タイトルには「研修の件」とある。
 
ああ、と思った。
 
そうだった。M社のことで頭がいっぱいで、完全に失念していた。詳細はあとでメールしておく、確かに鬼頭部長はそう言っていた。
 
「このくそ忙しい時に……」
 
1週間の研修。入社間もないころはそういう比較的長めの研修が何度もあった。社会人の基礎を学ぶマナー研修から商材を学ぶ版元研修、もう少し実践的な営業スキルを学ぶ営業研修などが毎月のようにあり、最も長いものでは2週間まるまる続いたものもあった。
 
とは言え、3年目のこのタイミングで一体どんな研修を受けさせられるのかは見当もつかなかった。ミーティングルームに呼ばれたのが俺だけだったのも気になる。
 
メールに添付されていたWordファイルを、微かな緊張を覚えながら開いた。
 
内容は意外なものだった。
 
鬼頭部長のメール自体はシンプルな内容で、来月頭、つまり2週間後の月曜日から研修に行ってこいというものだった。意外だったのはその行き先だ。
 
「――HR特別室?」
 
初めて聞く名前だった。しかし、所属はここ営業一部と同じHR事業部。つまり俺の研修先は、外部の企業でも研修機関でもなく、この会社のイチ部門らしい。室長として宇田川裕二、という名前がある。アクセスは2駅隣りの新橋駅から徒歩3分。
 
「新橋? なんだこの部署……」
 
俺は首をひねった。昨年度末、つまり数週間前である3月末に開かれた全社会議でも、「HR特別室」なる部門についての発表はなかったはずだ。
 
もっとも、引き続き組織の花形、営業一部での勤務が決まっていた俺は、営業関連の発表にしか興味がなく、組織図すらまともに見ていなかった。もしかしたらこの4月に立ち上がった新しい部署なのかもしれない。。
 
そのとき、「ただいま戻りました〜」とガキ臭い声がオフィスに響いた。
 
その声の主・島田は、小太りの体に似合わぬ機敏な動きでこちらにやってくると、俺の隣の席にドカッと座った。額には汗。鼻歌を歌いながらパソコンを開き、ガチャガチャと大きな音をたてながらキーを打ち始める。
 
こいつに「営業一部」の人間だという自覚があるのだろうか。無言の非難を込めて大きな溜息をついてみせたが、鈍感王の島田は当然気づかない。キーを叩く音に、んふー、んふーという荒い鼻息が交じる。
 
ああ、鬱陶しい。心から鬱陶しい。
 
まったく、どうしてこんな奴の隣で働かなければならないのか。ふと微かな振動音を感じて視線をやると、床に直置きした島田のビジネスバッグの中で、携帯電話のランプが点滅しているのが見えた。だがやはり島田は気づかない。
 
「おい」
 
うんざりしながら言った。こいつはどうしてこうもどんくさいのか。
 
「おいって」
 
「ん? 何?」
 
「携帯鳴ってんぞ」
 
そう言ってカバンを指差すと、島田はやっと気づいた。
 
「あ、ほんとだ」
 
何がおかしいのか島田は饅頭のような丸い顔をくしゃくしゃにして笑い、カバンの中にドラえもんのような手を突っ込んで電話を取った。
 
「はい、島田です! あ、社長! お世話になってます」
 
オフィス全体に響き渡るような声。くそ……八百屋じゃねえんだぞ。心の中のツッコミが聞こえるはずもなく、島田は大声で話を続ける。
 
もういい。こんな奴を気にしている暇などない。リーダーが帰ってくるまでに、M社の件の報告書をまとめておく必要がある。俺はうんざりしながらも、覚悟を決めてWordを立ち上げ、新規ファイルを開いた。
 
その時――
 
「Cプランだと、税込みで328万6200円になります。はい、ありがとうございます。それでは今からお申込書をFAXさせていただきますので!」
 
俺は思わず手を止め、島田の方を向いた。
 
「いえいえ、そんな、とんでもないです。それに、本当にいい人を採用するまで安心はできませんから。一緒に頑張りましょうね、社長!」
 
島田はそう言って電話を切った。
 
そして、何事もなかったようにまたガチャガチャとキーを叩き始める。
 
「……おい」
 
「ん? なに」
 
島田はニコニコしながら俺の方を向く。
 
「いまの電話、なんだ」
 
「ああ、うん。こないだプレしてきたD工業ってとこなんだけど」
 
「D工業って、あの、千葉のか」
 
名前は聞いたことがあった。千葉県の浦安だか市川だかにある会社だ。確かに数週間前、島田がよくその社名を口にしていた気がする。
 
何を作ってどこに売っているのかまでは知らないが、確か従業員は50人程度。規模的には営業一部の仕事ではないが、島田自身が新規で取ってきたということもあり、そのまま担当することになったとか言っていた。
 
「328万って……お前、受注したのか」
 
「そうなんだよ、取材に行ったらすっごくいい会社でさあ」
 
的はずれな回答をして笑う島田に対し、急激に怒りが膨らんでいくのがわかる。
 
「あんな規模の町工場が、なんでそんな金出すんだよ。お前、一体何売ったんだ」
 
思わず強めの口調で言うと、島田は怪訝そうに俺を見る。
 
「何って、別にいつも通りだよ。オプションはちょっとつけたけど。見る?」
 
島田は鞄の中をガサガサいわせながら探り、中から一枚の見積書を取り出した。引ったくるようにして受け取り内容を確かめる。
 
……確かに、商材自体は俺たちの主力商品に違いなかった。オプションにしても、いろいろつけてはいるが想定内だ。
 
違うのは原稿サイズだ。普通このくらいの規模の会社なら安い小サイズで掲載するものだが、なぜか最も高額な特大サイズの原稿を受注している。
 
「なんでこのサイズなんだよ。必要ないだろ、あんな会社に」
 
頭に血が上っている。口調がさらにキツくなった。さすがの島田も様子がおかしいと気付いたのか、唇を尖らせて俺の顔を覗き込む。
 
「ちょっと、さっきからなに怒ってんのさ」
 
「お前、どんな手を使ったんだよ。どうやってこんなインチキ見積もり飲ませたんだ?」
 
ひどい言い方だと思った。だが、止まらなかった。M社の出来事が頭をよぎる。
 
それに、言ってしまえば、その通りだと思った。こいつはどうしてこんな非常識な提案をしているのか。何か弱みでも握って無理やり契約させたのか。
 
こんなことなら、俺がM社に持っていった提案のほうが何倍も誠実だ。そんな俺の提案が弾かれて、どうしてこんな奴のこんな提案が通るのか。
 
「どんな手って、そんなの、いつもと同じだよ」
 
「だから、それがどんな手かって聞いてんだよ!」
 
声を荒げた。向こうの方で、事務員がこちらに視線を寄越したのが見える。
 
島田は数秒間俺を見つめ、それから微かに視線を落として言った。
 
「その会社のことを一生懸命考えて、1番いいと思うプランを本気で提案するのさ」
 
思わず黙った。
 
本気。
 
またそれか。どいつもこいつも一体何なのだ。
 
「なんだよそれ、意味わかんねえ。だいたいお前――」
 
言いかけた時、デスクの上の携帯電話が震えた。今度は島田のではなく俺のiPhoneだ。
 
頭が瞬時に切り替わり、反射的に手に取った。どこかの取引先が掲載依頼の電話をかけてきたのかもしれない。あるいはM社からの、やっぱり御社にお願いしたいという連絡か。
 
しかし画面を見た俺は思わず唾を飲み込んだ。大きく息を吸い、やっと応答ボタンを押した。
 
「はい……村本です」
 
「俺だ、鬼頭だ」
 
怒っている、瞬間的に思った。
 
いつもの声じゃない。頭の回路がカシャカシャと稼働し、1秒もかからずひとつの可能性にいきあたる。
 
例の件だ。そうに違いない。M社に切られた事が伝わったのだ。リーダーか、あるいはその上のマネージャーからか。
 
俺の予想は当たった。「M社の件、聞いたぞ」鬼頭部長は低い声で言った。
 
「は……すみません」
 
「何があった。話せ」
 
「いや……あの……」
 
そう言われても、俺にも理由はよくわからないのだ。適当な企画を持っていったわけでもないし、準備を怠ったわけでもない。信頼関係づくりは完璧だった。今回の契約も、あとは上司に確認を取って判子をもらうだけの状況だったのだ。それが突然、よくわからない理由で一方的に切られた。そうさせたのは……競合の「本気の提案」。
 
俺の説明は被害者じみた。当然だ。俺は何もミスなどしていない。できれば鬼頭部長にも、「なんだそれ、わけが分からねえな」と言ってほしかった。
 
だが、俺の話を聞き終えた鬼頭部長は、いつもなら1つ2つ挟むジョークも一切混じえず、相変わらずの低い声で言った。
 
「で、お前はどう切り返すつもりなんだ、ん?」
 
まるで脅迫。あのイタリアマフィア然とした風貌が頭に浮かぶ。
 
だが……そもそも俺は「どう切り返すか」など考えていなかった。本気の提案。それが具体的に何を示すのかもわからないのだ。
 
「いや……あの……」
 
口ごもった。島田の隣でそんな姿を晒すのは屈辱だった。そのまま言葉を失ったままの俺に、鬼頭部長は同情的だと聞こえなくもない長い溜息をつき、言った。
 
「村本、お前いま持ってるメインS、全部言ってみろ」
 
「は? Sですか」
 
Sというのはスポンサー、つまりクライアントのことだ。単価が低く数で勝負するしかない営業三部だと一人あたり数百社の担当を持っているが、大手企業中心の営業一部は多くても三十社程度だ。その中でメインS、つまり安定的に取引のあるコアクライアントになれば十社を下回ることもある。
 
わけも分からず俺は自分のメインSを言っていった。その数、十数社。
 
「よし、そこはお前の上にかけあってなんとかする」
 
「は? なんとかするというと……」
 
俺の言葉を無視し、鬼頭部長は急に話題を変えた。
 
「お前、メール読んだか。研修の件」
 
「え……あ、はい、来月からですよね」
 
「明日から行け」
 
「は?」
 
「今日中にさっき言ってたSの状況をリーダーに伝えとけ。お前は明日9時からHR特別室に出社だ」
 
「ちょ……ちょっと待って下さい部長」
 
相手が鬼頭部長だということで抑えていた苛立ちが、急激に膨れ上がった。余りの理不尽に携帯を握りしめる。
 
明日から? 一体何を言っている。この人は現場のことを何も分かっていない。M社のことを知っているならなおさら、「すぐに他の会社を当たれ」と指示するのが上司じゃないのか。
 
「売上を落としたことは申し訳なかったと思っています。でもだからこそ、私はいま現場を離れるわけにはいきません」
 
自然と口が動いた。そうだ、その通りだ。のんびり研修など受けている暇などない。当たり前じゃないか。
 
だが、電話の向こうから聞こえたのは、予想に反した答えだった。
 
「誰が現場を離れさせるなんて言ったんだ」
 
「え?」
 
「お前は明日から、本当の現場に出るんだよ。HR特別室はそう甘くねえぞ」
 
そう言って鬼頭部長は、小さな笑い声を残し、一方的に電話を切った。

(【第1話】イタリアマフィアの爆弾 おわり)

【第2話】ギンガムチェックの神様 >

『HR』全話リンク

【第1話】イタリアマフィアの爆弾(本ページ)
https://note.com/roukodama/n/n54538c23333a

【第2話】ギンガムチェックの神様
https://note.com/roukodama/n/n4bb56475b430

【第3話】息子にラブレターを
https://note.com/roukodama/n/n3dbeb0d81ea1

【第4話】「正しいこと」の連鎖
https://note.com/roukodama/n/n20798aad7d05

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